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3/3

第2章 廃村の朝と、最初の井戸調査

異世界生活、二日目。


 ヒロシは、人生で最悪の目覚めを迎えた。


「……痛っ!」


 体を起こそうとした瞬間、背中に激痛が走った。


「いだだだだ……!」


 首、肩、腰、太もも。


 全身が悲鳴を上げている。


 原因は分かっていた。


 昨日、草原を何時間も歩いた。


 巨大な狼から逃げた。


 怪我人を支えて走った。


 夜には金属製の番兵に追いかけられた。


 しかも、寝床は石造りの集会所の床である。


「……三十八歳の体にやらせることじゃないだろ」


 ヒロシはうめいた。


 日本にいたころは、多少の運動不足を自覚していた。


 健康診断でも、毎年のように運動を勧められていた。


 だが、まさか異世界でその重要性を思い知るとは。


「……帰ったらジムに通おう」


 そう呟いてから、口を閉じた。


 帰れる保証など、どこにもない。


「……いや。帰れるかどうかも分からないんだった」


 少しだけ、胸が重くなった。


 それでも、いつまでも寝ているわけにはいかない。


 ヒロシは慎重に体を起こした。


 集会所の中には、朝日が差し込んでいる。


 壊れた窓から入り込む風は、少し冷たかった。


 部屋の隅では、リゼットが眠っていた。


 銀色の髪が枯れ草の寝床に広がっている。


 左腕には、昨夜ヒロシが巻いた布。


 顔色はまだ悪い。


「……大丈夫かな」


 ヒロシはそっと近づいた。


 呼吸は安定している。


 額に軽く触れると、少し熱い気がした。


 ただ、外の気温も分からない状況では、感覚だけで発熱を判断するのは難しい。


「……まずいな」


 傷口から感染する可能性もある。


 この世界に医療施設があることは聞いたが、最寄りの街までは徒歩二日。


 怪我人を連れて移動できる距離ではなかった。


 ヒロシはスマートフォンを取り出した。


 バッテリー残量、三十四パーセント。


「……こっちもまずい」


 早急に充電手段を確保する必要がある。


 だが、優先順位は人命だ。


 ヒロシはChatGPTを開いた。


『怪我をした成人女性がいます。左腕に深い傷があり、昨日から休ませています。呼吸は安定していますが、発熱している可能性があります。医療施設は徒歩二日です。手元には飲料水が少量と布しかありません。何を優先すべきでしょうか?』


 返答が表示された。


 出血の再確認、意識状態、感染徴候、脱水の有無。


 できるだけ早い医療者への相談。


 傷を清潔に保つこと。


 ただし、深い傷や発熱が疑われる場合、応急手当だけでは不十分な可能性がある。


「……そりゃそうだよな」


 ヒロシはため息をついた。


 スマートフォンは便利だ。


 だが、画面の向こうから医者が歩いてくるわけではない。


「せめて、救急用品を買うか」


 通販サイトを開く。


 購入候補を調べた。


 滅菌ガーゼ。


 包帯。


 使い捨て手袋。


 生理食塩水。


 体温計。


 救急セット。


 価格を確認する。


「……意外とするな」


 最低限のものをそろえても、数千円はかかりそうだった。


 しかも、注文してすぐ届くとは限らない。


 昨日のボールペンは、注文から半日ほどで収納庫に届いた。


 ほかの商品も同じとは限らない。


 ヒロシは必要な品を選び、注文した。


 合計、三千八百六十円。


【収納庫への転送を受け付けました】


「……よし」


 配送待ちの表示を確認する。


 今できることは、商品が届くまでの間に安全な水を確保することだ。


 そのとき。


「……ヒロシ?」


 背後から声が聞こえた。


 振り向くと、リゼットが目を開けていた。


「あ、おはようございます」


「……おはよう……」


 彼女はゆっくりと身を起こした。


 その瞬間、左腕を押さえて顔を歪める。


「……っ!」


「無理しないでください!」


 ヒロシは慌てて駆け寄った。


「傷、まだ痛むでしょう?」


「……少し……」


「少しって顔じゃないですよ」


 リゼットは苦笑した。


「……冒険者だから……慣れてる……」


「慣れちゃ駄目なやつです、それ」


「……そう?」


「そうです」


 ヒロシは真顔で頷いた。


 リゼットは少し不思議そうにヒロシを見つめた。


「……あなた……変わってる……」


「昨日から何回目でしょうね、それ」


「……数えてない……」


「俺もです」


 二人は小さく笑った。


 少しだけ、空気が和らいだ。


     ◇ ◇ ◇


「……ところで、リゼットさん」


「……なに?」


「この村の井戸について、何か知っていますか?」


 ヒロシが尋ねると、リゼットは少し考え込んだ。


「……エルム村の井戸……」


「はい。水が使えるか調べたいんです」


「……昔は……使えていた……はず……」


「昔?」


「……私が冒険者になったころには……もう廃村だったから……」


 リゼットは右手で髪を耳にかけた。


「……五年くらい前……この近くを通ったことがある……」


「そのときは?」


「……村には……誰もいなかった……」


「なるほど」


「……でも……井戸の水は……飲んじゃ駄目って……言われてた……」


 ヒロシの手が止まった。


「……え?」


「……昔から……そういう噂があるの……」


「どうしてですか?」


「……分からない……」


 リゼットは首を振った。


「……水を飲んだ人が……具合を悪くしたとか……」


「……それは困るな」


 ヒロシは腕を組んだ。


 井戸が使えなければ、水源を別に探さなければならない。


 近くに川があるかもしれないが、どこにあるのか分からない。


 しかも、川の水だって安全とは限らない。


「……まずは調査だな」


 ヒロシは立ち上がった。


 全身が痛んだ。


「……いだだだ……!」


 リゼットが目を丸くした。


「……どうしたの……?」


「筋肉痛です」


「……きんにく……つう?」


「昨日、無理して動いたせいで体が痛いんです」


「……それ……普通……?」


「運動不足の人間には普通です」


 リゼットは少し考えてから、真剣な顔で言った。


「……鍛えた方が……いいと思う……」


「……ですよね」


 ヒロシは肩を落とした。


     ◇ ◇ ◇


 朝食は、コンビニのおにぎりだった。


 昨日買った二個のうち、一個は鮭。


 もう一個は昆布。


 ヒロシは鮭おにぎりを取り出し、包装を外した。


「……リゼットさん、食べられますか?」


「……それ……なに?」


「おにぎりです」


「……おにぎり?」


「お米を握った食べ物です。中に魚が入っています」


 リゼットは興味深そうに見つめた。


「……白い……」


「米ですからね」


「……こめ……?」


 どうやら、この世界では米が一般的ではないらしい。


 ヒロシは少し考えた。


「麦みたいな穀物の一種です」


「……へえ……」


 リゼットはおにぎりを受け取った。


 慎重に匂いを嗅ぐ。


「……変な匂いは……しない……」


「毒なんて入ってませんよ」


「……分からないでしょ……」


「それはそうですけど」


 ヒロシは苦笑した。


 初対面の異世界人から渡された食べ物。


 警戒するのは当然だ。


 リゼットは小さくかじった。


 もぐもぐ。


 しばらく噛む。


「…………」


「どうです?」


「……おいしい……」


 ヒロシは思わず笑った。


「よかった」


「……これ……どこで買ったの……?」


「えっと……遠い国です」


「……どれくらい遠いの……?」


「歩いては行けないくらい」


「……すごく遠いのね……」


「まあ、そうですね」


 嘘ではない。


 ただし、正確な説明でもなかった。


 ヒロシは昆布おにぎりを食べ始めた。


 リゼットは鮭おにぎりをゆっくりと食べている。


 途中で、海苔を不思議そうにつまんだ。


「……この黒いの……なに?」


「海藻です」


「……海の草……?」


「そうです」


 リゼットは目を丸くした。


「……海の草……食べるの……?」


「日本では普通ですよ」


「……にほん……?」


「あ」


 ヒロシは口を閉じた。


 つい口が滑った。


 リゼットは首をかしげる。


「……にほんって……国の名前……?」


「……そうです。俺の故郷です」


「……聞いたこと……ない……」


「かなり遠いですから」


 リゼットは少し考え込んだ。


 だが、それ以上は追及しなかった。


「……いつか……行ってみたい……」


 ヒロシは返事に困った。


 自分ですら、帰れるかどうか分からない場所だ。


「……そうですね」


 曖昧に答えることしかできなかった。


     ◇ ◇ ◇


 朝食を終えると、ヒロシは井戸の調査を始めた。


 リゼットには集会所で休んでいてもらう。


 最初は同行すると言い張っていたが、さすがに怪我が重い。


「……でも……ヒロシ一人じゃ……危ない……」


「分かってます。でも、村の中央に行くだけですから」


「……魔物が……いるかも……」


「そのときは逃げます」


「……逃げ足……遅そう……」


「否定できないのが悔しい……」


 結局、リゼットは集会所に残ることになった。


 代わりに、番兵を同行させる。


 管理石を通じて命令すると、金属の人形が静かに立ち上がった。


「――管理者命令を確認」


 ヒロシは少し緊張しながら言った。


「俺についてきてください。危険があったら教えてください」


「――了解」


 番兵は頷いた。


 いや、正確には頭部らしき部分をわずかに傾けただけだが。


「……なんか、ロボットと一緒に散歩してる気分だな」


 ヒロシは苦笑した。


 番兵は答えなかった。


 村の中央へ向かう。


 昨日は逃げ回っていたので、周囲を詳しく見る余裕がなかった。


 改めて観察すると、旧エルム村は思ったより大きかった。


 集会所を中心に、広場がある。


 その周囲には、石と木で造られた家々。


 屋根が崩れたものが多いが、壁が残っている建物もある。


 広場の北側には、井戸。


 南側には、朽ちた木柵。


 東側には、畑らしき土地が広がっていた。


「……二十三棟か」


 昨夜、管理石に表示された建物数を思い出す。


 かつては、数十人から百人程度が暮らしていたのかもしれない。


 ただし、建物が二十三棟あるからといって、すべてが住居だったとは限らない。


 倉庫や作業場も含まれているだろう。


「……意外と広いな」


 ヒロシはスマートフォンで写真を撮った。


 村の様子を記録しておけば、あとで調査するときに役立つ。


 さらに、メモアプリを開く。


『旧エルム村 現地調査』


『建物数:23棟』


『使用可能:3棟(管理石情報、未確認)』


『井戸:1基』


『畑:あり。ただし荒廃』


『警備人形:1体』


『人口:ヒロシ、リゼットの2人(仮)』


「……よし」


 まずは記録。


 会社員時代に身についた習慣だった。


 仕事では、記録が残っていないせいで揉めることが多かった。


 誰が、いつ、何を決めたのか。


 それが分からなくなると、後で必ず困る。


 村づくりでも同じだろう。


「……まあ、今は二人しかいないけど」


 ヒロシは小さく笑った。


 そのとき、番兵が声を発した。


「――井戸施設に到着」


「あ、はい」


 目の前には、古い石造りの井戸があった。


     ◇ ◇ ◇


 井戸の直径は、およそ一メートル半。


 周囲は石で囲まれている。


 上部には、木製の滑車が設置されていた。


 ただし、縄は腐っているようだった。


 桶も見当たらない。


「……まず、状態確認だな」


 ヒロシは慎重に井戸を覗き込んだ。


 底は暗い。


 水面らしきものが、かすかに見える。


「……水はある」


 それだけで、少し安心した。


 だが、問題は水質だ。


 リゼットの話では、昔から飲用を避けられていたという。


 ヒロシはスマートフォンのライトを点灯した。


 光を井戸の中へ向ける。


 水面が反射した。


 少し濁っているように見える。


「……うーん」


 見た目だけで安全かどうかは分からない。


 ヒロシはChatGPTに相談した。


『古い井戸を発見しました。長期間使われておらず、水は少し濁っているように見えます。過去に飲んだ人が体調を崩したという噂があります。何を確認すべきでしょうか?』


 返答が表示される。


 井戸の構造。


 周辺に汚染源がないか。


 動物の死骸や落下物の有無。


 水の濁り、臭い、色。


 そして、水質検査の必要性。


 煮沸は一部の病原体への対策として有効だが、化学物質や重金属などを除去できるわけではない。


「……なるほど」


 ヒロシは頷いた。


 つまり、煮沸すれば何でも安全になるわけではない。


 それは大切な情報だった。


「……水質検査か」


 日本なら検査機関に依頼できる。


 だが、ここは異世界。


 検査用の試薬や道具を購入することはできても、未知の物質には対応できないかもしれない。


「……難しいな」


 ヒロシは井戸の周囲を歩いた。


 石の一部が欠けている。


 地面には雑草が生えている。


 井戸の近くには、古い排水溝らしき石組みがあった。


「……これ、どこにつながってるんだ?」


 しゃがみ込んで観察する。


 排水溝は、村の北側へ伸びていた。


 途中で土に埋もれている。


 雨水を流すためのものだろうか。


 それとも、何か別の用途があるのか。


 ヒロシには判断できなかった。


「……番兵さん」


「――はい」


「この井戸について、何か知っていますか?」


「――井戸施設。旧エルム村共用水源」


「飲める水ですか?」


「――飲用適性、不明」


「……ですよね」


「――水質管理機構、停止中」


 ヒロシは顔を上げた。


「……水質管理機構?」


「――管理情報へのアクセス権限を確認」


 番兵の胸の青い宝石が光った。


「――管理者権限あり」


「おお」


「――井戸地下に旧式浄水機構を設置」


 ヒロシは目を丸くした。


「……浄水機構?」


「――現在、稼働停止」


「理由は?」


「――魔力供給不足。詳細不明」


「……また魔力か」


 ヒロシは腕を組んだ。


 昨夜、管理石でも魔力供給不足と表示されていた。


 どうやら、この村の設備は、魔力を動力としているらしい。


「……魔力って、電気みたいなものなのかな」


 もちろん、同じものとは限らない。


 だが、設備を動かすために使われるエネルギーという意味では、似た役割を持っているのかもしれない。


「……その浄水機構、どこにあるんですか?」


「――井戸地下、深度約八メートル」


「……八メートル」


 ヒロシは井戸を覗いた。


 暗い。


 狭い。


 当然、降りる気にはならない。


「……点検口は?」


「――北側地下設備室」


「地下設備室?」


「――現在、閉鎖中」


「……開けられます?」


「――管理者権限により開放可能」


 ヒロシは少し考えた。


 設備を調べれば、井戸が使えなくなった理由を知る手がかりになるかもしれない。


 しかし、地下は危険だ。


 崩落の可能性もある。


 未知の魔法設備が動き出す可能性もある。


 しかも、リゼットは怪我をしている。


「……今日はやめておこう」


 ヒロシは決めた。


 まずは地上の安全確認が先だ。


 地下設備の調査は、リゼットの体調がよくなってからにしよう。


「――了解」


 番兵が答えた。


 ヒロシは少し驚いた。


「……今の、命令じゃないんですけど」


「――管理者判断を記録」


「……記録してくれるんだ」


 便利な機能だった。


 ただし、何でも記録されるのは少し怖い。


「……独り言まで記録しないでくださいね」


「――了解。独り言の記録を停止」


「……今までしてたの!?」


 番兵は答えなかった。


     ◇ ◇ ◇


 井戸の調査を終えたヒロシは、村の北側へ向かった。


 管理石の情報によれば、使用可能な建物は三棟。


 そのうち一棟は集会所。


 残る二棟を確認することにした。


 最初に向かったのは、広場から少し離れた石造りの小屋だった。


 屋根には穴があるが、壁はしっかりしている。


 扉は壊れていた。


「……倉庫かな?」


 中へ入る。


 古い棚。


 壊れた木箱。


 錆びた金具。


 床には厚い埃が積もっている。


「……うわ」


 ヒロシは思わず鼻を押さえた。


 長年放置された建物特有の、湿った臭いがした。


 窓は小さい。


 換気も悪そうだ。


「……ここに住むのは無理だな」


 だが、物置としてなら使えるかもしれない。


 ヒロシはスマートフォンで写真を撮った。


 収納庫を使えば、片づけ自体は簡単だ。


 ただし、ゴミを収納庫へ入れ続けても、最終的な処分場所は必要になる。


 収納庫は無制限とはいえ、何でも放り込めばいいというものではない。


「……整理整頓は大事だよな」


 ヒロシは棚の一部に触れた。


 収納を意識する。


 棚が消えた。


 床に積もった埃が舞い上がる。


「げほっ!」


 ヒロシは慌てて外へ出た。


「……マスクも買わないと」


 必要なものが、どんどん増えていく。


 スマートフォンのメモに追加した。


『購入候補:マスク、軍手、作業靴、懐中電灯、ロープ、浄水用品』


「……金がいくらあっても足りないな」


 ヒロシは苦笑した。


 日本にいる間は、数千円の買い物をそれほど深く考えないこともあった。


 だが、こちらでは日本円を稼ぐ方法がない。


 少なくとも、今は。


 ヒロシは動画サイトを開いた。


 昨日投稿した動画の再生回数は、二十四回。


 コメントは三件に増えていた。


『背景の草の動き、リアルすぎる』


『新作ゲームの宣伝?』


『この鳥、CGならすごい』


「……まあ、そうなるよな」


 ヒロシは小さく笑った。


 今は誰も、本当の異世界だとは思っていない。


 それでいい。


 まずは、動画として楽しんでもらえれば十分だ。


 収益化までは、遠い道のりなのだから。


     ◇ ◇ ◇


 昼前。


 ヒロシは集会所へ戻った。


 リゼットは起きていた。


 壁にもたれながら、右手で剣を手入れしている。


「……何してるんですか?」


「……剣の……手入れ……」


「怪我人は休んでください」


「……これくらい……平気……」


「平気って言う人ほど、無理するんですよ」


 リゼットは少しむっとした顔をした。


「……ヒロシだって……昨日……無理してた……」


「……それを言われると弱い」


 ヒロシは苦笑した。


 リゼットは、少し得意そうに微笑んだ。


「……井戸は……どうだった……?」


「水はあります。でも、飲めるかどうか分かりません」


「……やっぱり……」


「それと、地下に浄水装置があるらしいです」


 リゼットの手が止まった。


「……浄水……装置……?」


「番兵が教えてくれました。魔力で動く設備みたいです」


 リゼットは目を丸くした。


「……そんなもの……この村に……?」


「知りませんでした?」


「……初めて……聞いた……」


 ヒロシは腕を組んだ。


「……古い村なのに、意外と設備が充実してるんですよね」


 番兵。


 管理石。


 地下浄水機構。


 どれも、普通の中世風ファンタジー世界の村にあるものとは思えない。


「……この世界って、昔の方が技術が進んでたんですか?」


 リゼットは少し考えた。


「……古代文明……」


「古代文明?」


「……昔……大きな国が……あったって……」


 彼女は剣を鞘に収めた。


「……魔法を使って……いろんなものを……動かしてた……」


「へえ」


「……でも……ある日……滅びた……」


「どうして?」


「……分からない……」


 リゼットは首を振った。


「……戦争だったとか……魔力が暴走したとか……いろんな話がある……」


 ヒロシは興味を覚えた。


 もし古代文明の技術が残っているなら、村づくりに役立つかもしれない。


 ただし、危険もありそうだ。


 昨夜の番兵が、そのいい例だった。


「……地下設備は、慎重に調べた方がよさそうですね」


「……うん……」


 リゼットは頷いた。


 それから、少し真剣な表情になった。


「……ヒロシ」


「はい?」


「……この村……本当に……使うつもり……?」


 ヒロシは少し考えた。


「……まだ分かりません」


 正直に答えた。


「でも、街へ行くにしても準備が必要ですし、リゼットさんの怪我もあります」


「……うん……」


「だから、まずはここを安全に使えるようにしたいんです」


 リゼットは黙って聞いていた。


「……それに」


 ヒロシは少し笑った。


「もしここで暮らせるなら、悪くないと思いません?」


「……廃村で……?」


「はい」


 ヒロシは窓の外を見た。


 荒れた家々。


 雑草に覆われた道。


 崩れかけた木柵。


 今は、寂しい場所だ。


 だが。


「家はある。井戸もある。畑だった場所もある」


 ヒロシは指を折って数えた。


「全部壊れているわけじゃない。少しずつ直せば、住めるかもしれません」


「……簡単じゃ……ないよ……」


「分かってます」


「……魔物も……いる……」


「それも分かってます」


「……人手も……足りない……」


「それは、かなり深刻ですね」


 ヒロシは苦笑した。


 リゼットも少し笑った。


「……変な人……」


「また言いましたね」


「……でも……」


 リゼットは窓の外を見た。


「……少し……面白そう……」


 ヒロシは目を丸くした。


「……本当ですか?」


「……うん……」


 彼女は小さく頷いた。


「……もし……本当に……村を直せたら……」


 少しだけ、声が柔らかくなった。


「……すごいこと……だと思う……」


 ヒロシは微笑んだ。


「じゃあ、まずは井戸からですね」


「……うん……」


 二人は顔を見合わせた。


 まだ、何も始まっていない。


 それでも、小さな目標ができた。


     ◇ ◇ ◇


 午後。


 ヒロシは再び井戸へ向かった。


 今回は、水を汲み上げる方法を考えるためだ。


 古い縄は使えない。


 桶もない。


 日本から買えば簡単だが、できるだけ現地で手に入るものを利用したい。


「……まずは滑車だな」


 ヒロシは井戸の上部を確認した。


 木製の軸は、思ったよりしっかりしている。


 ただし、一部が腐食していた。


 無理に力をかければ壊れる可能性がある。


「……これは使わない方がいいか」


 次に、井戸の周囲を調べた。


 古い木桶の破片が落ちている。


 だが、形を保っているものはない。


「……桶を作る技術なんてないしなあ」


 ヒロシは頭をかいた。


 日本では、ホームセンターへ行けば何でも買えた。


 だが、ここではそうはいかない。


 便利な社会にいたことを、改めて実感する。


「……やっぱり、最初は通販に頼るしかないか」


 ヒロシはスマートフォンを取り出した。


 アウトドア用品を検索する。


 折りたたみバケツ。


 ロープ。


 カラビナ。


 手袋。


 いくつか候補を比較した。


 だが、購入ボタンを押す前に、手が止まった。


「……待てよ」


 そもそも、井戸の水が安全かどうか分からない。


 水を汲み上げても、飲めなければ意味がない。


 もちろん、掃除や洗濯には使える可能性がある。


 だが、飲料水は別に確保しなければならない。


「……川を探した方がいいのか?」


 ヒロシは周囲を見渡した。


 村の北側には森がある。


 その向こうに、緩やかな谷が見えた。


 水が流れているかもしれない。


 だが、昨日は角狼に襲われたばかりだ。


 一人で森へ入るのは危険すぎる。


「……焦るな、俺」


 ヒロシは深呼吸した。


 会社でトラブルが起きたときも、焦って余計なことをすると被害が広がる。


 まずは、分かっていることを整理する。


 井戸には水がある。


 飲用の安全性は不明。


 地下には浄水機構がある。


 魔力供給が不足している。


 周辺には別の水源があるかもしれない。


「……よし」


 ヒロシはスマートフォンのメモを開いた。


『井戸水は飲用禁止。調査が終わるまで使わない』


 そう書き込んだ。


 そして、集会所へ戻ることにした。


 その途中だった。


「――管理者」


 番兵が突然、声を発した。


「……はい?」


「――地下設備より異常反応を検出」


 ヒロシは足を止めた。


「……地下?」


「――井戸地下、浄水機構付近」


「何が起きてるんですか?」


「――不明」


「……不明?」


「――魔力流量、変動中」


 番兵の胸の宝石が点滅した。


「――警告。地下封印施設との接続異常を検出」


 ヒロシは背筋が冷たくなるのを感じた。


 昨夜、管理石に表示された警告。


 地下封印施設。


 封印強度低下。


 そして、今度は井戸の地下。


「……まさか」


 ヒロシは井戸を振り返った。


 暗い穴の奥。


 水面が、かすかに揺れていた。


 風は吹いていない。


 誰も触れていない。


 それなのに。


 ぽちゃん。


 小さな音が響いた。


 水面から、気泡が上がってくる。


 ぽちゃん。


 ぽちゃん。


「……なんだ?」


 ヒロシは慎重に井戸へ近づいた。


 覗き込む。


 暗い水面の奥に、何かが光っていた。


 青白い光。


 管理石と同じ色だ。


「……番兵さん」


「――はい」


「これ、危険ですか?」


「――危険度、判定不能」


「……一番困る答えだな」


 ヒロシは苦笑した。


 だが、目は笑っていなかった。


 そのとき。


 井戸の奥から、低い音が聞こえた。


 ゴォォォン……。


 昨夜と同じ鐘の音。


 ヒロシは思わず後ずさった。


「……また鐘?」


 番兵が即座に反応した。


「――警告」


「……何です?」


「――地下封印機構、再起動を検出」


 ヒロシは固まった。


「……再起動?」


「――旧管理系統への接続を試行中」


 水面の光が強くなる。


 井戸の石壁に、細い文字が浮かび上がった。


 見たことのない文字。


 だが、ヒロシには不思議と意味が理解できた。


『封印維持装置 第七系統』


『管理者認証待機中』


『接続先:地上管理石』


 ヒロシは息を呑んだ。


「……俺が昨日、管理石を触ったから?」


 番兵は、少し間を置いて答えた。


「――可能性あり」


 ヒロシは頭を抱えた。


「……やっぱり、余計なことしたかな……」


 井戸の奥で、何かが動く音がした。


 ギギギ……。


 重い金属が擦れ合うような音。


 水面が大きく揺れる。


 そして、井戸の縁に刻まれていた古い紋章が、青白く輝き始めた。


「……まずい」


 ヒロシは後退した。


 番兵が前へ出る。


「――管理者の退避を推奨」


「言われなくても逃げます!」


 ヒロシは走り出した。


 だが、数歩進んだところで、足を止めた。


 集会所にはリゼットがいる。


 もし地下の何かが暴走したら。


 この村全体が危険になるかもしれない。


「……くそっ」


 ヒロシは振り返った。


 井戸から、淡い光が空へ伸びている。


 その光は、やがて一本の線となり、集会所の方向へ向かった。


「……え?」


 光の先。


 集会所の奥にある管理石が、呼応するように輝き始めた。


 そして。


 ヒロシの目の前に、半透明の文字が浮かび上がった。


【旧エルム村管理者へ緊急通知】


【地下第七封印区画より認証要求】


【管理者の承認が必要です】


【承認期限:残り十分】


「…………」


 ヒロシは目を見開いた。


「……十分?」


 表示が切り替わる。


【承認されない場合、封印維持機能を停止します】


 ヒロシの顔から血の気が引いた。


「……いやいやいや」


 昨日まで、普通の会社員だった。


 村の管理者になったのも、ほとんど事故のようなものだ。


 それなのに。


「……なんで、いきなり世界の命運みたいな話になるんだよ!」


 ヒロシの叫びが、廃村に響いた。


 返事はない。


 ただ、目の前の文字が静かに変わる。


【残り時間:九分五十九秒】


【九分五十八秒】


【九分五十七秒】


 ヒロシは唇を噛んだ。


 スマートフォンを取り出す。


 ChatGPTを開く。


 だが、すぐに手を止めた。


 この世界の古代魔法装置について、ChatGPTが知っているはずがない。


 ここから先は、現地の情報が必要だ。


「……リゼット!」


 ヒロシは集会所へ向かって走り出した。


 今度こそ、誰かに相談しなければならない。


 自分一人で決めていい問題ではないのだから。

次回:第3章「十分間の選択と、封印された地下施設」


旧エルム村の地下で動き始めた古代の封印装置。管理者となったヒロシに突きつけられたのは、わずか十分という制限時間だった。リゼットと番兵の知識を頼りに、ヒロシは初めて村の運命に関わる決断を下す。そして、廃村の地下に隠された秘密が少しずつ明らかになっていく。

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