第四十三話 セバスチャンの帳簿
43話です。
馬は夜を裂くように駆けた。
石畳を叩く蹄の音だけが、眠りかけた街に乾いた音を落としていく。
レイは一度も後ろを振り返らなかった。
振り返れば、迷いが生まれる。
迷いは遅れになる。
遅れは――クララの命を削る。
月は雲に隠れ、街灯の少ない裏路地は黒い水底のようだった。
それでもレイは速度を緩めない。
見えているからではない。
覚えているからだ。
セバスチャンの足取りを。
老人はいつも言っていた。
「本当に危ない道ほど、昼間は誰も気づかないものでございます」
その意味を、今になって理解する。
裏社会は地下にあるわけではない。
人の目の前にある。
誰も気づこうとしないだけだ。
⸻
馬を止めたのは、街外れの粉挽き小屋だった。
昼は風車が回り、小麦の香りが漂う平凡な場所。
夜になると、羽は止まり、人も消える。
誰が見ても廃屋だった。
レイは扉を三度叩く。
返事はない。
四度目。
少しだけ間を空けて叩く。
すると内側から、小さく金属が擦れる音がした。
鍵ではない。
弓を引く音だ。
「……誰だ」
老人の声。
レイは静かに答えた。
「帳簿を返しに来ました」
沈黙。
次の瞬間、扉が音もなく開いた。
中にいた老人は、レイの顔を見るなり表情を失った。
「……まさか」
「生きていたのか」
「お久しぶりです」
老人の視線が、レイの右手で止まる。
黒い革手袋。
その瞬間、老人の膝が折れた。
「セバスチャン様……」
「いや」
レイは首を振る。
「私はレイです」
老人は震える声で笑った。
「その手袋を着けた者を……」
「この世界じゃ誰も名前では呼ばん」
⸻
小屋の地下。
そこには棚が並んでいた。
金貨ではない。
宝石でもない。
帳簿。
ただ帳簿だけが、壁一面に積まれている。
レイは迷わず一冊を引き抜いた。
埃ひとつ積もっていない。
誰かが、毎日手入れをしている。
表紙を開く。
そこに書かれていた最初の一文を見て、レイは静かに息を吐いた。
人は金では縛れない。
恩と罪悪感で縛れ。
「……やはり」
ページをめくる。
男爵家。
教会。
商会。
港。
兵站。
税。
街のありとあらゆる場所が、一本の糸で結ばれていた。
そして最後のページ。
そこだけ文字の色が違う。
新しい。
最近書き足された文字だ。
レイの瞳が細くなる。
「……遅かったか」
老人が恐る恐る覗き込む。
「何がございました」
レイは帳簿を閉じた。
「今日、更新されています」
「更新……?」
「つまり」
レイは静かに言った。
「この帳簿を書いている人間は、まだ生きています」
地下室の空気が凍った。
老人は青ざめる。
「そんな……」
「あり得ません」
「この帳簿はセバスチャン様しか……」
そこで言葉が止まる。
レイも、老人も。
同じことを考えたからだ。
セバスチャンしか書けない帳簿。
その帳簿が更新されている。
ならば。
「……偽物か」
老人が呟く。
レイは首を振った。
「違います」
「筆跡が同じです」
「癖も」
「数字の並べ方も」
「間違いなく――」
その時だった。
乾いた拍手が地下室に響いた。
パチ。
パチ。
パチ。
ゆっくりと。
楽しむように。
暗闇の奥から、一人の男が歩いてくる。
上等な外套。
白い手袋。
年は五十ほど。
歩き方には一切の隙がない。
「見事だ」
男は笑った。
「ここまで来た人間は、久しぶりだよ」
老人が震え始める。
「……会長」
男は軽く頷く。
「久しぶりだな」
そして視線をレイへ向けた。
「君がレイか」
「セバスチャンの忘れ形見」
レイは眉一つ動かさない。
「あなたが顔のない王ですか」
男は肩をすくめる。
「王?」
「そんな大層なものじゃない」
「私はただ――」
男は帳簿を軽く叩いた。
「続きを書いているだけだ」
レイの目が、初めてわずかに揺れた。
「続きを……?」
男は笑みを深くする。
「そうとも」
「セバスチャンが作り」
「私が完成させ」
「そして最後は――」
男はゆっくりと言った。
「君が受け継ぐ」
地下室が静まり返る。
その一言は、剣より鋭くレイの胸を貫いた。
「……何を言っている」
男は穏やかな笑みを崩さない。
「クララ嬢を攫った理由が、本当に人質だと思ったか?」
レイの視線が鋭くなる。
男は首を横に振る。
「違う」
「彼女は餌だ」
「君をここへ連れてくるための」
そして一歩前へ出る。
「ようこそ」
「君の席へ」
その瞬間、地下室の壁際で一斉にランプへ火が入った。
今まで闇に隠れていた十数人の男たちが、音もなく姿を現す。
全員が黒い帳簿を抱え、
全員がレイを見て、
全員が静かに頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
その声が重なった瞬間、
レイは初めて、自分が踏み込んだ場所の本当の深さを知った。
オチまで中々、いけないです。




