第五小節 そして始まる、新たなステージ
蓮華家はまだクーラーを本格的に導入すべきか並んでいた。
響一の家は所謂都内のマンションだ。
夕暮れ時。自分の部屋の窓をそっと開けると生温い風が頬を掠める。
日は暮れてはいるがジョギングや犬の散歩などで下のちょっとしたスペースにはちらちら人がいる。
少し高い階に住んでいる響一はここからの眺めが結構好きだったりする。
日は暮れ始め、街の電灯が点る。それは遠くから眺めるとピカピカ光る星のようだ。
再提出するテストの答案の添削が切りの良い所で響一は伸びをして立った。
洗面所で髭を剃りながらまだ少し赤い頬を撫でる。
上川すみれに殴られた頬は少し赤みが引いてやはり痣になる様子は無さそうだ。
アイリスが幾つか選んでくれたリップは重宝している。
一つが薬用の無味無臭スティックタイプ。もう一つがチューブ状のゲルタイプ。こちらは主に指先に使う。
爪の手入れにはそこそこ気は使っていたがやはり急にささくれることもあるので助かっていた。
これは何かお礼をすべきか、と響一は悩んだ。
とにかくまずはテスト期間ということで、その前後には部活活動は出来ない。
響一個人の感想を述べるなら、都大会は楽しかった。久しぶりに合奏で公式な演奏会。自分はソロで、プレッシャーが皆無だったとは言わない。
ただ、一応響一は中学からコンクール自体は経験しているから懐かしいホールと緊張感が心地よかった。
吹いているのは自分だけではない。様々な楽器と一つの曲を作り上げる。
遠くに聞こえる拍手。
最初は今、この部のレベルでこの選曲は大丈夫かと思ったがそこはセレスタン。良く考えられている。
奇抜な、目立つ課題曲としっとりとしているが個々の実力が試される自由曲。最終的に自由曲のラストの盛り上がりを骨頂として終わる。
今回はレベルが高かったと思う。
しかし、おかげでどの高校も無難に疾走感と躍動感のある曲選で衝突事故を起こしてしまった。
地方紙にはまだそれほど騒がれてはいない。
ドン、ガラガッシャン。何処からか……言うまでもなく玄関からだ。
考えられる可能性は一つ。響一はリップをポケットにしまって玄関に向かうと玄関には鞄を投げ出し転がる母の姿。
「原稿、上がったのか?」
「何とかね。ご飯は?」
「ああ、すぐ用意出来る」
「おっけー、おっけー!」
「残りでいいか?」
「お願い」
響一はこうして、休日は主に母と姉の世話をして家事をする。
母はスーツをぽいぽいと脱いでジャージ姿。すっかりオフモードだ。ズラリ、と机の上にスキンケア商品が並ぶ。
これらが片付くまでには料理は出来るだろう。
これには理由があって響一はアルバイトをしていないし、強制されたこともない。
高校に入学して、部活を続ける、と一言言えば、母は「そ、じゃ、頑張んなさい」という言葉だけを残した。
姉は実技科目の多いデザイン科に通いながらバイトもしている。私立大学で元々、高校の時からそのデザイン科に行くまでバイトしていたぐらいだ。絵のことは響一には分からないが、姉の場合はそれで相当揉めて現在に至る。
響一が家事をするのは必然だ。そこに不満などないし、料理はむしろ好きなのだ。
男が台所に立つなんて、とは言うが、レシピという絶対的な計画書があるのに何故か完成すると個性豊かな料理。それは少し音楽と似ていた。
より、レシピ通りに。より、美味しく。そう思うことはもちろん大切だが。また楽器に似てそれだけでは語れないのが料理だ。
家は夏苦手属性が多く、皆夏バテ気味だ。響一は時間があれば家から近くの市民プールに通うので比較的暑いのは好きだが、バテ気味の母と姉の為に野菜は多く使う。
母はダイニングで麦茶をがぶ飲みしている。元々、アイリスが麦茶が好きらしく、必要なセットとパックを買ったのだが。
ふぃー、と一息ついて、ダンッと母はコップを机の上に置いた。
「アンタ、女連れ込んでるでしょ?」
「うぉ、あっち!!」
突然の発言に響一は茹で上げた麺の篭を危うくひっくり返す所だった。
麺は無事だ。
「そ、……んな訳」
笑って誤魔化そうとした瞬間、母は面白そうに腕を組んだ。
「お風呂場に見知らぬ銀色の髪があってね。見つけたの燎子だけど」
「……姉貴か……ほら、付け毛!」
「見せてみたけど、最近時々落ちてるのよね。燎子に聞いたら間違いなく天然物。白状なさーい? 我らが女帝一家に敵うと思ってんの?」
「……自分で女帝って」
「うーるーさーい!」
サインペンで顎をつつかれて響一はこれは抵抗するだけ無駄だと諦める。
「ってか、アンタその頬どうしたの? その彼女と喧嘩?」
「あ、いや。これは別件。殴り方が悪くて派手に見えるが痣にもなってないぞ」
「そ。あらぁ。美少女に殴られる、美味しいイベントじゃない?」
「そんな訳あるか!」
その時、後ろからでも分かる。母から妙な視線を感じる。
「何」
「いや、我が息子がモテるって結構嬉しいもんねぇ」
「……ハァ!?」
「銀髪ちゃんは?」
「……」
「本命はそっちか。好きにするのは良いけど、今度会わせなさいよ」
「ちゃんと向こうがその気なら。お前ら、変な風に茶化すだろ」
「ふーん。その気じゃないの」
「ん。どうせ、娘だ、何だ、誤魔化すだろう」
「本命ならキッチリ落としなさい。アンタ、どれだけ私が仕込んだと思ってんの」
「微妙に変な言い方はヤメロ!!」
母の楽しそうな、意味深な表情に響一は考察するのも面倒でドンッと完成した冷やし中華を置いた。
蓮華家の冷やし中華の具はチャーシュー一択。卵、胡瓜、トマトのみ。タレは市販のものだったり、作ってみたり様々だ。今回は作った。
「んー! やっぱりアンタの冷やし中華が一番美味しいわ。私、この後風呂入って録画した映画見て寝るから。部屋入ったら殺すわよ」
「はいはい。夕飯は?」
「そーね。温かいもの。たまにはトマトのシチュー! 冷やし中華の残りの具材は使って良いわよ」
「あいよ。スーツは?」
「上、クリーニング出しといて。まとめて置いとく。洗濯はストッキングとシャツとジャージ。天気悪かったら無理に外干ししなくて良いわよ。新しい柔軟剤買ったから使って。シャツは替えはあるから掛けといて大丈夫」
さて、響一はこの呪文を一度で覚える。
順序は、食事の片付け、洗濯、風呂掃除、食事の準備。
これで、窓のカーテンの上には堂々と姉と母の下着が干してあるのだ。
世の中、家族系でえろいことが妄想できるだなんてそれは有り得ない、と響一はその部分は強く心に思っている。
「了解っす」
「……恋愛相談。して欲しい?」
「なんで失敗した人間に」
「響一のくせに生意気なー!!」
響一は母に頬を引っ張られる。ご丁寧に、殴られた方と反対側を。
「ひはい、はい、すみませんおねふぁいします」
「よろしい。将来の私の娘に早く会いたいもんだわ」
「あの、何故そこまで……」
「分かるわよ。アンタ、その銀髪ちゃん。トランペットと同じぐらい大切でしょ。私に隠れてこそこそ。ま、私が何言うか分かってるからの行動でしょうけど」
「うぐっ」
「まぁ、それはよし。ちゃんと避妊しなさいよ」
「そこかよ!」
「そこでしょ? ほら、失敗者からの貴重なアドバイス」
「……否定できないのが悲しい」
母が豪快に冷やし中華を食べる音を聞きながら、せっせと食器を洗う。妙な視線を感じ、これは何かあるな、と普段の危機管理能力が警告する。
「で、アンタ進学先はどうするの?」
その一言に響一の手は止まる。母との会話は昔からこんな感じだ。アリかナシか、ビシッと決める、もしくはもう決まった件に関する確認。
「……音大」
「行くのね?」
響一は蛇口の水を止め、手を拭いて母と向き合うように座った。
「行く」
「やれるの? つまり、アンタプロ目指すのよ」
「ああ」
否定もない。目は真っ直ぐ。ちゃんと、正面からなんていつ以来だろうか。
「分かった。全国大会。観に行くわ。優勝して金なら認めてあげる。大学まで学費の面は完全サポートを約束するわ」
と、母は響一名義の通帳をヒラヒラと何故かジャージの胸元から取り出した。
「……ハァ!?」
「あ、母さんも行くって」
「……そう、って!!?!」
母の母はつまり、響一の祖母だ。今までにそんなこと無かった。
小学校も。中学の時も。それが今更?
授業参観だなんて笑わせる。これは何かある。響一、個人のレベルを知りたいのなら母一人でいい。
「……今更、授業参観かよ」
「一応、アンタがめちゃくちゃ上手いってのは知ってるわよ。保護者会でも良く言われるし。でもどんなもんか気になるじゃない?」
「え、いや、優勝って、そりゃ……」
都大会ですら快挙と言われているのだけれど。
「本当は都大会も行ってあげたかったけど、まだ早いかなって……」
「……はい?」
「いや、私再婚するのよ」
「はぁあああああ!?!!」
「んで、新しい親父がめちゃくちゃ観たいってね」
「ちょっと、…え、はい」
流石に会話の展開に付いていけず。
響一はフリーズした。
しかし、母はまだ若い。再婚の可能性なら幾らでもある。
ぴちょん、と水道から水の落ちる音が嫌に響いた。
「……名前は」
「何、やっぱりアンタも嫌? そこは燎子も同じだったわ」
「そりゃあ、加藤から蓮華になって佐藤になれるか」
加藤響一。蓮華響一。佐藤響一。何故か、この中で蓮華が一番フィットする。それぐらいには。それぐらいには、響一はこの『蓮華』という名が染み付いていた。
「そうそう。そんな感じでね。燎子はそれだじゃなくて。蓮華って変わった感じがそこそこ気に入っているし、長い間に愛着もあるから自分が結婚するまでは嫌だって」
「ああ。この時期は流石に面倒だし、困る。蓮華が佐藤になるのは」
「……何で、燎子もお前も、二人して親父の名前、当てるかね。安心になさい。向こうがコッチ来るの」
「……はぁ」
突然、目の前に本が置かれる。
これは漫画だ。
なんというか気の抜けた絵柄で、しかしそれで全て統一されている。所謂、日常系、ほのぼの系、というのか。その辺は姉の方が詳しい。
そんなことを認識するのに頭を使うほど感情が付いて来てないのだ。
「これを描いたのが、親父の佐藤マジメ。これはペンネームね。本名は佐藤唯一」
「どっちがどっちでも変わらん……ってまた作家かーーーー!!!」
「あはははは。燎子と同じ反応だわ」
詳しく知っている訳でもないし、最早父親の顔なんて思い出せない。名前もぼんやり、そういう名字だったな、というぐらいだ。それでも、知っている。
母が昔、学生の頃。結婚した男は作家だ。どういう作家で、何をしていたかは興味がないので知らないが。
「けどね。一応、私も分かってたし。トラウマだし。一応さ。そういうの全部吹っ飛ばして来たから。悪い奴じゃないのよ」
「そりゃあ……俺だって母の選美眼は信頼している。……男以外は」
「そう来ると思って。もう呼んじゃった」
「はぁあああ!?!!」
「部屋、一つ残ってたでしょ。現在、あそこに居住中」
「部屋って……まさか、あの、……」
最後の一つ。
鍵の掛かる。防音の魔法の扉。魔法の部屋。祖父の、遺品が残る部屋。
「ごめん、アンタの物はアンタの部屋に移動したわ。防音も付けてあげる」
「……」
「流石に、嫌だった?」
「そりゃあ……」
「けど、実際あのまま、あそこには置けないのよ。西陽も強いし。祖父の遺品を使うのは響一ぐらいでしょう? だから母さんも移して良いって。ちゃんと唯一使って元通りに! 傷一つ付けず移動したわ。それで……」
母は響一名義の通帳を握り締める。
「それでも、嫌だったらお祖母ちゃんの所、行きなさい。あそこならもっと大規模な防音室もあるから。通学は大変だけど、こっちで出すわ」
「……母さん」
「一週間でいい。自分で、見て、自分で知って。あの人のこと。そして自分で判断なさい。アリか、ナシか」
「……」
母が、こっそり、キャリア・ウーマンのフリをして。必死に働いて、働いて。とにかく働いて。生活保護には頼らず働いていたのは知っていた。
以前の、つまり響一の本当の父親は作家で、愉快な人だったが金使いの荒い人だった。たまたま売れなかった頃に、母は必死に父に働くことを進めたが、作家のプライドが許さず。
一気に家庭は貧乏になり。
喧嘩は絶えず。母は働く。
そして家庭は崩壊した。
一応、父側の遺族が強く、親戚は育てることもでき、金もあったのでしばらく父元にいた頃はあった。
それも悪くは無かったが、当時の姉と響一は必死だった。
姉と二人、母がいい、お母さんと暮らしたい、と大号泣の大絶叫で現在の形に落ち着いた。
その癖が抜けず、とにかく母は働く人だった。
姉の名義の通帳もある。その額は言えないが、慰謝料だけではこんな額にはならない。
そんな母は母だが女性だ。しかも年齢も若い。
一人の女性なのだ。それは響一が最も理解している部分だ。
親だから。母だから。
当然。けれど、とにかく彼女は女性でもある。
「……分かった」
響一は思わず、ぎゅっと腕の時計を握る。唯一、父の形見と言えば良いのか(一応、父親はまだ生きているし)分からないが、相当良い時計だ。喧嘩の際、母が『キャベツ買って来い、つったのに、何で時計になるんだよ!!』と父の車のベンツに向かって投げてぶっ壊したので、少し表面にヒビは入っているが今でも正確に時間を刻む。
部屋に入るが、色々な音が耳障りだ。
フローリングに響く足音も。パタン、というドアを閉めるさえ音も。
響一は電気も点けず背中をドアに預けた。
正直、キツい。
何が、と問われると困るが、とにかく今までの『日常』は壊されてしまった。
絶対的な『母』を失いかけ、必死で姉と共に母の側にいたいと叫んだあの頃。
その後も母は家におらず、夜を迎え、朝を迎え。けれど、彼女は絶対に『帰ってくる』のだ。
そんな生活が終わる。
彼女は仕事を辞めるとは言っていなかったから、別に母親恋し、という訳では無く。もう等の昔にそんな感覚は狂っていて、それが響一の日常だった。
こんな時、無性にあの、アイリスのトランペットが聴きたくなる。彼女が時々、フランスの曲を奏でているのは知っている。
まだ、曲名は聞いていないので知らないが。
何時だったか。個人練習の時か。
中庭で一人。夕暮れの放課後。枯れかけの藤が揺れると彼女の銀髪も揺れる。
どこか、懐かしいような。異国を思わせる曲。
必死に練習もしているのか、コンクールの楽譜もあり、そこには沢山の注意書の文字が書かれていた。
重厚で、優しく、でも華やかで、力強く、気品に溢れる音。
きっと彼女はこっそり覗かれていたと知ったら怒るだろう。
何故、声をかけないのかと。
もちろん、声をかけたい。
しかし響一が声をかけると演奏は止まる。ずっと聴いていたかったのだ。眺めていたかったのだ。
あの、神々しい光景を。
響一は思い出して、引ったくるように自分のトランペットを取り出した。
フルオープンのケースを開けると、現れたのは美しい銀色。
その銀色耀きは確かに彼女に似ていた。
曲を頭の中で描く。
記憶の音。多分、吹けるだろうが、ピッチがいつもと違って少し重音だった。
本当はもしかしたらもう少し低音なのかも知れない。合唱曲の可能性が高い。
この時間に吹いたら怒られるだろうか。まあ、少しぐらい、いいか。たとえ怒られようが。
これで合っているのかは分からないが、響一は思うまま、その曲を奏でた。
部屋に響く音。
曲調は合っている。けれど、彼女のように奏でられている気はしない。
妙に、その一曲は短く、二分ぐらいで終わった。
何故だか、彼女に思いっきり背中を叩かれて、元気出せよ!! と言われた気分だ。
それでも、少し。
勝手に流れる涙を抑える事は出来なかった。
ゴンッと扉に頭を預ける。
この年になって泣くのは随分久しい。
この感情をどう表現したら良いのか分からないが、響一はそんな涙を隠すように顔を腕で覆った。




