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第26話「鏡には醜いものが映る」

小説は人間を描かなければいけないとは十中八九言われる事。


そして人間があまり好きではない自分としてはそんなことを言われると真顔になります。


人間とはなんだという静の形態、人間とは何をするものだという動の機能。

そんな風に書けばいいと何となくは思っているのだけど、

実をいうとやっぱり人間を描くのはあまり好きではない。


人間に対してはアンビバレンツ(両価性)な視点で見つめていたいし、小説はどうも人間の価値をどちらかに一定にしたがるという考えをやはり自分は心の何処かで持っている。

小説は人間を自由に描くものでありながら人間の価値を固定化しようという企みがある。

だけどもだけどその葛藤を含めて小説に逆らった小説を書いてみたいと思うのも事実なのだ。


人が嫌いと言ってもそれはおおよその話で、それ以外で僕が好むであろう人のタイプ、総人数は人類全体から見れば少数だ。


色んな本を読んで人の考えなりを知ることはしてきた。

でも嫌な気持ちになったりすることが多かったから、現在、好きな人より嫌いな人の数が勝ってしまっているわけだ。

人間嫌いの僕からしたらいつもの事である。

書いてる人間の人柄を感じることが僕の感覚では優先されるみたいだ。

本を読んでいてもなぜこんな風に乱暴にしか言えないのか、と思ったり、こいつは自分の諦観を自慢してるだけでねえかと考えたりもした。

それでも、違う考え方の人の言葉の中にも感心する言い回しはあったりする。


嫌な気持ちになる文章の根底は愚痴、嗔恚(しんに、と読む。自分の考えと違うものを憎むこと。勝間和代が良く言う。愚痴と同じく仏教における『三毒』の一つ。)が存在している。


僕は人は好きではないが、人に対する愚痴や嗔恚はあってもそれは文章にはすまい、とは思っている。

そんなもの読みたくもないし読ませたくないし、書きたくもないからだ。


残念だが今さっき読んだ本がそういう文章が溢れていた。

読んでいて気分が悪くなり、気を取り直そうとボンカレーの箱をダーツの的にしたいけど今のボンカレーの箱はそれに適したデザインだろうかということを気晴らしに考えたりした。


その本は題名から有意義な意見があるものだと楽しみにしていたのだけど残念だった。

一応参考になる意見はあることにはあった。でも読み通すのは無理だった。

他人への愚痴で本を出して金を取れる時代だったのだろうか。

よく見ると著者名が無い。

〇〇〇〇の会のように、個人名、ペンネームすらなかった。

その会が一体何をしているのかが解らない。

さらに言うとまえがきがないのでこちらがその文章を読む時の構えを用意していない。

卑劣と言えば言葉が強く大袈裟に聞こえるが、卑劣だ。


書いた人が目の前にいるならこういうかもしれない。


それって、自分が言われて嫌な言葉で書いたわけではないですよね?

他人への攻撃の罪悪感を、自分にも痛みを加えてる事でごまかしてるんですか?

だからあんなに口汚くなるんですか?

自分にも痛みを加えてるから相手の痛みを無視できるんですか?


と言ってみたい。実際言ったら傷害事件になるだろう。

相手が自分の非を認めるしかない道筋、逃げ道のない言葉で追い詰めているからだ。

これはきっと、僕が言われても嫌な、非常に嫌な言い方の言葉なんだろうな。

頭の良い奴は嫌いだなどと言っておいてこんな頭の良いつもりになってこんな事を自分でいってしまう。


人が嫌いと言っても自分もその人なんだ。


だけども僕は人の悪口が好きなわけではない。

もしかしたら人の悪口を言う人間が嫌いなだけなのかもしれない。

嫌いなものは、それを上回る振舞いを心がけるしかない。我慢しながら。

だから人にものを言うときはあんなふうに感情を語尾くらいには微かに表して言葉を選ぶ。我慢しながら。


我慢しなかったら「俺から見たらあんたも悪口言った人も同じだよ」で済む。

我慢してないのに短くなる。

言葉は不思議だ。

もしかしたら言いたいことを我慢しながらものを書くと文章量が増えるのか?これは発見だろうか。


それにしても愚痴は書くもんじゃない。つくづくそう思う。


しかしまた一つわかった事があるのだ。


文章を書く中に愚痴や嗔恚は必ず入り込む。人間だから必ずそうなる。

それらをコミカルに見せなきゃならない、おかしく見せなきゃならない、読んでる人へのサービスに書くことで転換しなきゃならない、と言うことだ。


ならないならないばかりであれだけども、愚痴があるのは人間として当然なのだから、愚痴マネージメントは文章を書く人間の仕事の内なのだろう。

そして愚痴が募れば肉体も精神も要らぬ争いを招くはめになり、嗔恚もまたその争いに駆り出されてもう文章を書くどころの話ではない。

そんなことになる前に人はせめてもの手段として文章を用いるのだろう。


自分が読んでていい気持ちのする文章の存在とは、書いてる人の愚痴や嗔恚がまったく存在しない漂白された世界ではなく、その愚痴や嗔恚との、良き葛藤を滲ませるものかもしれない。

それが読み手の快としてサービスされているかどうか。


それは「お前もあいつが嫌いだろ、一緒にボコボコにしてやろうぜ」と言ったものではない。

そして自分の意見と同じだからと言って同調してそういういい気持ちになる、ということでもない。

自分が思う、そういう文章に出会えたら幸せだと言える。

そういう文章を書くのもまた夢である。


それは、嫌な事は避けられなくても嫌な気持ちなら自分の文章を書くことで乗り越える事は出来るかも知れないと言うことだ。


そして、あなたが文章を書くのは何故ですかと聞かれたら僕はこう答えるはずだ。

己の心に勇気を優しくよみがえらせるために文章を書くのですと。


最後に、人間が嫌いだという僕の愚痴が、どの様に僕の文章が関わっていくかを見ていきたい。


素晴らしいとも愚かともつかない、その間で揺れている人間の運動に、僕自身もその運動に混ざるべきなのだ。

人間のしての揺れの運動は僕自身も大いにするべきだ。


人間をどのように見るかは自分がどのような人間かにかかっているから。


それはつまり馬鹿っていうやつが馬鹿なんだ。

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