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アスタリスクを五線譜に*  作者: kisaragi
第一楽章 檸檬音階
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第六小節 蛍の旋律

 夏前の合宿が始まる。


 アイリスは厨房の女王となる。

 お姫様の次はお嬢様。その次は女王様と来た。


 この高校の女子は何故か揃いも揃って料理音痴だったのだ。味覚まで音痴かよ、とあきれ果てアイリスは実家の料理用ワイン一本持って戦場(厨房)に向かった。


 料理は全てで五日分。初日は弁当持参、最終日は最終的に食材整理となるので必要ない。


 朝の担当は朝倉先輩。彼は野菜担当で朝食らしい精進料理が得意だ。昼はパン系やパスタ。時々セレスタンが差し入れを出してくれる。夜は朝の野菜と肉で煮込み料理。


 ざっくりとメニューは決めたが掃除当番等々細々したものもあって大変ではあるが初めての体験は楽しかった。

 意外にも二年生のメインドラムである九条寺海は料理が出来た。


 柚姫曰く、両親が両方ヤンキーで不在の時が多いのだとか。得意料理はお好み焼き、たこ焼き、焼きそば、らしい。得意と言うだけあり普通に美味しい。男料理だが昼メニューは随分助かった。さらに仕切り能力が高い。その辺はセレスタンには期待出来ないのでアイリスは純粋に驚いた。何となく、次期部長は彼だろうな、と思う。春日聖も二年の中では権力者だがどうにもいつも気怠そうな部分が目立つ。そういうキャラだよなぁ、とは思うが完全に部を引っ張れるほどの管理能力は海の圧勝だ。

 伊達に15歳で北関東はシメてない。


 しかし柚姫は海の恋人だ。合宿中にそれらしい気配は皆無だが海は何となくバテ気味の柚姫に気を使っている。それでも随分こざっぱりしている。柚姫は柚姫で欲求不満にはならないのだろうか。


 聞かれさえしなければ彼女はおおっぴらにしないので何となくアイリスも聞き難い。

 海は駄目な所はハッキリと言える。女子ばかりで甘くなりがちな吹奏楽部には貴重な存在だ。ドラムだけではなく打楽器全般が上手いので一年の指導も担当している。

 また教え方が随分上手い。

 パーカスはあっさりとセレスタンの望む合奏のレベルに達していた。

 耳が良いというよりは手先が器用でバランス配分が上手い。


 サックス組には元々、単騎独走レベルの朝倉宗滴がいる。彼はそもそも出席率が低いが気さくで人間関係の塩梅が巧みだ。しかも生徒会書記らしく必要な書類はさっくり揃えてくれる。それでかなり後輩に慕われているし、やはり教えるのも押し付けるのも上手い。ただ、人が良いのではなくて小賢しい訳だが。夜の旧校舎寮は実は霊の巣窟らしい。夜はかなり怖い。そして朝倉は謎の自己流説法をしてくれる、と思ったら実家が寺だとか。そりゃあ、慕われる。


 ホルンはパートリーダーの夢野川の影響か控え目な性格のメンバーが多い。音まで控え目になるな、というセレスタンの指導もあって元々あった肺活量が存分に発揮されている。


 問題なのは女子が占めるパートだ。フルート、ダブルリード、ピッコロ等の高音パート、トロンボーン、チューバ等の低音、弦楽器パート。経験者と初心者の差が激しすぎる。そして経験者は初心者に合わせる気が無い。


 元々の個々の能力は引き上がったがまだまだ合奏というレベルではないし、そもそも全員が自由曲の方向性を理解していないし統一性がない。


 その問題にセレスタンも気が付いている。重要なのは個人のレベルではない、と何度も繰り返し、協調性を高める為のスポーツ、ゲーム等々やってはみたが難しい。

 語彙の問題もある。


 そもそも合宿という集団生活は案外疲れる。アイリスはただでさえ外国人だ。日本人とは感性も違う。合わせられるし空気も読めるが、それでも時々ズバズバと的確に文句を指摘出来る海は純粋に羨ましい。


 三日目にして一年である柚姫と時宗がダウンする。


「夏に、マラソンって頭おかしい」


 この時ばかりは流石に柚姫も時宗に同意した。そんな中でもまだマウスピースから音が出てない一年もいる。


 そんな緊急避難所に海が持ち物を持って戻る。


「そら、さすがに同意だわ。柚、大丈夫か?」

「それ、一年にシング・シング・シングのクラリネットソロは無理。よく頑張った」

「いえ、演奏するのは大丈夫です。ただ、炎天下の三時間は無理です。練習は?」


 柚姫は海から飲み物を受け取り起き上がる。


「昼休憩で切り上げ。午後には朝倉先輩が戻るから午後はコンクール曲の練習だと」

「お昼を食べる自信がないわ」

「無理……」

「無理にでも入れおかねぇと最終日と持たないぜ」

「そもそも何で九条寺いんの?」

「俺、元々体力あるし。経験者の一年もいるから今年は打楽器しかやらねー」

「何ソレズルい!!」

「知らんわ!! あの金髪に言え!」

「そもそも、何でこんな感じになっちゃったの??」


 気が付けば体育会系の部活並みになっていた。


「そもそも同じ三年で蓮華先輩の音が分からないんだ。どっちにしろ何処かで躓く。なら早い方がいい」

「ソレ、蓮華先輩もちょっと異常。昔からぶっつけでも合わせるの上手い人だとは思ったけど」

「で、その蓮華先輩は合宿に来てもくれないのね……」

「そりゃ、合奏出来るレベルでもねーのに居たって無意味だろうが。別に冷たい人じゃねーけど。無意味なことをわざわざしねぇ」

「無意味……」

「無意味だろ。俺はずっと後ろで演奏聴いてたから蓮華先輩の言ってる意味も分かる。この部の可笑しい所は色々あるが……個人が自分の音を聴き定める能力じゃねぇの。放置なんかしたから余計に」


 柚姫は目を見開く。


「え……?」

「自分の音が分かるならアイリスの意見も至極全うだとは思うけど。あのツインテール、言うだけの事はある」

「……そうなの」

「そもそも、お前の言う巧いの基準が分からんな。普通に考えれば自分のパートを吹けるのは当然だ。そこから周囲の音聴いて差し引きゼロにする。別に何も間違ってないと思うが。蓮華先輩は」

「やる方はそうでも、やられた方はたまったもんじゃない」

「自分の仕事をマトモに出来るヤツが何を言っても……。夢野川だってホルンの中じゃ巧いんだろう?」

「た……多分」

「それもこの組織内とすると随分陳腐な気がするが。この組織がそもそも全体レベルが低いんだ。その中で巧くても、ってヤツだな。悪いとは思うが」

「ソレは間違いない。確かに組織内での比べなら陳腐当然。そもそもレベルが低いてちょっと音楽やっていれば分かる」

「そうやって聞くと……確かにこの部は可笑しいかも」


 柚姫はマラソンを続けるアイリスを見つめる。

 汗に靡く髪すら美しい。


 しかしアイリスには密かな楽しみがあった。

 それは夜。こっそり集団生活から抜け出し一人になることだ。


 川辺に線香を焚いて、ジャージでトランペットを持って座る。少し暗いのが怖いが、辺りは風が吹き少し涼しい。そこで一人でトランペットの練習をするのだ。


 アイリスは響一の音を聞いて気が付いた。合奏曲、オーケストラ、クラシックだけ吹いているのは駄目だ。

 響一の本当の音が持つ力。

 表現力。無理のない音の強弱。肺活量のそもそもの差。


 あれは歌だ。


 普通の曲なのだ。時々、聞き覚えのある曲。


 淡い光は線香の光。川の流れる音。そんな曲があった気がする。

 スマホでデータを探していると、足音が聞こえて思わず身構える。


 がさがさ、と緩やかな緊張感のない音は蓮華響一だった。ただのジャージに白いシャツが風にゆったり靡く。懐中電灯の淡い光。

 どこまでも優しい人だ。


「あ、見っけ」

「蓮華先輩、川! 川っぽい曲知りません!?」 

「そ、そりゃ知ってるけど」

「楽器。持って来てますよね?」

「持って来てますけど……」

「ん」


 アイリスは強引に響一に隣に座れ、と指示する。


 響一に抗う術はない。よっくらせ、と川辺に楽器のハードケースを置いた。


「そういえば、あまり見ない形ですね?」

「ああ。これバック。形も古いしな」

「確かアメリカ製ですね。日本のメーカーは優秀なのになんでわざわざ?」

「祖父の形見。実際ボロだけど」

「でもちゃんと手入れしてあるのが先輩らしいですね。ピカピカだ」

「まあ、古いから手入れしねぇとあっという間にぶっ壊れる。ちょい待ち……あった。これなら軽く吹けるんじゃないか?」


 アイリスはイヤホンを手渡される。またゆったりした曲だ。苦手な部分を練習しているアイリスに合わせて選んでくれたのだろうけど。


「分かりました。主旋律は先輩で」

「えっ……」

「先輩で」

「……はい」


 と、何となく演奏が始まる。やはり響一の音は優しい。確かな音に包容力がある。基本的に難しいとされる音階を難なく奏でる。トランペットは腹式呼吸の吸って、吐いてが音に影響されやすいが響一はそれがない。限りなく自然なのだ。アイリスは日夜の練習で頬が痛かったがそれでも癒される音だ。いや、きっとそう吹いているのだ。


 これが合奏だ。

 響一は曲を理解し、音を合わせて出せる。


 ほの暗い川辺が優しい音に包まれる。

 小さな線香の灯りと懐中電灯の光が蛍の光の様だ。


 一曲終えるとまだまだ己の未熟さが目立つ。


「驚いた。随分、表現力と音域が広がったな。この短期間で辛かっただろ」


 優しく頭を撫でられアイリスは素直に頷いた。


「先輩は優しい曲が多いですね」


 いや、違う。彼が奏でるから優しくなるのだ。やっと出す高音でさえ彼が吹くと伸びやかになる。おそらく音大生でも、フランスの音楽留学生でもここまで吹ける人は早々いない。


「まあな。時々どっかで流れて、それで、ってパターンがほとんどだ。だから曲名知らないこともある」

「マジですか!? じゃあ、屋上の曲は?」

「屋上? どの曲だ? 結構、色々吹くから分からんぞ」

「えーっと、」


 アイリスは軽く主旋律を吹いた。ガタガタだし巧くはないが音律を伝える為だ。それでも恥ずかしい。

 しばらく聞いて響一は頷く。


「ああ。その曲か。……それは……うん、」

「え?」

「いや、俺も知らなくて、吹いてたら朝倉に驚かれたよ。『お前、うめーけどその曲ガッチガチに吹くのか』って」

「え? 普通にいい曲だと思いますけど……」

「なんかアニメの映画の曲で内容が随分鬱なんだと。一応、念のため俺も見たら……」

「見たら?」

「朝倉の言う通り、人がたくさん死ぬ時に流れる曲だった」


 と、虚ろな瞳で響一は言った。

 何だか可笑しくて、アイリスはクスクス笑う。


「先輩、今度また一緒に合奏しましょう。先輩だけ曲を選ぶのも不公平です。今度はこれ」


 アイリスは元々用意していた楽譜を渡す。


「むずかしく……なくは……ないな。……俺は」

「当然、主旋律です。結構、先輩好みの曲でしょ? 探すの大変でした」

「……まぁ、そうだな」

「……先輩、やっぱり、まだ合奏は嫌ですか?」

「いや。お前と吹くのは楽しいよ」


 そのさらりとした言葉にアイリスは顔を真っ赤にして楽譜で顔を隠す。

 なんて酷い不意打ちだ。


「そ、そういえば先輩は何処に?」

「実家で祖父の墓参り。命日なんだ。願掛けにはなるだろう」

「そうでしたか……それで」

「しばらくはこっちにいる。……厨房、大丈夫か?」

「せ、先輩~!!」


 アイリスは思わず飛び付いた。汗臭さの一つもなく爽やかな洗剤の匂いがする。


「そう思って色々持って来た。ん」


 と、アイスを渡されアイリスはきょとんとした。


「え……いいんですか?」


 響一が頷くのでアイリスは有り難く受け取った。チューブタイプで二つに割けるやつだ。ありがたいことに溶けても溢れない。頬に冷たい冷気が当たる。


「おいひい」

「後、米は足りてそうだが九条寺に聞いたらメニュー切れっぽい感じがしたからその場でサクッと出来る具を幾つか用意した」

「おお~! 流石厨房の神!!」

「終わり時はどうしてもカツカツになるし、最終日は王道カレーだしな。あまり、かさ張る食材は控えた」

「それは……」

「スイカとかな。代わりに梨とアイスは持って来た」

「流石、先輩だ~!!」


 そう。スイカは案外かさ張るのだ。美味しいのは認めよう。夏の定番だとは思う。しかし大玉スイカは意外と差し入れで良く来るのだ。二個も三個も来るのは困る。アイスや小さい果物の方がよっぽど嬉しい。アイリスはアイスを食べながら響一を見て、むむむ、出来るな、と再認識した。


 一部の部員は合宿も練習もすっぽかして何て部長だ、と文句たらたらだがアイリスの用意した楽譜をいとも容易く吹いている。いい加減、レベルが違うと気が付くべきだ。


「で、大丈夫か?」

「……え?」

「この間、音に酔って倒れてただろ?」

「ああ、まだ目眩は酷いですけど、幾分はマシです。瀬戸内先輩のソロはいいのですが……音に情が入り過ぎて伸びがありません。その辺が練習出来なくてセレスタン先生は頭を抱えてます。先輩こそ、他の曲は行けるんですか?」

「前に一度、朝倉とやったことのある曲だから問題ない。おおよそ、トランペットが表に出る曲は王道なら何とかなる」

「……そのやる気と根気を他の部員に分けて下さいよ」

「これ見よがしに練習するものでもないしな。趣味だぞ。こっちは好きでやっているんだ」


 その言葉にアイリスは瞳を見開く。そのアメジストは淡い暗闇でも美しく光った。


「……そっか、だから私は先輩の音が好きなのか……」

「え?」

「好きですよ。優しくて、温かくて。でもぱーんとしていて。綺麗にロングトーンが消音する。ちゃんと曲を理解した音ですね。私もそんな風に吹きたいと何度も思いました」

「そ……そうか」

「嫌々やってたら、そんな音にはならないですよね。……そっかあ」

「……アイリスの……音も悪くないと思うが」

「そうですか!?」

「ああ。華がある。でもちゃんと音程はしっかりしている」


 間近に迫るアイリスの顔を前に響一はこくこくと頷いた。


「それは……親父に感謝すべきなのかな。口うるさーく音、音、言われたんで。先輩の指使い、時々不思議ですね」

「ああ。変だろ? 小学生まで自己流なんだ」


 と、響一は銀色のトランペットを持ち上げる。


「自己流? どこかのサークルや鼓笛隊には?」

「いや、全く。祖父の防音室で永遠、黙々と」

「……やっぱり、先輩には絶対音感があるんですか?」

「どうだか。祖父の部屋に大量のレコードがあったから曲に触れる機会がたまたまあっただけさ。暇だったしな。そういう……」

「アイリスで良いです」

「アイリスは意外と体力はあるんだな。流石の経験者も倒れたと九条寺から連絡があったが」

「私の家はワインセラーです。葡萄農家も兼用しています。農業は体力勝負ですから」

「……お前の家の葡萄畑はアイリスのトランペットを聴いて育ったのか。中々贅沢な葡萄だ」


 そんな風に言われて、アイリスは顔が真っ赤になった。


 しかし朝方の陽射し。うっすら雲が流れて、霧が穏やかな空気を創る中。銀髪の美女が金色のトランペットを持ち、曲を奏でる姿はさぞや絵になるだろう、と響一は思った。

 何故そんな思考に……と思えばアイリスは普段の三つ編みツインテールではなく、銀色のストレートヘアーが美しく風に靡いていた。ぼんやりと癖は全く無いんだなぁ、と思う。


「だが、何故こんな小さな島国に? いくら師が来ると言っても……」

「まあ、それが第一の理由でしたが、元々交流がない国ではないんです。ウチのワインを良く輸入してくれる高級レストランが幾つかあって。挨拶周りもついでに」

「なるほど。てっきり、セレスタン先生の見張りかと思った」

「……え?」

「そんな感じだったぞ。……あ、そうなのか。大丈夫だ。応援するぞ」

「ちょ、待って……ちが……あれ、そう……だった……ような……」


 アイリスは神妙な顔で黙る。

 そうだった。最所は、セレスタンに付いて行ったのだ。セレスタンは初恋で。何も間違っていない。……初恋? では今は違うと……。


「せ、……先輩の馬鹿ー!!」

「え?! は????」


 突然、アイリスは立った。くるりと回り、響一を睨む。


「で、先輩は? 帰るんですか?」

「いや、合宿も残り二日だろう? 一曲、奏でるとなると調整ぐらいはする」

「……え? 吹いてくれるの?」


 響一は頷いた。


「どのみち最後になろうが一曲ぐらいなら良いかと思えるようになった。お前たちといる間に」


 なんという口説き文句だ。アイリスは等々諦めて真っ赤になった顔を隠しもせず響一の隣に座る。


 柚姫はちょっと怖いと言っていた川。夜には恒例肝試しが行われる川原なのに。線香と懐中電灯の淡い光だけなのに。風が優しく、そして包むような温かさのトランペットの音が響く。


「……先輩の音なら、きっと世界も変えられますよ」

「それは大げさだよ」


 響一は苦笑した。


「ただ、思い出した。俺が楽器をやっていた理由を」

「亡くなったお祖父さんのため?」


 彼は首を振る。


「俺は嫌だった。母子家庭と言うのが、心底嫌だった」

「ちょっと待って、それ私聞いていい話ですか?」


 響一は頷く。


「嫌だったんだ。俺は何もしていないのに。哀れまれて、特殊で、貧困で。他人と違う。今は珍しくはないのだろう。芸能人も随分こざっぱり離婚するしな」

「……先輩」

「実際、貧困ではあった。お袋は常に働くから授業参観、運動会、行事はとにかく嫌いだ。両親が来た試しがない」

「……そんなの」

「常に孤独だ。けれど。楽器を吹くと違った。中学でやっと理解したんだ。楽器を吹いているだけでどこかの何かになれる。俺にとって、吹奏楽部はそういう場所だった。だから合奏は好きだ。ソロで無くて良いんだ。皆で何かが出来ると俺は普通になれるから」


 アイリスの瞳から自然と涙が溢れた。何て悲しい理由だろう。そしてどうしてアイリスと真逆の理由なのだろう。特別になる為ではなくて皆の一部になる為に。


「君はよく泣くな」


 今度は響一からハンカチが差し出される。アイリスは自然と受け取った。


「先輩が泣かないのが可笑しいです。感情死滅しているんですか?」

「ふむ。そうかもな。怒りも悲しみもぬか喜びも裏切りも幼少時に経験し過ぎた」


 聞いただけで壮絶だ。普通の家庭、だなんて幻想だとはアイリスも分かるし、アイリスの家もそこそこ特殊だが家族仲は良好だ。弟もいるが、彼もトロンボーンを始めていて最近苦戦している、と良くメッセージが来る。


 響一は立ち上がった。


「さて、最終日は俺は部長になる訳だ。安心しろ。相応の仕事はする」


「……え?」

「朝倉からデータで今の合奏のレベルが届いた。大体理解した。セレスタンの注文も言いたいことも分かった。例え俺がこの部から去ろうともやるべきことはやる」

「え……ちょっと、今回で辞める気ですか!?」

「辞めろと言われれば。俺は別に吹奏楽部に拘っている訳でも地位に拘っている訳でもない。自分を必要としてくれる場所であればいい」


「……先輩」


「だから、安心しろ。何がどうなっても泣くなよ」


 響一はコンッとアイリスの額におでこをぶつけた。

 しかし、それは無理かもしれない、とアイリスは思った。


「ヤバい、先輩に惚れそう」


 素直にアイリスはもう何も言わず去る響一を見てカッケー、と思った。



 ホールでの合奏日、合宿での練習の最終日。

 粛々と楽器が運ばれる。


 響一は堂々と自分の楽器を持ってホールに入った。途中、セレスタンとすれ違い、腕を掴まれた。


「あの……ちょっとマッテ、言いたいコト、ある」


 必死で身ぶり手振りで何かを伝えようとしていた。響一はキリリとした顔で頷く。


「先生の指揮はデータで数パターン頂きました。方向性も分かるし、俺は好きなタイプの曲ですね。如何しますか。合奏にしろ、と言うならソロでも出来ますが」

「……え、デキルノ?」

「今のレベルに合わせる音になりますね」

「……チガウ」

「え?」

「全力で、響一の吹いて。朝の聴いた。夜のも聴いた。夜の話も聞いた。響一の音、良かったセレスタン好き。言うことは何もない」

「それは……どうも……」

「セレスタン、馬鹿だった。最初に響一の音、分からなかった。今度は私が響一に合わせる。合わせて見せる」


 セレスタンは一人の音楽家として響一と向き合った。響一はお辞儀する。



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