第四十二話 黒い手袋
42話です。
倉庫の空気は、さっきまでとは違っていた。
誰も声を出さない。
外から聞こえてくるのは、馬の息遣いと、まだ落ち着かない使者の荒い呼吸だけだった。
攫われた。
その言葉は短いのに、部屋の中で妙に重たく沈んでいた。
ユーハは、入口に立ったまま動けないでいる。
拳を握りしめているが、殴る相手がいない。
怒鳴るべき相手もいない。
ただ、事実だけが置かれている。
お嬢様が攫われた。
それだけだ。
レイは机の引き出しを開けた。
中から出したのは、黒い革の手袋だった。
古いが、手入れが行き届いている。
使い込まれて柔らかくなった革は、指の形に馴染むように曲がっていた。
それを、ゆっくりとはめる。
その動作は、あまりにも静かで、誰も口を挟めなかった。
「……先生」
ユーハが、ようやく声を出した。
「それ、何だ」
レイは、答えるまで少し間を置いた。
「昔の仕事道具だ」
それだけ言って、指先を軽く握り、革の感触を確かめる。
使者が、まだ入口で立っている。
「男爵様が……」
声が震えていた。
「城の警備を出すと言っております。
街の門も閉めると……」
レイは首を横に振った。
「それはやめたほうがいい」
「え?」
「門を閉めれば、犯人は出ない。
だが、クララも出られない」
使者は言葉を失った。
レイは机の上の紙を一枚取り上げる。
街の地図だった。
赤い印が、いくつも打たれている。
「連中は、急がない」
静かに言う。
「攫うことが目的じゃない」
ユーハが振り向いた。
「じゃあ、何だ」
レイは紙を机に置く。
「確認だ」
沈黙。
「何の?」
「この街が、
誰のものか」
言葉が落ちる。
ユーハは、その意味を理解するまで少し時間がかかった。
やがて、目が見開かれる。
「……つまり」
「裏金融の連中は」
「男爵家が動くかどうか、
見てるってことか」
レイは頷いた。
「男爵が兵を動かせば、
男爵家は担保じゃなくなる」
「街の支配権を巡る争いになる」
「だから――」
一拍。
「まだ動かない」
ユーハは歯を食いしばる。
「娘が攫われてんだぞ」
「わかっている」
「じゃあ何で――」
レイは、ゆっくりと顔を上げた。
「……クララは、
担保じゃない」
その声は低かった。
「鍵だ」
ユーハの眉が寄る。
「どういう意味だ」
レイは机の引き出しから、もう一枚の紙を取り出した。
古い契約書だった。
羊皮紙の端は擦り切れ、インクも少し滲んでいる。
そこに書かれている名前を見て、ユーハは息を止めた。
男爵の名前ではない。
クララの名前だった。
「……相続契約」
レイが言う。
「男爵が死んだ場合、
男爵領の金融権は――」
指でなぞる。
「クララに移る」
ユーハの背中に、冷たいものが走った。
「じゃあ……」
「裏金融の連中は」
「クララを担保にしたいんじゃない」
レイは、紙を畳む。
「契約を確定させたい」
沈黙が落ちた。
その意味が、ゆっくりと部屋に広がっていく。
使者が、震えた声で言う。
「それでは……」
「お嬢様は」
レイは答えない。
代わりに、手袋をもう一度握った。
革が、きしむ。
「……ユーハ」
「何だ」
「ここを頼む」
「は?」
「倉庫だ」
「お前が守る」
ユーハは顔をしかめる。
「今そんな場合かよ」
レイは少しだけ笑った。
疲れた笑いだった。
「今だからだ」
「ここが消えたら、
全部無駄になる」
ユーハは黙った。
拳を握る。
そして、ゆっくり頷いた。
「……わかった」
レイは使者の方を見る。
「馬は?」
「外に」
「借りる」
短く言う。
そして倉庫を出た。
夜の空気は冷たい。
街は静かだ。
だが、
その静けさの下で、
何かが大きく動いているのがわかる。
レイは馬に跨った。
手綱を握る。
黒い手袋が、月明かりを吸い込む。
セバスチャンの仕事。
それは、
誰にも見えない場所で、
静かに秩序を戻すことだった。
馬が走り出す。
倉庫の灯りが、背後で小さくなっていく。
そしてレイは、
裏金融の拠点へ向かった。
誤字脱字はお許しください。




