『テルール』プロローグ
部屋のドアが、静かに開かれた。その控えめな響きに、シャルロットは全てが済んだ事を悟る。
「……シャルロットさん」
同居人である友人のマトンが、徐ろに名を呼んできた。既に日の暮れ落ちた街を見下ろしていたシャルロットは振り返り、彼に尋ねる。
「終わったのですか?」
「ええ──」
マトンは言い、静かに目を伏せる。その口元が微かに戦慄き、彼はそれを抑えようとするかのように唇を噛んでいた。きっと、追弔の言葉を口にすべきか否かを迷っているのだろう。
彼らはきっと、天国には行けない。その事は、シャルロットがいちばんよく理解していた。シャルロットは意図的に微かな笑みを浮かべて見せ、「お気になさらないで下さい」と言った。
「ありがとう、伝えてくれて」
今日──共和暦二年熱月十日(西暦一七九四年七月二十八日)、午後八時過ぎ。
シャルロットは、兄と弟を同時に喪った。彼らはつい先程、セーヌ川北岸の革命広場で断頭台に掛けられ、生涯を終えた。それぞれの享年は、兄が三十六歳、弟が三十一歳だった。
彼らはその断頭台によって、多くの者たちを粛清し、遂には自分たちがそれに掛けられる事となった。運命といえば説明がつかなくもないが、如何に精神的な距離が離れてしまっていたとはいえ、兄弟が首を落とされるところなど、シャルロットが見たいと思うはずがなかった。
──弟とは、最後まで和解出来ないままだった。
(オーギュスタン……)
胸中で彼の名を呼ぶと同時に、喉元に熱いものが込み上げるのが分かった。友人を安心させるべく努めて微笑みを維持しようとしていた口元が、無意識のうちに歪んでいた。
気付けば視界が潤み出しており、あっ、と思った時には涙が頰を伝っていた。
「シャルロットさん、無理はしないでいいんですよ」
「大丈夫。本当に……大丈夫ですから」
マトンは歩み寄って来ると、こちらの肩にそっと手を置いた。
弟との擦れ違いには、双方に落ち度があった。だがやはりシャルロットは、最後は自分が、彼の気持ちをきちんと慮る事が出来なかった事が決定打となったような気がする。
自分は家族を意識するあまり、却って家族の内面までを顧みる事が出来なくなってしまっていた。あまりに、過剰に干渉しすぎてしまった。昨年の南フランスへの旅の最中、ニースで自分とあのリカール夫人との間に生じた角逐などは、ほんの些細なきっかけに過ぎなかったのだ。
今月の初め、自分が弟に送った手紙の事は記憶に新しい。自分は何故、自らが理解を求めていたはずの弟に、あんな言葉を書き送ってしまったのかと考えると、余計に後悔が募るようだった。
『私は、あなたが私に対して抱いている嫌悪を少しでも減らしてくれたらと期待していました。ところがどうやら、それは増々激しい憎しみへと変化してしまったようですね』
そして、こうも書いた──『兄弟から憎まれるという事が、私を何よりも不幸にさせるのです』。
冷静に考えれば、簡単に分かる事だった。弟も兄も、どれだけ衝突する事があったとしても、自分を憎んだりなどするはずがない。
シャルロットは、家族がばらばらになる事を恐れていた。幼い頃から、自分たちは幾度も一家離散の危機に直面してきたからだ。
幼少期の母の死と父の失踪。兄弟姉妹が分かたれ、別々の家で育った事。その家族すら、徐々にそれぞれの道を歩み出した事。そして何よりも悲しかった、一人の妹の死──。
最終的にはこうして、シャルロットを残し、血縁によって繋がった者たちは皆居なくなってしまった。自分は、とうとう独りになってしまったのだ。
しかし、たとえ自分と弟が和解出来ていたとしても、彼らに訪れた死だけは、回避出来ないものであったように思う。
「……遺体」
シャルロットは、ぽつりとそう零した。
「兄と弟の遺体とは、これから対面出来るのでしょうか?」
「難しい──と思います。お兄様と弟様を含めた二十二人の亡骸は、今日中に区内のエランシ墓地に運ばれ、埋葬されるとの事でした。それに……もしご対面が叶うとしても、私はお勧めは出来ません」
マトンの言葉に、シャルロットはこくりと肯いた。
人々の目を気にしてというより、彼らが首を落とされる瞬間を見たくなかったからこそ、自分は公開処刑の場に行かなかったのだ。頭と胴の離れた兄弟の亡骸と向き合う覚悟は、シャルロットにはなかった。
──という事は、最後のお別れもなしという事か。
彼らは、家族よりも仲間たちの理想や大義を優先し、それに準じたのだろうか、と思った。兄に逮捕命令が出された時、弟が言ったという言葉──「私は兄と運命を共にする」──から、彼らの絆が最後まで切れる事のなかったという事は想像出来るものの、それは血縁による無条件の連帯ではなく、あくまで目的を同じくする同志としての結束だったのだろう。
彼らは、兄のしばしば口にしていた「徳」を共有していたのだ。
それが善だったのか否かは、今この時点では、自分に判断を下す事は出来ない。ただ事実は、その為に多くの命が失われていった事。
彼らが、自身たちをも犠牲にして成し遂げようとした事は、正しかったのか。少なくとも人々は、彼らを悪と裁断した。
「兄たちが──」
シャルロットは呟いた。マトンが「えっ?」と顔を上げる。
「彼らの同僚だった者たちが彼らに問うた恐怖と暴力の責任について、その是非はこれからの歴史が証明してくれるでしょう」
「シャルロットさん……」
マトンは少々言葉を切ってから、
「……そうですね」
と言った。
「少なくとも断頭台は、この先なくなるでしょう。人々の中で、それは恐怖の時代を象徴するものでした。その時代を否定した者たちであればきっと、それを残すような事はしない」
「ええ」シャルロットは肯く。
「私がこのような事を言うのもおこがましいかもしれませんが──生きて、確かめる事にしましょう。私もあなたも、生きねばならないのです」
「そうね……ありがとう、マトンさん」
シャルロットは指先で涙の雫を払うと、再び窓外に視線を戻した。
時代の中に命を散らせていった、沢山の人々の事を思う。
──ルイ十六世、デムラン、ダントン……そして今日、革命広場で処刑された二人の兄弟。
兄マクシミリアンと、弟オーギュスタン。
好物のオレンジを手に、愛犬と共に穏やかに笑う兄の姿が浮かんできた。
(あなたたちの死を、無駄にはしない)
シャルロットは胸中で呟く。
沈んだばかりの日が再び昇る頃には、この街に住む全ての人々が「独裁者の死」を知り、その多くが恐怖の時代が終わりを迎えた事を祝福している事だろう、と想像する。
* * *
顎に巻かれていた包帯が毟り取られ、マクシミリアンは苦痛に呻いた。
下顎が剝がれ、だらりと垂れるのが分かった。包帯を剝ぎ取った処刑人のサンソンは、ここまで二十人の同志の首を斬り落とす断頭台の刃を落とした時と同様、一切表情を変える事なく自分を見つめていた。
十七時間に渡る苦痛が、終わろうとしていた。
昨日、市庁舎に軍が踏み込んで来た時、顎を撃たれたのだ。自分と同志たちが逮捕された時、パリ自治体議会は自分たちを救おうとし、区内の民衆に蜂起を呼び掛ける声明を用意した。しかし、マクシミリアンはその書類に署名しようとし、すぐに中断した。まさにその時、軍が突入して来た。
最初から、覚悟は決めていた。せめて数人の仲間たちを救う事が出来たらと考えて一度はペンを執りかけたが、その為に無辜の民衆たちを巻き込む訳には行かない、と思った。
撃たれる直前、ル・バがピストルで顳顬を撃ち抜き、自決した。それを見た時、マクシミリアンは直前に自分の考えた事が如何に傲慢であり、同志たちに対して礼を失した事であったのかを悟った。
彼らも皆、自分と共に革命に殉ずる覚悟を決めていたのだ。それを甘く見てはならなかった。
弾は頰を貫通し、下顎をほぼ完全に打ち砕いていた。朦朧とする意識の中、同じ部屋に居た弟オーギュスタンやクートンらがそれからどうなったのかは分からなかったが、すぐにどちらも生きていた事が判明した。オーギュスタンはこちらが撃たれるのを見るや、窓から身を投げて自決を図ったらしいが、随所を骨折するだけで一命は取り留めたらしい。
その弟も、先程自分より一足早く刑を執行され、物言わぬ骸となっていた。
マクシミリアンは顔を上げ、サンソンを見る。
彼はきっと自分を恨んでいる事だろうな、と思った。少年の頃から処刑に携わってきた彼が本当は心優しい人間で、心根の部分では自らと共感し得るものがある、とは以前から思ってきた。
その彼も自分たちの革命運動によって、恐らく人類史上最も多くの人間を処刑した死刑執行人となってしまった。
「こちらへ」
自分にその刑を執行させ続けてきた者たちが裁かれる側となり、自らの手によって生涯を閉じていく。その事で最早何も感じなくなってしまったのか、彼は至極淡々とした調子でマクシミリアンをそう促した。
断頭台に首を据えられようとしながら、マクシミリアンは少々迷い、意を決して小声で「サンソン殿」と呼ばった。
下顎が外れている為に、その声は酷く歪み、掠れていた。
「──辛い思いをさせましたね」
サンソンの目が、一瞬見開かれた。彼は何かを言おうとしたのか、唇を微かに開いて震わせたが、やがてそれは再び閉じられ、言葉を呑み込むかのようにぐっと噛み締められた。
マクシミリアンは、舞台の下からは分からない程度に頭を引く。
「頼みます」
沈みきろうとする夕日を浴び、血濡れた断頭台の刃は赤々と輝いている。
促されるまま、マクシミリアンはその下へと進み、群衆と向き合うように自らの首を差し出した。
──徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である。
今年の雨月(西暦二月)、自らが演説で語った言葉が脳裏を過ぎる。
自分の導いてきた革命に於いて、「徳」という言葉は最大のモットーだった。自分がこの言葉を学んだのは今から十六年も前、まだ学生だった頃の事だ。
あの頃マクシミリアンは、一人の大思想家と直接言葉を交わし、「徳」の何たるかを教えられた。混迷の時代に在って、幾つもの地獄の中からその一つを選ばねばならない時、「徳」のみが唯一の縁だった。
その記憶に引かれるように、無数の過去が胸裏に去来した。
断頭台の刃が落とされる一瞬、それらはマクシミリアンにとって走馬灯のようにも感じられた。
本日より新連載『テルール』の投稿を開始します。先日「未分類」に投稿したエッセイ「歴史小説に挑戦する」では本作の題名を『テルール Maximilien Robespierre』にすると書きましたが、サブタイの都合上エピソード名がとんでもなく長くなる為『テルール』のみにする事にしました。
そのエッセイでも述べた通り、本作は一人称視点での歴史小説を目指します。前連載『リ・バース』には時折、私のよく使用する視点表記が「PHASE」となり、三人称視点になっている箇所がありましたが、本作でそれは一切使いません。また、主要な出来事は変えませんが、史実でよく分かっていない部分や情報の錯綜している部分は私自身の歴史解釈や、こうだったら話として面白いな、という形にする他、効果的な演出の為に意図的に時系列を入れ替えた部分もあります。これは「史伝」ではなく「歴史小説」であり、「フィクションにて候」なのでゆめゆめ鵜呑みにしすぎませんようご注意下さい。
明日から本格的に物語が動き出しますが、最初にお断りを。本作の主人公マクシミリアン・ロベスピエールは、昔から評価が極端に二分化していました。それ故に、同時代の資料にすら意図的に貶めたり神格化したりするような表記があり、情報の錯綜の原因となっているのですが、私はあえて肯定的に描くつもりも否定的に描くつもりもありません。「こういうロベスピエールだったら面白いな」というオリジナルキャラとして動かしますので、その点を宜しくお願いします。




