『リ・バース』第二部 第3話 Quatre Feuilles⑧
* * *
自分の小屋のベッドで微睡んでいると、扉がノックされた。
靄が掛かっていた頭が、急にはっと覚醒する。小屋に戻って来たのは夕方頃だったが、外を見ると既に日は沈み、生ける屍たちの居る森が巨大な茸の菌床の如く黒々と泥んでいた。
戻って来た時には晴れていた空には、また灰黒色の雪雲が掛かっており、月は見えなかった。光源は、村の随所に水銀灯の代わりに立てた柱に括りつけた松明の炎だけだ。
跳ね起きた。微睡んでいるつもりだったが、予想以上に深く寝入ってしまっていたらしい。
「はい、今行きます!」
叫びながら出入口に直行し、扉を開けると、鍋を持参したアンドロメダが立っていた。病人に触れた直後だからだろう、手袋を嵌め、マスクは着けたままだ。
「アンバース殿……」
「アンドロメダさん、シュラはどうなりましたか? ラケルさんは?」
「あの子は、さっきようやく眠りました。義母も、さっき見たところ腹痛は治まったという事なので、若い人たちに任せて来ました。アンバース殿の様子を伺って来るように、と言われましたので」
「そうですか。……すみません、眠りこけてしまって」
「無理もありませんよ。今はアンバース殿が、最も神経を使っていらっしゃるのですから──」
アンドロメダは言うと、持っていた鍋を差し出してきた。
「これ、夕食の余り物ですけど……アンバース殿、ろくにお食事も取られていないのでしょう? シュラや他の子供たちの看病で、お料理をする時間も取れないという事でしたら」
「ありがたい、頂きます」
ライガは、本心から笑みを浮かべた。最近、自分が笑うのは無理をしているのを取り繕う時だけになってしまっており、その事は既にアンドロメダたちには周知の事実となっていた。
一週間前に小屋の中に運び込んでいた作業台の上に受け取った鍋を置き、燕麦粥を椀によそう。もう一度「頂きます」と断ってから匙をつけた。
例によってヴァイエルストラスで購入して来た牛乳の甘さが、アンドロメダの言う通り真面な栄養を摂っていなかった体に沁みるようだった。ふと気付き、彼女の方を振り返る。
「アンドロメダさん、ちゃんと食べましたか?」
病人たちの分を作っただけではないのか、という意味を込めて尋ねると、どうやら図星だったらしく、彼女は微かに俯いた。
「あなたも食べなきゃいけませんよ。シュラの性格は知っているでしょう、母親まで体調を崩したら、あの子は自分の看病で忙しかったせいだ、なんて考えて自分を責めかねない」
「……ありがとう、アンバース殿」
ライガがもう一つ椀を取り出してよそうと、彼女は素直に受け取った。
「……死者が出ていないのが、奇跡みたいですよね」
やや暫し経過してから、アンドロメダが独りごつようにぽつりと呟いた。ライガは刹那の間、彼女が言葉を発した事に気が付かず、少し遅れてから「えっ?」と聞き返した。
「ヴァイエルストラスでは例年、そこまで流行らないんです。しかし、北の疫病の話については、しばしば風聞で耳にしていました。発症から一週間程度が峠で、それが過ぎても快癒しない場合、回復は絶望的だって」
「アンドロメダさん……」
「最初に罹った人たちは、まだ良くなってはいないようです。これが例年の流行り病なのかは断言出来ませんが、私が思っていた以上に悪いようで……そろそろ、シュラが熱を出してから一週間になります。もしも明日か明後日、熱が下がらなかったらどうなるのかと思うと、私、怖くて……」
彼女も、張り詰めていた心に限界が訪れつつあるようだった。ライガは何か言葉を掛けねばならないと思いながらも、開きかけた口を閉じてしまった。安易な慰めを口にする事は出来ない。今の自分の一言一言は、村全体を預かる者としての責任を伴った言葉なのだ。
──最早、悩んでいる余裕はないのかもしれない。
自分が迷っている間に死者が出るような事になったら、取り返しがつかない。僅かにでも状況が好転するような事があるのであれば、全てを試したい、と自分は考えていた。
(一週間、か……)
もう、残された時間は少ない。ヴァイエルストラスまで、飛行術を使っても半日掛かる事を思えば、ここで判断を長引かせる事は出来なかった。
意を決し、ライガは口を開いた。
「アンドロメダさん。俺、これからちょっとヴァイエルストラスに行ってきます」
「えっ?」
「帝連軍に、医療班を派遣して貰います。応急処置をして、皆を首都の病院に連れて行って貰うんです。そうすれば、ここよりもずっと充実した治療が受けられる。ちゃんと栄養のある食べ物も貰えます」
言い切った。言い切ってしまえば、もう迷う事はないだろうと思った。
アンドロメダは、目を円くした。
「今から……ですか?」
「もう夜ですけれど、今から行けば明け方には都に着ける。軍が徒歩か馬かで来るのなら、明後日の朝にはここに本職の医者が到着する。陸戦艇を出してくれるなら、もっと早いかもしれない」
「待って下さい。その見積もりに、帝連の人たちが話し合う時間は含まれていませんよね?」
「本当であれば、人命が懸かっている時に悠長に話し合いをするなんて、帝国騎士のする事じゃないって言いたいですけど──確かにその通りです。ですから、なるべく早く出発しなきゃ」
「しかし……何も、アンバース殿が自ら出向かれる事は……」
アンドロメダは唇を噛む。ライガは頭を振った。
「死刑が主張されている俺が軍の人たちに会うのは、危険だと仰るのですよね。それも分かっています。お心遣いありがとう、でも、飛行術を使って逸早く都まで行けるのは俺しか居ません」
「………」
黙り込むアンドロメダの目を、ライガは真っ直ぐに見た。
「アンドロメダさん、俺はシュラや皆の事が大切です。彼らの為になる可能性がある事であれば、やらずに後悔はしたくないんです。シュラは──あなたの息子さんは今まで、俺にとっても救いになってくれていました」
「あの子が……?」
ライガは胸裏で、確かにそうだった、と呟いた。
「こんな事を言ったら、俺に助けを求めてやって来たあなた方を失望させる事になるかもしれません。けれど正直なところ、俺はずっと不安でした。軍から逃げ出した俺が、あなた方をまとめて、新しい生活を保障する事なんて胸を張って言えるんだろうかって。ずっと、気を張っていたんです。
だけどシュラは、そんな俺の心を癒してくれた。あの子と一緒に遊んだり、仕事をしたりしている時が、俺は楽しかった。俺は、知らない間にあの子に救われていた自分が居た事に気が付きました」
知らず知らずのうちに、ライガは自分が彼にいつか交流したジフト・ビギンズの子供たちを重ねていた事に気付いていた。
幼くして、国の将来を左右するという理由で命を狙われた彼ら。それは、イスラフェリーの末裔であるシュラも同じだ。ジフト軍残党はきっと彼を公国再興の旗印として探しており、帝連軍もそれを防ぐべく、その身柄の確保を目指しているかもしれない。だがライガは、もう自らの意思を政治に関与させる事の能わない子供たちが、大人の都合で生命や自由を左右されるのは見たくなかった。
かつて、自分はリュシアンやジョナサンを救う事が出来なかった。だから、シュラの事は、今度こそ守り抜きたいと思っていた。
エゴと言えばそれまでだ。しかし、それは間違った事ではないと思った。
「俺一人の力なんて、たかが知れたものです。だけど、俺はその中で、精一杯自分に出来る事をしたい」
きっぱりと言うと、アンドロメダは数秒の後、
「……あなたが、留守にしている間」
徐ろにそう言った。
「村の安全については、どのように守って下さるのでしょうか?」
「魔群に、何かあったら村人たちを守って戦うようにと命じておきます。病人の看護については、今参加してくれている人たちのローテーションが早くなって、少し負担が増えてしまうのですが」
「分かりました」
彼女は、意を決したように肯いた。
「私たちも、精一杯頑張ります」
「……ありがとう、アンドロメダさん」
ライガは言い、丁寧に頭を下げた。




