三、お別れと告白
三年の辛抱だから。――それが、彼とわたしの甘い関係に苦みが加わった、決定的な一言でした。
彼とのお付き合いは、彼が大学院に進み、わたしが一般企業への就職を諦めて家業を手伝うようになってからも続いていました。学生時代と違い、なかなか直接会うことが難しくなっていましたが、その分、次にお会いできる日を心待ちにするようになっていました。
その日も久しぶりのデートだったのですが、どこか表情が曇りがちだったので心配したところ、彼の口から悩みを打ち明けられました。
「急な話なんだけどさ。実は、産学連携プロジェクトの計画があってね。僕の指導教授が、そのプロジェクトの旗振り役の会長と知り合いでさ。僕にもプロジェクトメンバーへ加わって欲しいって言うんだ」
「へぇ~、凄いじゃない。何が気がかりなの?」
「プロジェクトの本部が、札幌にあるんだ。それで、企業側のコンプライアンスの関係で、研究データが本部内でしか扱えないから、プロジェクト期間中は向こうに居なきゃいけないんだ。滞在に掛かる諸経費なんかは、教授が何とかしてくれるとは言うんだけど……」
「だけど?」
「深町さんと離れなきゃいけないのが、ちょっと。プロジェクトは、向こう三年を予定してるから」
「そうね。三年も逢えないのは寂しいかも。でも、せっかくのチャンスを逃す方が勿体無いわよ。わたしなら平気だから」
「……ごめん」
「謝らないで。ホントに大丈夫だから」
「三年の辛抱だから。期間満了したら、必ず戻ってくるから」
本音を言えば、全然平気ではありませんでした。それでも、彼には行けるところまで行って実力を発揮してもらいたかったので、背中を押してあげることにしたのです。
この時に引き留めていれば、という思いに駆られたのは、それから二年後のことでした。
「ハルカ。あんたに、良いお話があるんだけど」
「あっ、さっき電話が入ってたんだ。折り返してくる!」
「待ちなさい、ハルカ! もう、しょうがない子ねぇ」
あの一オクターブ高い声音からして、きっと雪村くんのことを諦めさせようと、またまた縁談を持って来たに違いない。そう直感したわたしは、母から逃げるように襖を開け、鰻の寝床を奥へと進みました。そして、電波状況は良いが底冷えのする土間へ降りると、通話ボタンを押しました。
「もしもし、深町です」
「あっ、ハルカちゃん。今、電話しても大丈夫なの?」
「はい。むしろ、グッドタイミングでした。ところで、ご用件は?」
「それが、トオルくんのことで、旦那からは言うなって言われてるんだけど……」
雪村くんのお義姉さんの内容を要約すると、慣れない環境での無理が祟って肺炎になってしまい、市内の病院にいるということ、それから、過去に喘息の既往歴があるため、重篤化しないか心配だということでした。
居ても立っても居られなくなったわたしは、通話を終えた後、急いで階段を駆け上がって自室へ向かい、大きめのトートバッグに適当な旅支度を入れると、居間で待っていた母にこう言いました。
「すぐ札幌に行かなきゃいけないの。晩ご飯はいらないから!」
「ちょっと、ハルカ。どういうこと? ちゃんと分かるよう説明なさい」
「ごめんなさい。事情は帰ってから話すわ!」
急いで京都駅へ到着したものの、陸路と空路のどちらが早く到着するか分からなかったわたしは、迷ってる時間も惜しく感じられ、ひとまず一番早い新幹線の切符を購入し、自由席で東京へと向かいました。
その後の行動計画は、車内でスマホを頼りに調べ、検索結果に従って乗り換えを繰り返し、何とか札幌市内にある病院へと辿り着きました。肺炎についても軽く調べてしまったせいで、症状によっては酸素マスクが必要になるという記述を見つけてしまい、一抹の不安を抱きつつ、ナースステーションで告げられた番号の病室へと足を踏み入れ、カーテンの向こう側へと移動しました。
「あれ? えっ、深町さん?」
「はぁ、良かった。想定してたより、ずっと元気そうで」
「待って、待って。どうして、ここが分かったの? 家族以外には誰にも言わないでって、しっかり念を押しておいたはずなのに」
王様の耳はロバの耳。言うなと言えば言うほど、誰かに言いたくなるものだということまでは、雪村くんの頭は回らなかったようです。
二年ぶりに見た彼は、少し窶れているようにも思えたものの、概ね健康そうでした。
突然お見舞いに来たわたしに、しばし彼は驚きを隠せない様子でした。でも、わたしから諸々の事情を説明すると、疑問点が補助線で繋がったことに納得し、そして改まった調子でこう言いました。
「本当は、もう少し先になってから、ちゃんとした場所で言おうと思っていたことなんだけど、この際だから言ってしまうね」
「何かしら?」
「このプロジェクトが終わったら、神戸にある大学に研究室を貰えることになったんだ。もっとも、教授や准教授ではなくて、学部の専任講師としてだけど」
「わぁ、すごい! やったじゃない」
「ありがとう。でも、今のは前置きで、本題はここからなんだけどさ。あのね。深町さんにとっては、僕が居なくても平気だろうけど、僕にとっては、深町さんがいなきゃ駄目なんだ。だから、勝手なお願いだとは分かってるんだけど、……僕と結婚してください」
言い終わるか終わらないかで、彼は両目をギュッと瞑り、右手を差し出して来ました。
その後、その場でわたしがどういうお返事をして、京都に帰ってから両親にどう説明したかは、薬指のエンゲージリングと、苗字が深町から雪村に変わったという情報だけで、容易に推測できることでしょうから、これ以上の野暮な説明はしないでおきますね。
長い恋が愛へと生まれ変わったあの日、雪融けしたばかりの街に立つわたしの頬を、春一番はそっと通り抜けていきました。