第7話
高所に浮かぶ瓦礫の上で。
リアンのあの高貴で冷艶な、俗世の垢とは一切無縁に見えた表情が、この瞬間に明確な、肉眼で見えるほどのヒビを見せた。
彼女は広げた腕は宙で凍りつき、気勢を張るために少しツンと持ち上げていた顎は、今や滑稽でしかない。暗赤色の瞳には、信じられないという驚きと、深く侮辱されたことへの怒りが満ちていた。
(私が……三十分も稽古して、五回もリライトした宿命の宣告が……あの酔っ払いのハゲオヤジに『ぐだぐだ』の一言で片付けられたの!?)
リアンの内心は荒れ狂っていた。悪役としての尊厳を地面に投げ捨てられ、豚に何度も踏み荒らされたような気分だった。
言霊を使って、あのオヤジの口の中に毒キノコを生やしてやりたい衝動に駆られた。
だが、それはできなかった。彼女は至高の美学を追求する名もなき女王。たった一言のツッコミに逆上して平民に手を下そうものなら、このステージの格調が完全にドブ底へと滑り落ちてしまう。
リアンは深く息を吸い、歪みそうになる顔の筋肉を無理やり制御し、泣き顔よりも引き攣った「優雅な微笑」を絞り出した。
「卑俗な魂には、高尚な芸術を理解することは叶わないものよ。お前たちを責めはしないわ。ただ、この世界のセンスが朽ち果てていることを憐れむだけ……」
リアンは上から見下ろす憐れみの調子でその場を丸く収め、先ほどの極まりの悪さを誤魔化そうとした。
しかし、彼女にその機会を与えるつもりのない人物がいた。
「世迷言を!」
セレナはついに、この理解不能な狂言劇に我慢の限界を迎えた。どんな芝居を打っているにせよ、騎士にとって、人々を恐怖に陥れ、閉じ込める輩はすべて制裁すべき敵なのだ!
「ドゴォン!」
セレナの足元の石畳が激しく砕け散り、彼女の身体は銀と金が織りなす狂暴な流星と化して、直進する勢いで発光する階段の紋様を駆け上がり、宙のリアンへ向けて雷霆のごとき突撃を仕掛けた!
「いい反応ね!」
眼下からすさまじい気迫で迫り来る騎士姫を見つめ、リアンの内面における極まりの悪さは、瞬時に戦闘の昂揚感へと書き換えられた。
これこそが、彼女の求めていた主役のリアクションよ!
リアンは脳内で、かねてより用意していた『シナリオ対応プラン』を瞬時に展開した。
(相手の突撃速度は非常に速い。けれど、私の位置は地上から二十メートル。彼女の現在の加速度から計算すれば、私の目の前に到達するまで二・五秒。彼女が三歩の距離まで接近した瞬間に、高位言霊『静止』を発動させ、その動きを強制停止する)
(そして、私は指先で彼女の剣先を軽く押さえ、上から見下ろして告げるのよ。『その無謀な衝動が、お前の掲げる正義かしら? 愚かね』と)
(その完璧な台詞を吐いた後、私は瞬時に散り散りになる暗色の薔薇の花片と化して、優雅に夜空へと消え去る……完璧ね!)
すべては計画通り。
リアンはそこに佇んだまま、両手を後ろに組み、底知れない笑みを浮かべて目を半分だけ細め、盤面を完全に支配している余裕を見せつけた。
セレナが迫る。
二十メートル、十五メートル、十メートル、五メートル。
(今よ!)
リアンは心の中でカウントし、朱色の唇を開いて、高位言霊の最初の一音を紡ごうとした。
「ふふふ、遅いわ、『静――』」
しかし、その瞬間、リアンの視野の端が信じがたい光景を捉えた。
セレナは空中への跳躍が頂点に達した際、通常の騎士のように失速して落下しなかった。彼女の両目はまばゆい青い光を放ち、手にする重厚な制式鉄剣から、あの純粋で凄まじい金色の力が再び噴き出した。
その力は大気の中に肉眼で見えるほどの推進波を形成し、足場の存在しない空中で、セレナに第二の加速を行わせたのだ!
その速度は、リアンが綿密に弾き出していた予測値を、一気に二倍も上回っていた!
『ス』の一音が発せられたばかりで、言霊の魔力が空気中で固定されるより早く、骨まで凍るような突風が、致命的な金属の光を孕んで、リアンの眼前へと咆哮を上げて迫り来ていた。
セレナの剣は、三歩の距離で止まりなどしなかった。
それどころか、山をも両断せんとする凶悪な威力で、リアンが誇るその冷艶な顔面へと、情け容赦なく振り下ろされたのだ! リアンには、その鉄剣の刃先に刻まれた、長年の訓練による無数の小さな刃こぼれまではっきりと見えた。
「えっ!?」
リアンの脳内はこの瞬間、完全にフリーズした。
「指先で剣先を受け止める」だの、「暗色の薔薇と化して消える」だの、絶対に勝てない速度差の前には、すべての設定など一瞬にして泡と消え去った。
(死ぬ! 顔が潰れる! 頭がスイカみたいに叩き割られるわ!!!)
生存本能の赴くまま、常に優雅で余裕の態度を崩さなかった名もなき女王は、その生涯において最も無様なポーズを取った。
彼女はなりふり構わず、背骨がきしむほど無様に上体を大きく後ろへとのけ反らせたのだ。
「ヒュッ!」
重い鉄剣は猛烈な風圧を伴い、リアンの鼻先をかすめて振り下ろされた。鋭い剣気が彼女の額を飾る白銀の髪を数本削り取り、白い鼻筋に微かな赤線(かすり傷)を刻んだ。
「ドゴォン!」
セレナの放った一撃は空を斬り、リアンの足場であった崩壁の瓦礫を真っ二つに叩き割った。砕けた石が飛び散る中、二人は同時に落下していった。
落下する最中、リアンの心臓は早鐘のように鳴り響き、冷や汗がドレスの背中を一瞬で濡らした。
(危なっ! 危なっ! 本気で危なかったわよ!!!)
(あと少し! 本当にあとちょっとで、私の鼻が、頭が吹き飛ぶところだったわ! あの女騎士は怪物か何かなの!? 空中で二段階加速するなんてあり得ないでしょう! ニュートンが泣くわよ!?……って、そもそもニュートンって誰よ!? 聞いたこともない名前がなんで口から出てくるのよ私! まあいいわ、とにかく死ぬかと思ったわあああああ!)
内心では叫ぶマーモットのように発狂していたリアンだが、その強靭なプロ意識とメンツに対する病的なこだわりから、着地の刹那に無理やり格好をつけた。
彼女は空中で無理やり体をひねり、残存する魔力で足元に黒い蓮華を咲かせた。その花を踏みしめ、十メートルほど離れた石像の頂点へと優雅に着地してみせた。
その立ち姿は依然として優美であったが、注意深く観察すれば、彼女の胸元は激しい動悸によって上下に細かく波打っていた。
セレナもまた、危なげなく地面に着地していた。一撃を躱されたくらいで彼女の闘志は衰えず、瞬時に身を翻して大剣を両手で構え、鷹のような鋭い眼差しで彫像の上のリアンを睨み据えた。
(躱した? 流石は『夜蝕会』の幹部ね)
セレナは奥歯を噛み締め、心の中で驚愕していた。今の攻撃は完全に全力だったにもかかわらず、間一髪であのような不可思議な姿勢で回避されるとは。
石像の頂点。
リアンは動揺を押し隠すように生唾を飲み込んだ。彼女は呼吸を平穏に保ち、一本の指を伸ばして、削り取られたばかりの銀髪の端を何気なく耳の後ろへと払い、まるで何もかもが掌の上の出来事であるかのようなトーンで口を開いた。
「悪くない身のこなしね、騎士姫」
その声は依然として冷たく、どこか上から目線の賞賛を帯びており、先ほどの無様な回避など最初から手心を加えた演出だったと言わんばかりであった。
「空中で限界を突破してみせるとは、お前の力には確かに些かの驚きを覚えさせられたわ。けれど残念ね、本物の絶望たる深淵に比べるなら、お前の剣は……あと一拍子足りないわ」
そう語り終えると、リアンは心の中でこっそり自分に拍手を送った。
(完璧! 今のフォロー、我ながら最高だったわ! さっきの無様さを隠すだけでなく、相手の出鼻まで挫いてみせるなんて。やっぱり私は天才よ!)
セレナは眉をひそめた。嘲りに対して怒りを燃やすことなく、より慎重に盤面を見極めようとする。
(さっきのは間違いなく私の刃が届く距離だった。何故あそこまで平然としていられるの? あれすら彼女のテストだったとでも言うの? それとも、まだ見えない結界が潜んでいるの?)
セレナが攻勢を止め、慎重な姿勢に転じたのを見て、リアンはハッタリが功を奏したことを確信した。
そして、潮時でもあった。この『第零幕』は、途中で二大トラブル(オヤジの罵声と頭部破壊の危機)に見舞われたものの、大体の目的は達成できた。
彼女は再び直立し、両腕を広げた。
今度は長々と無駄口を叩くような真似はしなかった。万が一、眼下のハゲオヤジがまた雰囲気をぶち壊す叫びを上げたらたまらないからだ。
「今宵の余興はここまで。常闇からのお披露目の挨拶と思って受け取るがいいわ」
リアンの声は、遠くから漂ってくるかのように低く透き通った響きへと変わった。空の食い欠けた月は、怪しげな暗赤色の光を放ち始める。
「この瞬間を刻んでおきなさい。七日の後よ」
リアンは一本の指を立てて唇へと当て、内緒話の仕草をしながら、暗赤色の双眸に嘲りの光を宿した。
「七日の後、聖月祭の夜。月蝕が完全なる降臨を果たすその時……『王都崩壊』と題されたこの戯曲の、本物の幕が開くことになるわ」
「ごきげんよう、勇敢で無謀な少女。七日後の舞台を楽しみにしているわ」
言葉が消えぬうちに、リアンの姿は水に溶ける黒インクのように紫黒の霧の中へと溶け込み、無数の黒い夜鴉となって四方八方へと散り散りに羽ばたいていった。
「逃がさないわ!」
セレナは鋭い怒声とともに手にしていた長剣を全力で投げつけ、十数羽の夜鴉を突き刺して霧散させた。しかしそれらは純然たる魔力の残像であり、リアンの本体はすでに影も形もなかった。
リアンの消失とともに、空の不気味な月は一瞬にして清らかな白銀へと戻った。広場全体を包み込んでいたダークパープルの結界『序幕の庭』も、針を刺されたシャボン玉のように、音もなく霧散した。
黄昏は完全に去り、冷ややかな夜風が広場へと吹き込んでいた。
閉じ込められていた平民たちから、命拾いしたことへの安堵の泣き声と感嘆の声が沸き起こった。ようやく騎士団の増援が駆け込み、秩序の維持と平民の救護活動が開始された。
セレナは閑散とした広場の中央に立ち、激しく肩で息をしていた。警戒を解くことなく、鋭い視線を周囲へと巡らせる。
不意に、彼女の視線が数歩先の一点へと固定された。
平らな青石の床の上に、黒いエンブレムが一つ、静かに横たわっていた。
セレナは近寄り、腰をかがめてそれを拾い上げた。それは精巧に彫刻された暗い三日月の徽章であり、触れると冷たく、その材質は不明だった。何より、そこには先ほどの女と同じ特異な魔力の残滓が微かに息づいていた。
さらにセレナを惑わせたのは、その残存する魔力から、悪意や殺気が全く感知できなかったことだ。
(七日……七日の後にさらに大きな災厄が起きると言っていたわね)
セレナは三日月の徽章を固く握りしめ、眉を深くひそめた。「名もなき女王」と名乗ったあの曲者は、あれほど恐るべき実力を持ちながら、ただ意味不明な演説を打つためだけに現れ、これまた要領を得ない予告状を突きつけて去ったというのか。
彼女は一体、何を企んでいるの?
「隊長! ご無事ですか!」
エラが部下を引き連れて駆け寄り、焦燥に満ちた表情を浮かべた。
「私は無事よ」
セレナは徽章を懐に収め、非常に深刻な面持ちで副官を振り返った。
「団長へ即座に報告を。王都を最高レベルの警戒態勢へ移行させて。あの者……七日後に必ず戻ってくるわ」
夜更け。王都の高級街に佇むセーフハウスの宿。
「バタン!」
スイートルームの頑丈な木の扉が重々しく閉まった。
リアンはあの忌々しい広つば帽子を乱暴にむしり取ると、高価なペルシャ絨毯の上へと投げ捨てた。鏡台へと大股で歩み寄り、鏡に映る自身の、数本切り取られた前髪と、鼻筋に走るほとんど見えないほどの赤傷を凝視し、全身を怒りに震わせた。
「私の前髪が……私の完璧なビジュアルが!!」
彼女は怒り狂って指を握りしめ、まるで癇癪を起こした子供のように、鏡台の上に並ぶ化粧品のボトルを乱雑になぎ倒した。
あの木偶の坊たる無面は静かに部屋の隅に直立し、必死に自らの存在感を消そうと努めていた。
リアンはドサリと机の前の椅子に座り、『戯曲リハーサル・反省ノート』を乱暴に開き、羽ペンを握って紙を突き破らんばかりの勢いで、本日の活動報告を殴り書きした。
【序幕作戦反省会:】
【登場シーン演出効果:十点満点中七点。(言葉のチョイスは優美で、気迫も凄絶だったが、肝心の音響・視覚効果が著しく欠如していた。次回は必ず無面に花火の術式を習得させること)】
【観客の質:十点満点中三点!!! (特にあの忌々しいハゲオヤジ! 奴のセンスは下水道のドブネズミ以下だわ! 私の輝かしい経歴における最大の屈辱よ!)】
そこまで書くと彼女はペンを止め、脳裏に怒りを燃やすセレナの青い瞳と、あの神業の如き大剣の一撃を思い浮かべた。
彼女は不服そうにペン尻を齧り、しかし演出家としての公正さをもって、第三の条文を付け加えた。
【騎士姫の演技:想定外に素晴らしい。あの眩い正義感といい、窮地における瞬発力といい、私の求める『好敵手』の役柄に完璧に合致しているわ。次幕において、さらに大きな役割を割り振る価値は十分にある】
【総合評価:プロローグはおおむね成功。王都への恐怖心は植え付けられ、七日間のサスペンスも提示完了】
【ただし!】
リアンは『ただし!』の文字の下に、激しく三本の下線を引いた。
【オチが台無し! あのハゲオヤジが雰囲気をすべてぶち壊したわ! それにあの女騎士、今後の近接戦闘におけるあの理不尽な突進は絶対に対策しなければならない。女王たるもの、二度と『ブリッジでの剣回避』などという尊厳を踏みにじる無様なアクションを取ってはならない!】
怨念に満ちた反省ノートを閉じると、リアンは強く本を閉じた。
彼女は立ち上がり、再びバルコニーへと出て、厳戒態勢に移行し、至る所で松明の灯火が蠢く王都の内城を見下ろした。
「セレナ・ヴェスト……」
リアンは自身にしか聞こえない小声で、騎士団の情報網から手に入れた、あの金髪の少女の名を呟いた。
「見事に私の気を引いてみせたわね、騎士姫。これからの七日間、私が直々に誂えてあげる……極上の悪夢を楽しみにしておきなさい」
夜風の中に、悪趣味な笑い声が微かに溶け、消え去っていった。




