少年期16
事態が瞬く間に動いても、アドルフのやることは変わらなかった。基本となるシナリオはあるが、流動的な部分はその都度対処し、最善と思われる行動をとる。
その点でいうと彼は、ヤーヒム経由で町長を引っ張りだし、なおかつ市場が大騒ぎになっているというフリーデの話を聞きつけ、人々を誘導する必要性に駆られた。なぜなら彼らが大挙して押し寄せても、子供らで手一杯の〈施設〉は人波で溢れ、院長先生に迷惑をかけるからだ。
そんなときのためにアドルフは、代理の場所をすでに選定していた。それは町役場を上まわるトルナバ最大の施設、教会である。
「ディアナ、ノイン。頼みがある」
フリーデの報告を受けてすぐ、彼はふたりに指示を出した。
「ディアナは町長とヤーヒムに、ノインは市場の商店主たちに、教会へむかうよう伝えて貰えんか?」
瞬時に持ちかけた依頼だが、味方であるノインは小さく頷き、従者を連れて食堂を出ていった。その迅速な動きにたいし、もうひとりの相手、ディアナのほうだが、
「…………」
アドルフが視線をむけても、言葉を発さず、唇を引き結んでいる。仕方なく彼は、人懐っこい笑顔をこしらえ、ディアナのハードルを下げるようなことを言う。
「無理やり命じられたと言え。なに、お前の悪いようにはせん」
アドルフはこのとき、ここまで言って動かないときは、やむを得ずフリーデに頼むつもりでいた。しかし彼は、最終的にトルナバの全町民を自分の味方に引きずり込む気でいたから、因縁が生じた程度でディアナの懐柔を諦めない。
彼の見込みどおり、ディアナが本物の親分肌だとしたら、勝負に敗北しておいてアドルフを陥れたり、いまさら抵抗を試みたりはしないだろう。
その読みが的外れでなかった証拠に、息苦しい沈黙を破ったディアナは、
「……この大騒ぎ、何か意味があるんだろうな。そうでなきゃ俺は動かねぇぜ」
静かなつぶやきだが、立ち位置の変化まであとわずかだろう。こうなるとアドルフにできることは、彼女の気持ちをしっかり受けとめてやるまでだ。
「むろん、重要どころの騒ぎではない。その一翼をお前に担って貰う」
えらく断定的に言ったが、ディアナは不快に思わなかったようだ。
「わかったよ。そのかわり無駄にすんじゃねぇぞ」
早口で吐き捨てた彼女は、何を思ったかアドルフの手を握り、そしてすぐに手放して、背中をむけて走り去ってしまう。
――ふむ、照れ隠しであろか。
アドルフは邪推したが、いずれにしろ思惑どおりの展開になった。
「さて、フリーデ。ここにいる諸君。我らも教会にむかおうか」
ディアナが退室したのを合図に、アドルフは食堂をぐるりと見渡し、フリーデばかりか、他の孤児たち一人ひとりの顔を見て言った。
時間は少しかかるが、ディアナに勝利した余韻は彼の権威を高める。その貴重な状況に一人ひとりの眼を見て語りかけることは、彼らをアドルフの信奉者にする効果をもつ。
よって孤児たちをその他多数と見なしてはいけない。人間を虜にするのは、自分がすぐれた人間に「認められた」と感じる瞬間なのだから。
アドルフは腕組みをして、孤児たちの瞳が宝石のように輝くのを順繰りに見た。その瞳の先に、集団から落ちこぼれたかつてのアドルフはもういない。そこにいるのは、指導者の片鱗を示した、ディアナに代わる新たな〈王〉の姿だ。
孤児たちの期待感を全身で受けとめつつ、腕組みを解いたアドルフは、毅然と胸を張って言った。
「安心したまえ。我は次も勝つ。その一部始終をしっかり目に焼きつけよ」
***
孤児たちを引き連れ、ただでさえ杖歩行のアドルフは、教会への到着が遅くなる。しかしそれもまた、計算の一部だった。
町の東端にある教会は〈施設〉から遠く、中心にある市場の者たちのほうが早く着く。だがそれでよいのだ。政治活動の見せ方、つまり演出にうるさかったアドルフは、ある場所に遅く来る人物ほど偉く見え、早く来る者ほど小物に見られることを知っている。
その論にしたがえば、彼は一番最後に着くのが望ましい。先に到着した商店主、そして町長がしびれを切らすくらいのタイミングが最適だ。
現にアドルフが教会に到着したとき、彼らは一様に押し黙り、その表情はささくれ立っていた。
いまにも何かを叫びだしそうな商店主たち。彼らの視線は、杖を突きながら悠然と奥へ進み入るアドルフにむけられたが、同時に幾人かは対峙する町長のほうを睨みつけている。
何か激しいやり取りがあったのだろう。その何かは容易に想像がつく。
アドルフは商店主たちを相手に、市場の出店料が値上げするという偽情報を撒いた。それを真に受けた者たち、真偽を確かめたいと思った者たちが怒りの矛先をむけるのは町長だ。
そう、アドルフが教会に姿を見せたとき、両者はすでに一度怒号にも似た応酬を経ており、彼が到着したのは偶然その合間だったというのが事の真相のようだ。
こうした見立てが的を射ていた証拠に、商店主たちはアドルフの到来を待ち侘びていたかのような顔をして、彼を指差しながら口々に言いだした。
「この子なのか? 貴方が出店料を上げるつもりだと言いふらした子供は」
その問いは、商店主たちが対峙する町長にむけられた。よく見れば、町長はすでに顔を真っ赤にして怒っており、アドルフを一瞥しながら大声で喚いた。
「だから何度も言っておろうが、このガキが嘘をついたんだよ。ワシは出店料を値上げするなんて誰にも言ったことがないし、そのつもりだってない!」
町長は火がついたような叫び声を放ち、こぶしを振りまわしてさらに言った。
「オイ、そこの脚の悪いチビ、何が狙いかは知らんが、ワシだけでなくこの場の全員に迷惑かけたことを謝れ! イタズラにもほどがあるぞ!」
怒鳴るだけでなく、町長はアドルフのほうに近づき、その腕を引こうとして手を伸ばした。無理やり謝らせようといたのかもしれないが、アドルフはその手を払いのけ、教会全体に響き渡る声を静かに放った。
「貴公は勘違いをしておる。あるいは嘘をついておる。我はでたらめに偽情報を流すよう、仲間たちに命じたのではない。状況を正確に分析すれば、いずれ出店料の値上げは現実となることが明白だった。とはいえ我の考えでは、値上げに頼らず、悪化の一途をたどっておる景気を回復することができる。その解決策を教えてやってもよいが、それは諸君が亜人族差別をやめることが条件だ」
ただでさえ荘厳な教会の建物に、澄みきったアドルフの主張が行き渡った。簡潔にして明瞭。偽情報を流した件を言い訳せず、むしろそれを認めながら、彼は自分にとって都合の良い構図を端的に示した。
不況を打ち破る方法はある。だがそれを知りたければ亜人族差別をやめよ。
もっとも子供がそう言い張ったところで、大人の反応はたかが知れている。現に町長は、一瞬アドルフを小馬鹿にしたような表情を浮かべ、周囲のヒト族を眺めまわしたうえで、胡乱な目線でこう言った。
「何を言いだすかと思ったら、勘違いはお前のほうだ。いいか、クソガキ。何を指してそう言ったかわからんが、あれは差別などではないのだ。たとえばトルナバの金鉱労働者。彼らの多くは、確かに亜人族だ。しかしその原因は差別の結果ではなく、単純に彼らの能力不足にある。他の仕事をする能力がないから、金鉱で働くしかない。彼らはむしろ、手に職をもたない自分たちに仕事が与えられたことを感謝せねばならん。世の中は、持っている者が持っていない者に施してなりたっている。これが大人の常識だよ」
アドルフの行動の目的がわかった途端、町長の態度は傲慢になる。
得体の知れない暗躍が、差別の撤廃などという青臭い動機に裏づけられていたことを知り、本来の余裕を取り戻したのだ。
「まったく馬鹿馬鹿しい。反論は不可能だろう。さっさと謝って、これに懲りたら二度と大人に歯向かわないことだ」
余裕は怒りを冷まし、興ざめした様子の町長は速やかに手打ちの条件を提示した。しかしアドルフにとって、いまはまだ、戦争の号砲が鳴った段階にすぎなかった。(続く




