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プロローグ 人生最後の残業と、人生最初の異世界

田中広、三十八歳。


 独身。彼女なし。都内の中堅企業に勤務する、ごく普通の会社員。


 趣味はネットサーフィンと動画鑑賞。休日にはゲームをしたり、ネット小説を読んだりする。


 特別な才能があるわけでもなく、かといって仕事ができないわけでもない。


 会社ではそれなりに頼りにされているが、出世コースからは少し外れている。


 そんな男の人生が終わったのは、十月の金曜日だった。


「……やっと終わった」


 午後十一時四十二分。


 ヒロシは会社の入ったオフィスビルを出ると、冷たい夜風に肩をすくめた。


 今日も残業だった。


 原因は、取引先から夕方になって届いた仕様変更である。


 しかも、担当者が申し訳なさそうに言った言葉がひどかった。


『田中さんなら、なんとかしてくれると思いまして』


「俺は魔法使いじゃないんだぞ……」


 誰に聞かせるでもなく愚痴をこぼす。


 もっとも、なんとかしてしまった自分にも問題があるのだろう。


 駅へ向かう途中、コンビニに立ち寄った。


 買ったのは、おにぎり二個とペットボトルのお茶。


 夕食と呼ぶには寂しい内容だったが、今から店を探す気力はない。


 店を出たヒロシは、スマートフォンを取り出した。


 画面には、いつもの動画サイトの通知が並んでいる。


『廃村から始める異世界スローライフ!』


『初心者でもできる家庭菜園』


『AIを使って仕事を効率化する方法』


「異世界でスローライフか……。いいよなあ」


 思わず笑ってしまう。


 現実の自分は、スローライフどころか毎日残業だ。


 異世界に行けたとしても、きっと最初は食べ物を探すところから始まるのだろう。


「まあ、スマホが使えるなら、なんとかなるかもしれないけど」


 最近はChatGPTを仕事でも使っていた。


 知らないことを調べたり、資料の構成を考えたり、プログラムのエラーについて相談したり。


 便利な時代になったものだ。


 もちろん、AIが答えたことをそのまま信じるわけにはいかない。


 もっともらしく間違えることもある。


 それでも、何も知らない状態から調べ始めるよりは、ずっと助かる。


「異世界に行くなら、チート能力よりネット環境が欲しいな」


 そんな馬鹿なことを考えながら、交差点へ差しかかった。


 歩行者用の信号は青だった。


 ヒロシはスマートフォンをポケットにしまい、横断歩道へ足を踏み出した。


 その瞬間。


 甲高いクラクションが響いた。


「え?」


 右を見る。


 大型トラックが、信号を無視して交差点へ突っ込んできていた。


 ヘッドライトが視界いっぱいに広がる。


 避けようとした。


 だが、体は動かなかった。


 衝撃。


 浮き上がる感覚。


 そして、妙にゆっくりと流れる時間。


(ああ……これは、駄目だ)


 不思議と痛みは感じなかった。


 代わりに、くだらない後悔が頭をよぎった。


(冷蔵庫のプリン、食べておけばよかったな……)


 それが、田中広の人生最後の思考だった。


     ◇ ◇ ◇


「……ん?」


 風の音が聞こえた。


 頬を撫でる、柔らかな風。


 草の匂い。


 遠くから聞こえる鳥の鳴き声。


「……あれ?」


 ヒロシは目を開けた。


 最初に見えたのは、青い空だった。


 雲がゆっくりと流れている。


「……病院?」


 そう呟いてから、違和感に気づいた。


 背中が柔らかい。


 いや、柔らかいというより、少し湿っている。


 体を起こす。


 そこには、一面の草原が広がっていた。


「…………は?」


 見渡す限りの緑。


 遠くには森があり、その向こうには山脈が連なっている。


 道路も、建物も、電柱もない。


 当然、病院のベッドでもない。


「いやいやいや……」


 ヒロシはゆっくりと立ち上がった。


 体を確認する。


 手も足もある。


 頭も痛くない。


 血も出ていない。


 着ているのは、事故に遭ったときのワイシャツとスラックス。


 革靴も履いたままだ。


「夢……だよな?」


 頬をつねった。


「痛っ!」


 しっかり痛かった。


「いや、夢でも痛いことはあるって聞くし……」


 自分に言い聞かせる。


 だが、目の前の景色はあまりにも鮮明だった。


 草が風に揺れる音。


 土の匂い。


 遠くで鳴く、聞いたことのない鳥。


 すべてが現実そのものだった。


「……落ち着け、俺」


 ヒロシは深呼吸した。


 仕事でトラブルが起きたときも、まず状況を整理する。


 慌てたところで、問題が解決するわけではない。


「最後の記憶は、トラックに轢かれたところだ」


 そして、気づいたら草原にいた。


 考えられる可能性は、いくつかある。


 死後の世界。


 昏睡状態で見ている夢。


 何者かによる誘拐。


 あるいは――。


「……異世界転生?」


 口に出してみる。


 途端に、なんとも言えない恥ずかしさが込み上げた。


「いや、三十八歳にもなって何言ってんだ、俺」


 だが、否定する材料もなかった。


 少なくとも、ここが日本のどこかなのかすら分からない。


 ヒロシはポケットを探った。


 財布。


 家の鍵。


 社員証。


 小銭。


 そして、スマートフォン。


「あった!」


 思わず声が大きくなる。


 画面を点灯させる。


 普通に起動した。


 時刻は午前七時十三分。


 日付は、事故の翌日になっている。


 バッテリー残量は八十七パーセント。


「……え?」


 画面の右上を見て、ヒロシは固まった。


 アンテナが立っている。


 しかも、通信表示は5G。


「嘘だろ?」


 周囲を見渡す。


 どこにも基地局らしきものはない。


 それどころか、電柱一本見当たらない。


 試しにブラウザを開いた。


 検索欄に文字を入力する。


『現在の日本のニュース』


 検索結果が表示された。


「…………」


 ヒロシは無言になった。


 適当なニュース記事を開く。


 問題なく読める。


 動画サイトを開く。


 こちらも普通に再生された。


「……なんで?」


 分からない。


 まったく分からない。


 だが、一つだけ確かなことがあった。


「ネットが使える……!」


 ヒロシは思わず拳を握った。


 知らない土地で、知識を調べられる。


 これは大きい。


 もちろん、食べ物や水が手に入るわけではない。


 だが、少なくとも完全な孤立状態ではない。


「そうだ、電話!」


 ヒロシは連絡先を開いた。


 会社の同僚へ電話をかける。


 数秒後、呼び出し音が鳴った。


『……はい、佐藤です』


「佐藤! 俺だ、田中!」


『……田中さん?』


「そう! ちょっと聞いてくれ。俺、今、変な場所にいて――」


『……え?』


 相手の声が震えた。


『田中さん……ですよね?』


「ああ。どうした?」


『だって……』


 電話の向こうで、何かが倒れる音がした。


『田中さん、昨日、事故に遭ったって……』


「……ああ」


『今朝、亡くなったって連絡が……』


 ヒロシの喉が詰まった。


 予想していなかったわけではない。


 あの衝撃を受けて、無傷で済むはずがない。


 それでも、他人の口から聞かされると重みが違った。


『もしもし? 田中さん?』


「……佐藤」


『はい!』


「悪い。今はうまく説明できない」


『どこにいるんですか!?』


「それが、俺にも分からないんだ」


『え……?』


「とにかく、今は生きてる。少なくとも、こっちでは」


 自分でも意味不明な説明だと思った。


『こっち……?』


「落ち着いたら、また連絡する」


『ちょ、ちょっと待ってください!』


 ヒロシは通話を切った。


 しばらく、スマートフォンを見つめる。


「……死んだのか、俺」


 妙な気分だった。


 悲しいのか、怖いのか、自分でも分からない。


 日本には両親がいる。


 すでに定年を迎え、地方で二人暮らしをしていた。


 親より先に死ぬなんて、考えたこともなかった。


「……親不孝だな」


 草原を風が吹き抜ける。


 ヒロシはしばらく、その場から動けなかった。


 やがて、空腹を知らせる音が腹から鳴った。


 ぐううう。


「…………」


 あまりにも間の抜けた音だった。


「……死んだ人間でも、腹は減るんだな」


 苦笑する。


 とりあえず、生きている。


 ならば、生き延びなければならない。


 日本に帰れるかどうかは分からない。


 だが、考える時間を確保するためにも、まず今日の寝床と水を見つける必要がある。


「よし」


 ヒロシはスマートフォンを握り直した。


「困ったときは、まず相談だ」


 いつものアプリを開く。


 ChatGPT。


 仕事で何度も使った、見慣れた画面。


 入力欄に文字を打ち込んだ。


ChatGPTとの会話


異世界らしき場所に来てしまいました。周囲は草原で、遠くに森があります。所持品は服、財布、スマホくらいです。まず何をすればいいですか?


まず、現在地が本当に異世界かどうかは確認できません。ただし、未知の屋外環境で孤立している状況として考えると、優先順位は次のとおりです。

1. 安全確認:危険な動物、崖、悪天候などがないか確認する。

2. 飲料水の確保:水源を探す。ただし未処理の水を安易に飲まない。

3. 避難場所の確保:日没までに風雨を避けられる場所を見つける。

4. 食料の確認:未知の植物やキノコは食べない。

5. 周辺情報の収集:人の通った痕跡、道、建物などを探す。

現地の危険生物や気候は不明です。まずは見通しのよい場所から周囲を観察してください。





「……うん。まともだ」


 少し安心した。


 少なくとも、突然『勇者として魔王を倒してください』などと言われるよりは、ずっと現実的な助言だった。


「まずは水か」


 ヒロシは周囲を見渡した。


 草原には緩やかな起伏がある。


 遠くの森の手前には、低くなっている地形が見えた。


 川があるかもしれない。


 だが、歩き出す前にもう一度、所持品を確認することにした。


 財布には現金が一万二千円ほど。


 クレジットカードが二枚。


 交通系ICカード。


 社員証。


 鍵。


 スマートフォン。


 そして、コンビニで買ったおにぎり二個とお茶。


「……あれ?」


 ヒロシは首をかしげた。


 おにぎりとお茶は、コンビニ袋に入れて持っていたはずだ。


 だが、袋がない。


「落としたのか?」


 周囲を探す。


 見当たらない。


「くそ……貴重な食料が」


 そう呟いた瞬間だった。


 目の前に、半透明の文字が浮かび上がった。


【収納庫】


「……は?」


 ヒロシは目をこすった。


 文字は消えない。


 むしろ、意識を向けると、その下に別の表示が現れた。


【収納物一覧】


・鮭おにぎり ×1


・昆布おにぎり ×1


・緑茶 600ml ×1


「…………」


 ヒロシは固まった。


「……え?」


 もう一度、表示を見る。


 間違いない。


 おにぎりとお茶が表示されている。


「いやいや……」


 試しに、鮭おにぎりを取り出すことを意識した。


 次の瞬間。


 ぽんっ。


「うわっ!」


 右手に、おにぎりが現れた。


 驚いて取り落としそうになる。


 慌てて両手で受け止めた。


「…………」


 包装された鮭おにぎり。


 間違いなく、さっきコンビニで買ったものだ。


「……マジか」


 ヒロシはしばらく、おにぎりを見つめていた。


 そして、ゆっくりと呟いた。


「これ……収納魔法ってやつか?」


 半透明の表示は、まだ浮かんでいる。


 ヒロシはおにぎりを収納することを意識した。


 すると、手の中からおにぎりが消えた。


 一覧には再び『鮭おにぎり ×1』と表示される。


「おお……!」


 今度は、足元の小石を拾った。


 収納する。


 消えた。


 取り出す。


 現れた。


「すげえ……!」


 三十八歳の会社員が、草原で小石を出したり消したりして大喜びしている。


 誰かに見られたら、かなり恥ずかしい光景だった。


 だが、そんなことを気にしている余裕はない。


「これ、どれくらい入るんだ?」


 試しに、近くに落ちていた枯れ枝を収納する。


 問題なし。


 少し大きな石も収納できた。


 ただし、触れていない遠くの石を収納しようとしても反応しない。


「直接触れる必要があるのか」


 さらに、生えている草を収納しようとしたが、何も起きなかった。


 引き抜いた草なら収納できる。


「なるほど。生きている植物は駄目なのか、それとも地面につながっているからか……」


 試しに足元を歩いていた小さな虫に触れ、収納を意識した。


 何も起きなかった。


「生き物は無理、かな」


 もちろん、これだけで正確な条件が分かったわけではない。


 だが、便利な能力であることは確かだった。


 問題は、容量と保存期間だ。


 ヒロシはおにぎりを取り出して、包装に印字された消費期限を確認した。


 まだ十分に時間がある。


 今のところ、時間が止まっているかどうかは分からない。


「その辺は、あとで検証しよう」


 ヒロシは収納庫におにぎりを戻した。


 そして、ふと思いついた。


「……通販は?」


 スマートフォンには、日本のインターネットがつながっている。


 収納庫という不思議な能力もある。


 ならば。


「まさか、な……」


 ヒロシは通販サイトを開いた。


 以前から利用している大手サイトだ。


 ログイン状態も維持されている。


 試しに、安い商品を検索した。


 選んだのは、百数十円のボールペン。


 配送先は、以前登録した自宅住所のまま。


「……買ってみるか?」


 少し迷った。


 だが、もし成功するなら、今後の生活が大きく変わる。


 ヒロシは注文確定ボタンを押した。


 画面が切り替わる。


『ご注文を受け付けました』


 同時に。


【収納庫への転送を受け付けました】


「…………え?」


 ヒロシは目を見開いた。


 収納庫の一覧には、新しい項目が追加されていた。


【配送待ち:ボールペン ×1】


「……嘘だろ?」


 注文履歴を確認すると、配送先住所の表示は自宅のままだった。


 それなのに、収納庫には配送待ちと表示されている。


 通常の配送手続きと、収納庫への転送がどう関係しているのかは分からない。


 数分待っても、商品は届かなかった。


「即時転送じゃないのか……」


 それでも、期待は膨らんだ。


 もし日本の商品をこちらに持ち込めるなら。


 工具も、衣服も、薬も、食料も手に入るかもしれない。


 もちろん、金さえあればの話だが。


「……ん?」


 そこでヒロシは、重大な問題に気づいた。


 銀行口座の残高は、確か百万円に少し届かないくらい。


 貯金としては心もとないが、当面の買い物には使える。


 だが。


「……これ、使い切ったら終わりじゃないか?」


 異世界の通貨を手に入れたところで、日本円には交換できない。


 日本の会社に出勤することもできない。


 給料が振り込まれる見込みもない。


 クレジットカードの支払いも、最終的には日本円が必要になる。


「……やばいな」


 ヒロシは頭を抱えた。


 便利な能力を手に入れたと思ったら、早速、現実的な問題にぶつかってしまった。


「結局、金か……」


 異世界に来ても、金の問題からは逃げられないらしい。


 そのとき。


 ヒロシの頭に、一つの考えが浮かんだ。


「……動画?」


 日本のインターネットには接続できる。


 動画サイトも使える。


 ならば、この異世界の風景を撮影して投稿すればどうだろう。


 最初は誰も信じないだろう。


 精巧なCGだと思われるかもしれない。


 それでも、面白がってくれる人はいるかもしれない。


 収益化できるかどうかは別問題だが。


「……やってみる価値はあるか」


 ヒロシはカメラアプリを起動した。


 目の前に広がる草原。


 遠くの森。


 青い空。


 そして、地球では見たことのない、三つの尾を持つ鳥が空を横切っていった。


「……あれ、なんだ?」


 慌ててカメラを向ける。


 鳥は甲高い声で鳴きながら、森の方へ飛んでいった。


「……本当に異世界っぽいな」


 録画ボタンを押す。


「えー……こんにちは。田中……いや、ヒロシです」


 少し考えて、言い直した。


「今日から、ちょっと変わった場所で生活することになりました」


 カメラを草原へ向ける。


「見てのとおり、周りには何もありません。建物も、道路も、電柱もなし。とりあえず、今日中に水と寝床を確保したいと思います」


 そこで、言葉に詰まった。


 何を話せばいいのか分からない。


「……えーっと」


 沈黙。


 風の音だけが録音される。


「……動画投稿って、意外と難しいな」


 思わず苦笑した。


 結局、三分ほど撮影して終了した。


 編集する気力もない。


 タイトルだけ付けて、動画サイトにアップロードする。


『【異世界生活?】草原で目覚めた38歳会社員、まず水を探す』


 説明文には、こう書いた。


『不思議な世界での生活記録です。安全第一で頑張ります。』


 公開ボタンを押す。


 再生回数は、当然ゼロ。


「まあ、そりゃそうだ」


 ヒロシはスマートフォンをポケットにしまった。


 今は動画より、生き延びることが先決だ。


 太陽の位置を確認する。


 まだ朝らしい。


 森までは、歩いて一時間ほどだろうか。


 距離感はあまり当てにならないが。


「よし。行くか」


 ヒロシは草原を歩き始めた。


     ◇ ◇ ◇


 歩き始めて、三十分ほど経ったころ。


 ヒロシは、自分の判断が甘かったことを思い知っていた。


「……暑い」


 太陽が高くなるにつれ、気温が上がってきた。


 ワイシャツは汗で背中に張りついている。


 革靴は歩きにくい。


 草原は平坦に見えて、意外と起伏が多かった。


「異世界転生って……もっとこう、最初から親切な案内人とか出てこないのか?」


 誰も答えない。


「女神様とかさあ……」


 当然、返事はない。


 ヒロシはため息をついた。


 収納庫からお茶を取り出す。


 キャップを開け、少しだけ飲んだ。


「うまい……」


 冷たさが残っていた。


 気温が高いわりに、ペットボトルは冷えている。


 もしかすると、収納庫の中では温度が変化しないのかもしれない。


 だが、まだ断定はできない。


 とりあえず、残りのお茶は大切に使うことにした。


 さらに歩く。


 やがて、草原の向こうに細い道らしきものが見えた。


「……道?」


 近づいてみる。


 地面には、車輪のような跡が残っていた。


 草が踏み固められ、細長く土が露出している。


「おお……!」


 ヒロシは思わず声を上げた。


 道がある。


 ということは、人がいる可能性が高い。


「文明だ……!」


 こんなに道を見て感動したのは、生まれて初めてだった。


 ヒロシは道に沿って歩き始めた。


 だが、十分ほど進んだところで、奇妙なものを発見した。


 地面に、黒い染みが広がっていた。


「……なんだ?」


 近づく。


 鉄のような匂いがした。


 その瞬間、背筋が冷たくなった。


「……血?」


 黒く乾きかけた染み。


 その周囲には、草が踏み荒らされた跡がある。


 何かが争ったような形跡だった。


 ヒロシは立ち止まった。


 ここには、人間がいるかもしれない。


 だが、危険な生き物もいるのだ。


 当たり前のことを、ようやく実感した。


「……まずいな」


 武器はない。


 戦闘経験もない。


 三十八歳の会社員が、未知の世界で魔物と戦えるはずがない。


 ヒロシはスマートフォンを取り出した。


 ChatGPTに相談しようとした、そのとき。


「……っ!」


 かすかな音が聞こえた。


 何かが、草を踏む音。


 ヒロシは顔を上げた。


 道の先。


 背の高い草の向こうで、何かが動いた。


 人影だった。


「……人?」


 反射的に声をかけそうになった。


 だが、その人物の姿が見えた瞬間、言葉を失った。


 銀色の髪。


 尖った耳。


 革の鎧。


 腰には剣。


 そして、その人物は左腕を押さえながら、ふらふらと歩いていた。


 若い女性だった。


 美しい顔立ちをしているが、血の気がない。


 肩から腕にかけて、赤黒い血が染みていた。


「……誰か……」


 女性が呟いた。


 ヒロシには、その言葉が理解できた。


 日本語ではない。


 少なくとも、そう聞こえた。


 それなのに、意味が分かった。


「……助け……」


 女性の膝が折れる。


「あっ!」


 ヒロシは慌てて駆け寄った。


 倒れかけた体を支える。


 思ったより軽い。


 銀色の髪が、ヒロシの腕にかかった。


「大丈夫ですか!?」


 女性は薄く目を開けた。


 澄んだ青い瞳。


 だが、その瞳には警戒の色が浮かんでいた。


「……あなた……誰……?」


「えっと、ヒロシです! 怪しい者じゃありません!」


「……怪しい人は……みんな……そう言う……」


「ですよね!」


 思わず同意してしまった。


 女性は小さく笑った。


 だが、すぐに苦しそうに顔を歪める。


「……逃げて……」


「え?」


「……まだ……近くに……」


 そのときだった。


 草むらの向こうから、低いうなり声が響いた。


 ぐるるるる……。


 ヒロシの背筋が凍った。


 ゆっくりと顔を上げる。


 草が揺れていた。


 そこから現れたのは、巨大な獣だった。


 狼に似ている。


 だが、普通の狼ではない。


 体長は二メートル近く。


 黒い毛皮。


 額からは、湾曲した一本の角が伸びている。


 口元には、長い牙。


 黄色い目が、こちらをじっと見つめていた。


「…………」


 ヒロシは動けなかった。


 獣が、一歩近づく。


 銀髪の女性が、かすれた声で呟いた。


「……角狼……」


「つ、角狼?」


「……逃げ……て……」


 獣が牙を剥いた。


 ヒロシの頭の中で、警報が鳴り響く。


(やばい)


(やばいやばいやばい!)


 戦えない。


 逃げようにも、怪我人を抱えている。


 収納庫に武器はない。


 スマートフォンで助けを呼んでも、誰も来ない。


 どうする。


 どうすればいい。


 そのとき、ヒロシの手に触れていた女性が、小さく呟いた。


「……置いて……行って……」


 ヒロシは女性を見た。


 青い瞳が、苦しそうに揺れている。


 初対面の女性だ。


 名前も知らない。


 この世界の人間なのかどうかさえ、よく分からない。


 助ける義務など、どこにもない。


 自分一人なら、逃げられる可能性もある。


 だが。


「……冗談じゃない」


 ヒロシは歯を食いしばった。


 ここで彼女を置いて逃げたら。


 たぶん、一生後悔する。


 いや、すでに一度死んでいるのだから、二度目の人生かもしれないが。


「……俺だって、好きでこんなところに来たわけじゃないんだ」


 獣が身を低くした。


 飛びかかる姿勢だ。


 ヒロシは周囲を見渡した。


 石。


 草。


 道。


 倒木。


 そして、収納庫。


「……そうだ」


 ヒロシは、足元に落ちていた拳ほどの石を拾った。


 獣が唸る。


「俺は勇者じゃない」


 石を握りしめる。


「剣も使えないし、魔法も知らない」


 女性を片腕で支えながら、ゆっくりと後ずさる。


「でもな……」


 獣が跳んだ。


 ヒロシは石を投げた。


 狙いは大きく外れた。


「うわああああっ!」


 情けない悲鳴が草原に響く。


 獣の牙が目前に迫る。


 ヒロシは女性を抱えたまま、横へ倒れ込んだ。


 鋭い爪がワイシャツの袖を裂く。


 地面に転がったヒロシは、必死に起き上がろうとした。


 だが、足がもつれる。


 獣が振り向いた。


 もう逃げられない。


 その瞬間。


「……伏せて!」


 銀髪の女性が叫んだ。


 ヒロシは反射的に頭を下げた。


 青白い光が視界を横切る。


 次の瞬間、獣の顔面で火花が散った。


 バチィッ!


「ギャウッ!」


 獣が悲鳴を上げ、後退する。


 焦げた毛の匂いが漂った。


 女性の右手から、細い煙が立ち上っていた。


「……いま……逃げて……!」


「いや、だから置いていけないって!」


「……馬鹿……なの……?」


「よく言われます!」


 ヒロシは女性を抱え直した。


 獣はまだ倒れていない。


 目を細め、こちらを睨んでいる。


 次に飛びかかられたら終わりだ。


 ヒロシは必死に考えた。


 相手は大きい。


 速い。


 こちらには武器がない。


 だが、近くには倒木がある。


 その先には、地面が大きくえぐれた場所が見えた。


 雨水で削られた溝だろうか。


 深さは分からない。


 危険だ。


 だが、ほかに選択肢がない。


「……一か八かだ!」


 ヒロシは女性を支えながら、倒木の方へ走った。


 獣が追ってくる。


 地面を蹴る音が迫る。


 ヒロシは倒木を回り込んだ。


 その瞬間、足元の石につまずいた。


「うおっ!?」


 体が傾く。


 だが、それが幸運だった。


 獣の牙が、ヒロシの頭のすぐ上を通り過ぎた。


 勢い余った獣は倒木を飛び越え、その先の溝へ落ちた。


 鈍い音。


 続いて、激しい唸り声。


「……え?」


 ヒロシは振り返った。


 溝の底で、獣がもがいていた。


 深さは二メートルほど。


 獣は前脚を痛めたらしく、すぐには登ってこられないようだった。


「……助かった?」


 そう呟いた瞬間、獣が壁を蹴った。


 爪が土を削る。


「いや、助かってない!」


 ヒロシは再び走り出した。


 女性を抱えたまま、必死に草原を駆ける。


 息が切れる。


 足が痛い。


 心臓が破裂しそうだ。


 それでも、走った。


 どれくらい走ったのか。


 やがて、獣の唸り声が聞こえなくなった。


 ヒロシは大きな木の陰にたどり着き、ようやく足を止めた。


「はあっ……はあっ……!」


 その場に座り込む。


 女性をそっと地面に寝かせた。


 彼女は目を閉じていた。


「……大丈夫ですか?」


 返事がない。


「ちょっと、待ってくださいよ……」


 ヒロシは慌ててスマートフォンを取り出した。


 画面を開く。


 ChatGPT。


 指が震えて、うまく文字を打てない。


 それでも、なんとか入力した。


『怪我をした女性を助けました。左腕から出血しています。意識が弱いです。医療設備はありません。どうすればいいですか?』


 返答が表示される。


 まず周囲の安全を確保すること。


 呼吸と反応を確認すること。


 出血部位を直接圧迫すること。


 清潔な布があれば使用すること。


 傷に異物が刺さっている場合は、無理に抜かないこと。


 そして、できるだけ早く医療を受けさせること。


「……清潔な布」


 ヒロシは自分のワイシャツを見た。


 袖は獣に裂かれている。


 泥もついていた。


「……駄目だな」


 ほかに使えるものはないか。


 収納庫を確認する。


 おにぎり。


 お茶。


 石。


 枯れ枝。


 そして――。


「……財布」


 いや、財布ではない。


 スマートフォンだ。


 通販サイトが使える。


 日本の商品が収納庫に届く可能性がある。


 だが、ボールペンすらまだ届いていない。


 今から注文して間に合う保証はない。


「……くそっ!」


 ヒロシはワイシャツの比較的汚れていない部分を裂き、布を作った。


 女性の傷口を確認する。


 左腕には、深い裂傷があった。


 血はまだにじんでいる。


 ヒロシは布を重ね、傷口を圧迫した。


「……頼む」


 女性の顔色は悪い。


 だが、呼吸はある。


 ヒロシは必死に声をかけた。


「聞こえますか?」


「…………」


「俺はヒロシです。あなたの名前は?」


 しばらくして。


 女性の唇が、かすかに動いた。


「……リゼ……ット……」


「リゼットさん?」


「……リゼット……アルフェリア……」


 ヒロシは小さく頷いた。


「分かりました。リゼットさん」


 彼女の手が、ヒロシの袖を弱々しくつかんだ。


「……どうして……」


「え?」


「……どうして……助けたの……?」


 ヒロシは少し考えた。


 立派な理由などない。


 勇者でもない。


 正義感にあふれた人間でもない。


 ただ。


「……目の前で人が死ぬのは、嫌だったんです」


 そう答えた。


 リゼットは、わずかに目を開いた。


「……変な……人……」


「今日だけで二回も言われましたよ」


 ヒロシは苦笑した。


 リゼットの口元が、ほんの少し緩んだ。


 だが、すぐに意識を失った。


「……リゼットさん?」


 返事はない。


 ヒロシは呼吸を確認した。


 生きている。


 だが、急がなければならない。


 ヒロシは顔を上げた。


 木々の向こうに、古い石造りの建物らしきものが見えた。


 崩れかけた屋根。


 草に埋もれた壁。


 人が住んでいる様子はない。


「……建物?」


 少なくとも、雨風はしのげるかもしれない。


 ヒロシはリゼットを抱き上げようとした。


 だが、腕に力が入らない。


「……重い」


 リゼットが重いのではない。


 自分の体力が足りないのだ。


 運動不足の三十八歳には、怪我人を抱えて歩くのは厳しかった。


「……筋トレ、しておけばよかった」


 情けない愚痴が漏れる。


 それでも、ヒロシは諦めなかった。


 肩を貸す形でリゼットを支え、少しずつ歩き始める。


 一歩。


 また一歩。


 木々の間を抜ける。


 やがて、視界が開けた。


「……おお」


 そこには、小さな集落の跡があった。


 石造りの井戸。


 崩れかけた家屋。


 雑草に覆われた畑。


 朽ちた木柵。


 かつて人が暮らしていた場所。


 今は、誰もいない。


 ヒロシは集落の入口に立った。


 傾いた木製の看板がある。


 見たことのない文字が刻まれていた。


 それなのに、不思議と意味が理解できた。


『エルム村』


 その下には、別の文字が彫られている。


『北方開拓暦二百七十一年 廃村指定』


「……廃村?」


 ヒロシは周囲を見渡した。


 静かだった。


 人の気配はない。


 風に揺れる草の音だけが聞こえる。


 それでも、建物はある。


 井戸もある。


 畑だった場所もある。


 何より、今はリゼットを休ませる場所が必要だった。


「……とりあえず、ここだな」


 ヒロシは小さく頷いた。


 まだ、この場所が安全かどうかは分からない。


 井戸が使えるかも分からない。


 なぜ廃村になったのかも知らない。


 それでも。


「ここから、始めるか」


 誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。


 そのときのヒロシは、まだ知らなかった。


 この荒れ果てた廃村が、やがて数万人、数十万人の暮らしを支える都市へと変わることを。


 多くの冒険者、職人、商人、学者、兵士たちが、この地に集うことを。


 遠く離れた日本の人々までが、この小さな村の行く末を見守るようになることを。


 そして、いつの日か。


 この村の名が、一つの王国の首都として歴史に刻まれることを。


 もちろん、そんな未来など想像もしていないヒロシの頭にあったのは、もっと切実な問題だった。


「……まず、どの家が倒壊しなさそうか調べないとな」


 彼はリゼットを支え直した。


「あと、水。水も必要だし……ああ、そうだ。トイレもないじゃないか」


 王国建設への第一歩は、なんとも地味なものだった。


     ◇ ◇ ◇


 その日の夕方。


 旧エルム村の、比較的壁が残っている小屋の中。


 ヒロシは床に座り込み、スマートフォンを眺めていた。


 リゼットは、拾い集めた布や枯れ草を敷いた場所で眠っている。


 出血はひとまず落ち着いていた。


 だが、まだ安心はできない。


 日が暮れる前に、建物の入口を倒木で塞いだ。


 獣が入ってこないようにするためだ。


 もちろん、どれほど効果があるかは分からない。


 ヒロシは深いため息をついた。


「……初日からハードモードすぎるだろ」


 そのとき、スマートフォンが震えた。


 通知だった。


『ご注文の商品をお届けしました』


「……え?」


 ヒロシは収納庫を開いた。


 一覧に、新しい項目が表示されている。


【ボールペン ×1】


「……来た」


 取り出してみる。


 手の中に、透明な袋に包まれたボールペンが現れた。


 確かに、日本の通販サイトで注文した商品だった。


「……本当に届いた」


 ヒロシは、しばらく言葉を失った。


 日本から、この世界へ。


 物が届く。


 それが何を意味するのか。


 まだ、完全には理解できていなかった。


 だが、確信したことが一つある。


「……生きていけるかもしれない」


 もちろん、問題は山積みだ。


 日本円には限りがある。


 配送には時間がかかる。


 この世界のことも、ほとんど分からない。


 それでも、希望が見えた。


 ヒロシは動画サイトを開いた。


 朝に投稿した動画の再生回数を確認する。

【異世界生活?】草原で目覚めた38歳会社員、まず水を探す



再生回数

7


高評価

1


コメント

1




「……七回」


 ヒロシは苦笑した。


「まあ、初投稿ならこんなもんか」


 コメントが一件ついていた。


『背景すごいですね! どこのゲームですか?』


「……ゲームじゃないんだけどな」


 ヒロシは少し考えてから返信した。


『ありがとうございます。これから少しずつ紹介していきます。』


 嘘はついていない。


 だが、本当のことも言っていない。


 今は、それでいいだろう。


 スマートフォンを置こうとした、そのとき。


 隣から小さな声が聞こえた。


「……ヒロシ……?」


 振り向く。


 リゼットが目を開けていた。


「あ、気がつきましたか!」


 ヒロシは慌てて近づいた。


「痛みはどうですか? 水、飲めます?」


 リゼットはぼんやりと天井を見上げた。


 それから、ゆっくりと周囲を見渡す。


「……ここ……」


「廃村みたいです。エルム村って書いてありました」


 その言葉を聞いた瞬間。


 リゼットの表情が変わった。


「……エルム……村?」


「はい。知ってるんですか?」


 リゼットは、信じられないものを見るようにヒロシを見つめた。


「……どうして……ここに……?」


「いや、たまたま見つけただけですけど……」


 リゼットの顔から、さらに血の気が引いた。


「……駄目……」


「え?」


「……ここは……駄目……」


 彼女は震える右手で、ヒロシの袖をつかんだ。


「……ここは……人が住んじゃ……いけない……場所……」


 ヒロシは息を呑んだ。


 リゼットの青い瞳には、明らかな恐怖が浮かんでいた。


「……どういうことですか?」


 彼女は唇を震わせた。


 そして、小さな声で答えた。


「……この村は……」


 その瞬間。


 村のどこかから、低い音が響いた。


 ゴォォォン……。


 鐘の音だった。


 ヒロシは思わず振り返った。


 窓の外には、夕闇に沈む廃村が広がっている。


 誰もいないはずの村。


 動くものなど、何もないはずの場所。


 それなのに。


 ゴォォォン……。


 再び、鐘が鳴った。


 リゼットが、震える声で呟いた。


「……始まった……」


「……何が?」


 彼女はヒロシの手を強く握った。


「……夜の……巡回が……」


 その直後。


 小屋の外から、重い足音が聞こえてきた。


 ガシャン。


 ガシャン。


 まるで、金属の鎧を着た何者かが歩いているような音だった。


 ヒロシは息を止めた。


 足音は、少しずつ近づいてくる。


 そして。


 小屋の入口の前で、ぴたりと止まった。


 ――コン、コン。


 扉を叩く音がした。


 ヒロシは、スマートフォンを握りしめた。


 画面には、先ほどまで開いていたChatGPTの会話が表示されている。


 だが、こんな状況で何を質問すればいいのか。


 三十八年生きてきた彼にも、さっぱり分からなかった。


 扉の向こうから、低く、ひび割れた声が響いた。


「――住民確認」


 ヒロシの背筋を、冷たいものが走った。


「――エルム村、未登録の生命反応を二件確認」


 そして、声は続けた。


「――旧王国法に基づき、排除処理を開始する」


 ヒロシは思った。


(……やっぱり、異世界って怖いところじゃないか!)


 その夜。


 後にエルム王国の初代国王となる男は、人生で初めて、心の底からこう願った。


(誰か、助けてくれええええっ!)

プロローグ 完


次回:第一部「異世界転生と最初の仲間」


第1章 廃村の夜と、役に立たないチート能力


誰もいないはずの廃村を巡回する謎の存在。負傷したリゼットを守りながら、ヒロシは初めての夜を生き延びられるのか。そして、旧エルム村が廃村となった本当の理由とは。

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