最終話「未接続のまま」
地面を蹴るたびに、足裏から現実が伝わってくる。砂のざらつき、草の湿り気、呼吸の重さ。旧校舎の窓から飛び出してから、頭の中は不自然なくらい静かだった。あの風の音は消えている。誰かの言葉が重なる感じもない。自分の思考だけが、まっすぐ流れている。
それでも、安心はできなかった。
ポケットの中の装置が、じわじわと熱を持っている。強制遮断は短時間しか持たない。時間が経てば、また“繋がる”。その前に、決めなければいけない。
足を止める。旧校舎の裏手。柵の向こうに、外の道路が見える。ここを越えれば、学校の敷地の外だ。けれど、それで終わる保証はない。スマホがある限り、あの仕組みは残る。位置も状態も、どこかで拾われる。
ポケットからスマホを取り出す。画面は暗いまま。遮断されている証拠。けれど、これが解除された瞬間、何が起きるかはわかっている。
——同期再試行
——状態再評価
——安全のため
あの言葉が、戻ってくる。
「……どうする」
自分に問いかける。ここまで来て、選択は一つじゃない。持ったまま逃げるか、ここで捨てるか、壊すか。どれにも代償がある。
持てば、追われる。
捨てれば、戻れない。
壊せば、何も残らない。
視線を上げる。校舎の方。遠くに見える窓。あの中に、まだ“同じ顔”たちがいる。担任もいる。元担任は、あの切断域に残っている。
あの人は、逃げなかった。逃げられなかったのかもしれない。でも、あそこに留まって、何かを残してくれた。紙の言葉。切断域。強制遮断。ここまで来られたのは、あの人のおかげだ。
「……終わらせるなら」
口に出すと、少しだけ怖さが形になる。
終わらせる。自分が逃げるだけじゃなく、この仕組み自体を断ち切る方法。
思考を辿る。入口で書き換え。校内ネットワーク。つまり、中心がある。配布する場所。同期を管理する場所。そこを止めれば、少なくとも“新しく繋ぐこと”は止まる。既に繋がっている人たちはどうなるかわからない。でも、これ以上増えない。
問題は、そこにどうやって入るか。
遮断は、まだ持っている。短い時間なら、あの干渉を押し返せる。旧校舎は切断域。そこを起点に、校舎の中心へ近づく。
「……戻るしかない」
喉が鳴る。怖い。逃げ切ることもできる。でも、それだと、このまま同じことが続く。誰かがまたログインする。知らないまま、揃えられる。
スマホを握る手に力が入る。
「……これ、使う」
決める。捨てない。壊さない。逆に使う。中に残っている“繋がり”を辿る。どこに集約されているかを、探る。
装置のスイッチを確認する。まだ切断状態。残り時間は体感でしかわからない。長くはない。
柵に手をかける。越える前に、もう一度だけ振り返る。旧校舎の窓。あの部屋。先生の目。
「……行く」
小さく言って、柵を越える。外に出る。すぐに戻るために。
学校の正門ではなく、裏から回り込む。人目は少ない。ここからなら、管理棟に近い。校内ネットワークの中心は、おそらくそこにある。職員用の設備。配線。ルーター。そういうものが集まる場所。
走る。呼吸が乱れる。装置の熱が増す。時間が減っている。
校舎の裏口に辿り着く。ドアは閉まっている。鍵がかかっているはず。ノブを引く。開かない。
ポケットのスマホを見下ろす。遮断状態。でも、内部の機能は残っている。認証。ログイン情報。校内アカウント。
「……これで」
一瞬迷う。遮断を一度だけ緩める。ほんの一瞬だけ繋げて、ドアの電子ロックを開ける。その代わり、何かが入り込む可能性がある。
「……一回だけ」
決める。装置のスイッチを一瞬だけ切る。
世界が、わずかに揺れる。頭の奥に、風が触れる。
すぐにスマホの画面を開く。認証アプリ。校内アカウント。ドアのパネルにかざす。
ピッ、と短い音。
ロックが外れる。
すぐに装置を入れ直す。風が止む。息が戻る。
扉を開けて中に入る。すぐに閉める。背中で押さえる。耳を澄ます。追ってくる気配は、まだない。
廊下を進む。管理棟は静かだ。人の気配が少ない。代わりに、低い機械音が響いている。一定の音。どこかで何かが動いている。
突き当たりの扉。プレートに「通信管理」と書かれている。ここだと直感する。
ノブに手をかける。鍵はかかっていない。押す。開く。
中は思っていたよりも普通だった。机。モニター。ラックに並ぶ機器。ケーブルが絡み合っている。壁一面に、ランプが点滅している装置。中心に、大きめの端末。画面がついている。
近づく。画面には、複数の項目が並んでいる。
——接続中:**名
——同期率:**%
——差異検知:低
数字がゆっくり動いている。
「……これが」
喉が乾く。ここが中心。ここで、全員の状態が管理されている。
画面の下に、操作パネル。触れれば、何かが変わる。でも、簡単に止められるとは思えない。認証が必要かもしれない。逆に、触れた瞬間に位置が特定されるかもしれない。
スマホを見る。遮断中。でも、内部のログは残っている。ここに接続している履歴も、あるはず。
「……繋ぐ」
短く呟く。ここでだけ、もう一度繋ぐ。中に入るために。
装置のスイッチを切る。
頭の奥で、風が戻る。さっきより強い。すぐに画面が点灯する。
——再接続を検知
——同期を再開します
無視する。急いで端末にスマホを接続する。ケーブルを差し込む。画面にアクセスが開く。内部のメニューが展開される。
——管理者権限:未確認
警告が出る。
「……足りない」
そのとき、別の表示が重なる。
——既存アカウント:教師権限
担任のアカウント。昨日、触れられたときに、何かが移ったのかもしれない。一瞬だけ、権限が重なっている。
「……今しかない」
操作を進める。同期の設定。差異の許容。配信の停止。項目が並ぶ。
指が震える。時間がない。頭の中で風が強くなる。思考が鈍る。
「……これ」
“同期配信:停止”の項目に触れる。
確認画面。
——全体への影響が発生します
「……それでいい」
押す。
一瞬、全てのランプが強く光る。次の瞬間、いくつかが消える。機械音が変わる。低くなる。
頭の中の風が、急に弱まる。
画面の表示が変わる。
——同期率:低下
——差異検知:上昇
外で、何かがざわつく気配がする。人の声。ばらつきのある声。
扉の向こうで、足音が止まる。ノブが動く。
振り返る。
担任が立っている。今までとは違う。表情が崩れている。笑顔が維持できていない。
「……何を、しましたか」
声が揺れている。
「戻してください」
後ろのクラスメイトたちも、同じように立っている。でも、動きが揃っていない。視線がばらけている。誰かが戸惑っている。
「……もう、いい」
自分でも驚くくらい、静かに言えた。
「同じじゃなくていい」
その言葉に、何人かが小さく反応する。眉が動く。目が揺れる。
担任の目が細くなる。
「非効率です」
いつもの言葉。でも、さっきほどの強さがない。
「それでもいい」
はっきりと言う。
「消えるよりは」
その一言で、部屋の空気が変わる。
担任が一歩踏み出す。さっきより遅い。
「……回復させます」
手が伸びる。
その瞬間、装置のスイッチを入れる。切断。
頭の中が一気に静かになる。
同時に、スマホの画面が暗くなる。接続が切れる。
機器のランプがさらにいくつか消える。同期の線が途切れる。
担任の動きが止まる。ほんの一瞬、完全に止まる。
その隙に、ケーブルを引き抜く。スマホを握る。
「……終わり」
誰に言うでもなく、呟く。
扉の脇をすり抜ける。廊下へ出る。誰も追ってこない。足音がばらけている。声が重ならない。
「……あれ」
誰かの声がする。
「なんで、ここに……」
別の声。
ばらばらの言葉。揃っていない。
走る必要はなかった。ただ歩く。外へ向かう。
校門を出る。空気が軽い。風が、普通に流れている。
ポケットの中のスマホが、静かだ。
取り出す。画面は暗いまま。
ゆっくりと、電源を落とす。
指が、少しだけ震えた。
それでも、押す。
画面が完全に消える。
静かになる。
頭の中も、周りも、全部。
振り返る。学校が見える。何も変わっていないように見える。でも、さっきまでの“揃いすぎた静けさ”はない。どこか、不揃いなざわめきがある。
「……未接続のまま」
小さく呟く。
それでいいと、初めて思えた。




