29話 戦見物
永禄元年(1558年)8月下旬 尾張 丹羽郡 浮野村 近郊
キンキン! 「わーーーっ!!」 カンカン! 「でりゃーーーっ!!」 ガンガン! 「うおーーーっ!!」 ギンギン! 「ぎゃあーーーっ!!」 ガキンカキン! 「死ねやーーーっ!!」 カンカン!
「おひいさま、なんだか騒がしいですね」
「この騒めきと声は戦だろうね」
無事に藤堂高虎に唾を付けることに成功した玉です。
それから多賀大社にお参りして近江に別れを告げて、不破の関から美濃へ入って大垣で揖斐川を渡り、さらに墨俣から川を5本も6本も渡って尾張にやって来ました。21世紀の川の流れとまったく違っていてビックリですよね。
おまえら戦ばかりしてないで、ちゃんと治水しろよ! そう思わず叫びたくなるぐらいには、川の流れは自然に任せたままなのでした。
あと7、8年ぐらい後に、信長は美濃攻略の為に墨俣に城を築かせたのですけど、前世の私は、墨俣に城って意味あるの? そう思っていたのです。稲葉山城を落とすには、普通は笠松や加納に城が必要だと現代人の感覚では思うはずなのです。
おまけに、木曽川は墨俣を通ってはいませので、あらかじめ木を加工して筏を組んで木曽川で運ぶ芸当は不可能なんです。現代の地図を見れば一目瞭然のことですよね。
ところがどっこい、この時代では、木曽川は墨俣を通っているのです! まあ、正確には木曽川とは言わないのでしょうけれども。それに、墨俣に城を築く意味は稲葉山城攻略よりも、西美濃と中美濃の間に楔を打ち込む意味の方が大きい気がしますね。
その事実に、秀吉が墨俣に城を築いたら西美濃三人衆は織田に恭順したのですから。その後の美濃攻略は、それまで頑なに織田に抵抗していたのが嘘のように、あっけなかったですよね。
なんで信長が桶狭間から後、美濃攻略に7年もの時間が掛かったのか私には不思議に思えてなりません。あれかな、犬山が敵になったりして尾張を完全には統一できてなかったのかな?
まだ完全には尾張を支配できてない時に、信長は桶狭間で今川に勝ったということですか。といいますか、なんで桶狭間で勝てたのでしょうね? 不思議です。私には偶然とか奇跡に近かった感じに思えますね。
「姫様! この先の石沈川の河原で戦をやっております!」
「稲刈りもまだ済んでないのに戦をするなんてね……」
先行して物見に行って知らせに戻ってきてくれたのは、護衛に付いて来てくれた鉢屋衆の一人です。ちなみに、私の手足となって働く歩き巫女や鉢屋衆の全員が、杵築大社の権禰宜の身分を持っています。
権禰宜が、ただの見習いとか雑用係とか、よくて一般神職だったと分かった時には、『私の最初の身分って……』そう少し落ち込みもしましたけど。まあ、あの時はまだ5歳児だったしね!
それでも、たかが権禰宜というなかれ。私が『八百万の神は民を差別しない! 差別をするのは人である!』とかなんとか言って、尼子の姫特権で権禰宜をばら撒いたのであります。ネギの大安売りですね!
でも、この私の行為に対して権禰宜を貰ったみんなは感激して、滂沱の涙をながして私に忠誠を誓ってくれたのであります。ビックリしすぎて少し引きましたが。みんな、そんなにも杵築大社の職員になりたかったのね。知りませんでした。
っと、話が逸れた。
しかし、こういう戦をするのは、信長で間違いなさそうですね。でも、ここは尾張だし当たり前の推測でしたね。しかし、もう既に銭で兵を雇い始めていたのか。津島と熱田を押さえているから、そこから上がる銭が莫大なんでしょうね。
「おひいさま、どうされるのですか? 巻き込まれたら危ないですよ!」
「逃げると興奮している雑兵が追ってくるかも知れないから、少し離れた所で戦が終わるまで見物しときましょうか」
旅の途中で戦があったので足止めされている、無辜な歩き巫女と旅芸人の一座をわざわざ無駄に殺生するとは思いたくはないですね。
まあ、杵築大社が発行した手形がありますので、一応は身の安全を保障されてはいるのですが、それが絶対の保障とは言えないのが戦乱の世なんですよね。手形が無いよりはあった方が100倍はマシではありますが。
「それがよろしいかと。幸い種子島も10挺ござりますれば、脅しには使えますので」
「あくまでも、私たちは熱田参りの旅人なんだから、こっちから手を出してはダメだからね。戦える人数は20人もいないんだしさ」
「その辺りは心得てございまする」
それでは、休憩がてら戦見物と洒落込みましょうかね。
「おひいさま、両方とも木瓜の家紋の旗物差しですね。織田家同士の争いということですか?」
「んー、恐らくは上尾張守護代と下尾張守護代の争いじゃないかな?」
尾張下四郡の守護代は既に信長のはずだけど、上四郡の守護代って誰だっけ? 岩倉城の織田信…… のぶ…… うがー! 織田は信なんとかが多すぎるんだよ! いちいち覚えてられるかっての!
まあ、この時代は大抵どこの家でも通字を使っているから、似たような名前が多いのは当たり前なんですがね。おまけに偏諱をばらまく大名も多いのでして、それが似た名前が多いのに拍車をかけていますよね。
ちなみに、尼子の通字は『久』であります。経久、政久、晴久、義久…… それで、なおかつ晴久の『晴』は足利義晴の『晴』を偏諱でもらっているのです。父上の最初の諱は詮久なのです。
兄の義久の『義』は足利義輝の『義』ですね。剣豪将軍、上の字を授けるなんて気前が良すぎますね。毛利輝元や上杉輝虎ですら下の字だったのにね。
ちょうど剣豪将軍が朽木谷に逃げていた時に兄上は元服したから、少しでも味方が欲しくて気前良く授けたのかも知れませんね。でも、尼子になにを期待しているのやら。出雲から京の都は遠いのですから。
まあ、過去には父上があわや摂津までという所まで押し寄せたことはありましたが。あれ? そう考えると尼子ってかなり強かったんですね。それなのに、どうして滅んだのでしょうね……? 一人のジジイの所為か……
「なるほど。出雲で言うなら、西出雲と東出雲で争っているのと同じですね」
「まあ、似たようなもんだろうね。でも、出雲がそうならない為に父上は新宮党を粛清したんだしね。あ、首が飛んだ……」
うわー、首ちょんぱなんて初めて見ましたよ。まだ、遠目で見ているのでスプラッタな感じがしないのが救いといえば救いですかね? でも、本当にピューって噴き出るんですね…… あえて、ナニがとは申しませんけれども。
まるで映画のロケシーンを見ているようで、現実感が湧き上がってきません。
「黄色に黒字の木瓜の方が優勢ですね」
「そうみたいだね。これは相手の方がそろそろ敗走しそうだね」
恐らくは、黄色に黒字の木瓜の方が信長でしょうね。でも、信長の旗物差しのイメージって白地に水色の木瓜のイメージが強かったんだけどなぁ。黄色地に黒は永楽銭の旗印のイメージがありますので。
でも、この戦場で永楽銭の旗印が見当たらないということは、まだ永楽銭の旗印や旗物差しは使ってないみたいですね。もう少し後の時代から使い始めたのかな?
それにしても、あれが三間半の叩く長槍ですか…… 使い勝手は悪そうですね。重力と力学を無視できる怪力の持ち主は、そうそう居ないということですよね。精々は二間半か三間までが実用的な感じがしますね。それでも大概だとは思いますけど。
アレは集団戦で固まって相手を叩く以外での使い道はなさそうですね。うむうむ、こうやって合戦を見物するのも勉強になりますね!
「あ、崩れた。これで決まりだね」
「敗残兵がこっちに来ないでしょうか?」
「多分だけど、ほとんど来ないと思うよ。負けた方が上四郡の守護代の方みたいだから、岩倉や小牧がある東の方に逃げる兵が多いんじゃないかな?」
あー、でも、一宮や稲沢の辺りに住んでいる連中が敗残兵の中に居たのならば、こっちに逃げてくる可能性もあるのか。稲沢とか一宮は清州に近いから、信長側だと信じたいですね。
「それはそうと、さっきから春姉が言っている言葉が気になっていたんだけどさ」
「なんでしょうか?」
「ボケってなに? ボケの家紋とか言ってたけど、木瓜とか木瓜じゃないの?」
「え? その木瓜のことですけど、木瓜とも言うのですよ? もしかしておひいさまは、もうボケが始まってしまったんですか?」
「な、なんだってーーーっ!!」
知らなかった。どうやったら、木瓜を木瓜なんて読めるんだ? 木瓜ってなんだよボケって!
もしかして、本当に若年性のボケにでもなってしまったのか!?
あ、青魚を食べなきゃ! 青魚にはコンドロイチンとドコサヘキサエン酸が豊富に含まれているのですから!
でも、この前に若狭で鯖にあたったばっかりでしたし……
うがー! どうすればいいのだ!
「ふふ、おひいさまでも知らないこともあるんですね。なんだか安心しました」
そんな当て字が読めるかーーーっ!!
私には戦闘シーンを書く才能は皆無だったらしい(´・ω・`)




