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2-6 夜に歌う鳥の名は 6

 


「……疲れた」

 鍛錬場から外に出たナハティガルは、心持ち重い足取りで来た道を戻っていた。

 幸いにも身体的な被害はない(顔を叩かれて少し切った口の中は、怪我のうちにも入らないからもういい)。

 無事で済まなかったのは、身に着けている服だけ。あちこちが見事なまでにほつれ、破け、裂けていた。元気よく暴れすぎたかと思うも、多勢に無勢だったから仕方がない。

 髪を結わえていた紐も、いつの間にか解けてどこかへ行ってしまった。鍛錬場を出る前に室内を一通り確認したが、見つけられず。

 多分、隅々まで探せば発見できたのだろう。

 けれど、あの場所にはもう長く留まりたくはなかった。浮かれていた愚かな子供を思い出すからだ。

 勿論、七名の兄騎士たちにした行いについては悔いてなどいない。ただ、髪紐だけは気に入っていたので残念だと思ったけれど。

 空を見上げれば悲しいくらいの青天で、ますます気持ちが落ち込む。


(……これからどうしようか) 

 ともあれ、引き摺っていても仕方がない。歩きながら考える。

 このまま騎士団に戻るのはまずい。非常にまずい。まずそれだけは理解できる。

 兄騎士たちに呼び出された従卒の少年が、ボロボロになって詰め所に戻ればどうなるかは想像に難くない。

 筆頭には連絡をしているから大丈夫だ、と言われた台詞を思い出す。

 結局、何も大丈夫ではなかったが無意味でもない。

(あれが本当なら……利用できるな)

 つまり、自由に行動出来る時間があるということだ。

 ならば一度『自宅』のほうまで戻って着替えてくるか?

 ナハティガルは一考する。

 そう悪くない考えだが……こちらにはこちらで厄介な存在がいるのも事実。大人しく見守ってくれればいいが、あの慇懃無礼な『兄』はきっと激怒するだろう。


(……私はとことん兄弟愛に恵まれていないなあ)

 そんなことを思い、少しばかり嘆いていた時だった。


「ん? そこにいるのは……従卒の」


(なぜこうも嫌な時に遭遇するんだ)

 姿を確認せずとも声だけで分かる。

 シュヴァルツェだ。天敵である四騎士の一人。


「こんなところで何、を……」

 相手の言葉が途切れた。

 まずい。今の自分は被害に遭ったばかりの姿でいる。

 口元の痣と、そこに滲む血。

 破れた襟元に、引き千切られた袖口。

 どう見ても何かあったとしか思えないその有様を、相手が見逃すはずもなかった。


「お前、それは……それは一体どうした!」

 怒りの形相で近づいてきたシュヴァルツェに、強い力で腕を掴まれる。

「う……ぁ」

 記憶の向こうから流れてきたのは逆さ十字の火刑場。

 死に繋がる拘束を受け、火に焼かれる思い出の場所。

 能力を封じ、こちらを非力な存在にしてくれたのは彼ら双子たちだった。

 シュヴァルツェはその片割れ。故に掴む力は聖釘に似て。


(いたい)

 じわじわと呪いを刻みつけられ、魔法も魔術も無力化されたあの拘束。

(こわい)

 大きな手が首を掴み上げ、地面から足が浮いたあの瞬間は今でも覚えている。

(……あつい)

 掴まれている箇所から業火が広がり、かつての傷を舐め上げる。


 一人きりで死を待っていた冷たい檻。漂っていた錆びた鉄の匂い――それとも血の匂いだったか?

 全ては幻覚。過ぎた過去。だというのに思考は幻視に焼かれ、恐怖の中に引き摺りこんでくる……寸前、唇を噛んで我に返った。


(……現実を見ろ。ここは……火刑場じゃ、ない)

 手先が冷えていく感覚に気づいたナハティガルは、どうにか気持ちを落ち着かせようと深呼吸する。

 しかし、上手くいったかどうか。

 一向に震えはやまず、依然として指先は冷たい。

(男たちからの暴力で記憶が連鎖したのか……厄介だな)

 己の情けなさに、思わず舌打ちしたくなる。

 どうにも熱が戻らない――どころか、足元から冷えていくようだった。

 その場に蹲りそうになるのを耐えていれば、腕を掴んだままのシュヴァルツェが痛ましげな声で言った。

「……歩けるか? 兄貴……筆頭殿のもとへ行くぞ。そして報告を――」


「――止めろ!」


 思いのほか、大きな声が出てしまった。

 気弱そうでお人好しの印象を抱かれがちな従卒の強い声に、驚いたのだろう。シュヴァルツェが目を丸くして見返す。

(しまった。失態だ)

 ナハティガルは苦い顔になるも、まだ挽回出来ると気持ちを切り替える。

(動揺するな。まだ綻びは見えていない)

 失望により生じた震えはそのままにしつつ(むしろ丁度いい)、急いで従卒の仮面を被ると、気弱な声で言葉を取り繕った。

「あ……あの、ひ、筆頭様に報告するのは、止めてください」

「なぜだ。報復でも恐れているのか? 大丈夫だ、筆頭殿なら――」

「……お願い、します」

 竜に対する囮として使い捨てられた件、書庫での不可解な接触などを思えば、今回のことをヴァイスリヒトに知られるわけにはいかない。絶対に。

(流石に監禁はしないだろうが……謹慎処分という名の軟禁はされそうだな)

 だからこそ、ここで確実に情報を止めなければならない。


「あの……どうか、このことはご内密に」

 緊張で震えながら、シュヴァルツェの袖を掴む。

 相手は封魔の騎士。捕まれば最後、そのまま刻印を押されて無力な一個人になりかねない。

 この手は悪手かもしれない。

 けれど、離してはいけない。口止めを約束するまでは、絶対に。

「だが」

「お願い、します」

 天敵に縋りつくなど羞恥の極み。しかし背に腹は代えられず。

 この交渉が上手くいかなければ、恥じて呻く明日すらないかもしれないのだ。

 シュヴァルツェに魔術を行使するのは憚られた。彼にも四騎士の加護があり、魔女に対する特効が発動すれば追い詰められるのはこちら。迂闊な行動は控えるべきだ。


 六年、生き伸びることが出来た。

 ここで、こんなことで、終わるわけにはいかない。


「このこと、は……誰にも、言わないで、ください」

 上手く舌が回らない。みっともなく懇願する様は、傍目から見ると大変に滑稽だろう。

 これで駄目なら交換条件でも出そうか。

 金銭、物品、あとは……あとは、何がある?


「ナハティガル、お前は――」

 シュヴァルツェの顔が険しくなるのを見て、ナハティガルは俯く。

 項垂れ、ぎゅっと目を閉じて死の宣告を待つばかり。



 ◇



『誰にも、言わないでください』

 その痛ましい姿をした小鳥は、泣きそうな声で懇願した。

 長兄であり四騎士筆頭ヴァイスリヒトの従卒、ナハティガル。

 その噂も情報も、兄弟たちから流れてきていた。身内以外の他者には関心を持たない、我らレクスミゼルの気を惹きつけつつある不思議な少年だ。

 しかし年少の従卒でもある為に気苦労が多いらしい。

 だから気にかけてやってくれ、と長兄から言われ、そこまで守られている少年のことが気になっていた。

 いつかロゼウスと二人で様子を見に行こうと思っていた、その矢先。

 たまたま通りがかった鍛錬場の前で、まさか見つけることになろうとは。


 少年は――酷い姿をしていた。

 下級層の出にしては……というのは偏見か。とにかく、いつも身綺麗にしていたからこそ遠目からでも分かるその異様さが目についた。

 乱暴にされたのだろう、後ろで一つに纏めていた髪は解けて乱れ、細い肩に落ちかかっている。

 強い力の負荷も与えられたようで、簡素な服はあちこちが埃で汚れており、破れていた。糸のほつれた裂け目からは白い肌が露わになり、陽光の下で不健全な姿態を見せつけている。

 極めつけは、その顔。

 口の端に、青痣と赤い滲みが一つ。

 どう考えても殴られた跡だった。


「何があった。……誰にやられた?」

 思わず駆け寄りその腕を掴めば、相手がびくりと身を竦ませる。

 酷く蒼褪めた顔。小刻みに震える体。シュヴァルツェの声音にではない。接触に対する反応だ。

 それは、ナハティガルの身に何が起こったのかを明確に想像させるものでいて。

(これは……) 

 男が男に……などと、口が裂けても言えないだろう。

 シュヴァルツェは憐憫から眉を寄せる。


(まだ子供だぞ。なのに、どうしてこんなことが出来る?)

 逃げた年上の同胞を責めもせず、処罰しようとしていた長兄を穏やかに制して許したと聞いている。

 虐げられても挫けぬ強さは眩く、しかしどこか脆くも見えて庇護欲を誘う少年だった。

(……守るつもりだったんだ、俺たちは)

 清き水のように透明な善性と純真な心を持ち、気高い精神を持った少年の保護はしかし間に合わず。

 結果、酷い目に遭わされた状態でシュヴァルツェの目の前に現れた。

 寄りにもよって、また同胞に。

 あろうことか、騎士団内で。

 だからこそ、これは。


 ――この悲劇は沈黙の棺に納めねばならない。

 それはボロボロにされた小鳥の為か、それとも守れなかった騎士の矜持の為か。


「……分かった。誰にも言いやしない」

 慰めにはならないだろうが、今はそれだけを言うのが精いっぱいだった。

 ナハティガルが大きく息を吐き出し、安堵の表情を浮かべるのをシュヴァルツェは見る。

「あ……ありがとう、ございます」

 感謝の言葉を述べる小鳥の顔色はけれどまだ悪く、微かに震えていた。

 無理もないだろう。普段は冷静で大人びた態度でいるが、こんな目に遭わされては簡単には落ち着けまい。

 ふと見れば、服を強く引っ張られたか襟元が伸びて鎖骨が覗いている。

 白く滑らかな肌だ。

 暴漢たちにはさぞ上等な肉に見えただろう。

 伏し目がちの顔。意外と睫毛が長いんだな、と見惚れ――何を場違いなことを考えているんだと、かぶりを振る。

 今のは情欲か? 

 いいや、ただの『感想』だ。長兄ではなく自分を頼ってきた綺麗な小鳥を守りたいという――優越感では、ない――騎士としての彼に対する評価なのだ、これは。

 そっとナハティガルを見やれば、相手は上目遣いでシュヴァルツェを見つめていた。

 潤んだ瞳。触れればどうなるだろうか。


「ん、んんっ」

 咳払いをして、胸中に生じたおかしな感情を押さえつける。沈め、劣情。

「……少し肌寒いな」

「……今日は晴天です、が」

「いや、森の中だから空気が湿っているのかもしれん。そうだ、良かったらこれを着ろ」

 誤魔化しついでに相手が気にしないよう言葉を選びつつ、シュヴァルツェは己の上着を脱いでナハティガルの細い肩へ、そっと掛けてやる。

「えっ」

 途端にナハティガルがビクッと身を強張らせ、弾かれたように顔を上げた。

 焼けた鉄の串でも当てられたかのような反応。その眼差しは鋭く、それでいて深い怯えがあった。

 シュヴァルツェは息を飲む。


 恐怖の対象は、目の前の騎士に他ならない。

 ナハティガルは、シュヴァルツェに強い警戒と恐怖を向けていた。肩に掛けられた上着の端を強く握りしめたその指先は白い。

「ナハティガル、落ち着け。俺はお前には何もしていない。……だろう?」

 騎士の中の騎士である長兄の穏やかな声音を、さて上手く真似られたかどうか。

 降参するように両手を上げて見せながら、シュヴァルツェは話しかける。

「一時的に錯乱しているのか? なあ、ほら、よく見ろ。俺はシュヴァルツェだ。分かるか、ナハティガル?」

 言葉を重ねるも、ナハティガルの眼差しは暗いままで――じりじりと後ずさる。

 強い警戒。浅い呼吸。毛を逆立てた猫のように鋭い視線を、目の前の騎士へ向けている。

 今にも飛び掛かってきそうな――あるいは逃げ出しそうなナハティガルに困惑しつつ、シュヴァルツェは落ち着かせる手段を思案する。

(こういう時、兄貴なら)

 そして騎士は動いた。

 ナハティガルに向かって一歩踏み出すと、素早く滑らかに地面へ片膝をつく。

 その姿勢から顔を上げると、敵意がない証明として笑いかけた。


「俺はお前を傷つけたりはしない。大丈夫だ」

 唐突に傅かれたナハティガルは、幼さの残る顔に困惑の色を浮かべて戸惑う。

 あの卑劣な騎士たちは、きっと小鳥が懇願しても傷つけただろう。甚振っただろう。

 だからシュヴァルツェは言う。自分は彼らとは違うから安心してくれ、と。

 ナハティガルは、少しだけ眉を下げて弱々しく微笑む。



 ◇



(何を以てして「大丈夫」なんて言うんだろうな、君は)

 肩口に掛けられた上着の生暖かさに悪寒を覚えながら、ナハティガルは傅く騎士の手を凝視する。

 胸ポケットに小さな膨らみがあるのに気づき、そっと視線を落とせば焼き菓子か何かの包みが見えた。

 甘党の義兄殿。何とも可愛らしいことだ。

 けれど、差し出されているその手は取らない。その手には乗らない。幼子に接するような態度でいるが、それが嘘だということは三十六回繰り返した死で証明済みだからだ。


 あの時もそうだった。

 何回目かの人生。「大丈夫だ」と兄の顔をして微笑んで近づいて来たこの男は腕を掴み、「離して」と頼んでもその力を緩めず、「助けて」と言っても枷を外してはくれなかった。

 鎖は雁字搦めに巻きつき、締め上げ、そして最後は――火の中へ。


 ああ、嘘吐きな騎士殿。

 そうして油断させ、飛び掛かる機会を窺っているのだろう?


 ――そら、その姿勢が正に示しているではないか。

 身を低くしてこちらを見上げる姿は、まさに獲物に襲い掛かる獣がとる体勢だ。

 ナハティガルは周囲が赤く染まる幻覚を見る。


 幾度も包まれた炎の向こうから、こちらをずっと睨んでいた拘束の騎士。

 いつでも飛び掛かれるよう身を屈め、歯を見せて笑う姿は正に肉食獣の如し。

 観察者の目で小鳥を見つめ、隙はないかと探り急所を狙う狼がいる。


 喉元に剣を突きつけるように構えた、騎士の形をとった天敵。


 これは救いの手では決してない。



その手は辛い塩である

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