三田一族の意地を見よ 4
第貳拾伍話 猿の親 虎の親
弘治三年二月二十一日(1557)
■尾張國愛知郡中中村
荒子城を出た一行は僅か一刻足らずで中中村へ到着した。村の郊外で丁度畑にいた若者に刀鍛冶の家を訪ねた。
「おーい、其処の者」
「お武家様わてですか?」
「そうだ、ちょいと尋ねたいのだが」
「はい、なんでしょう?」
「刀鍛冶の加藤正左衛門殿のご自宅は何処かな?」
「ああ、正左衛門小父さん家ですか。家の隣だよ」
「おお、案内してくれるかな?」
「ええよ、こっちだ」
暫く行くと農家が何軒か固まった場所に辿り着いた。
「ここだよ。正左衛門小父さん、お客さんだよ」
暫くすると中から、五十代後半の厳つい爺さんが出てきた。
「ん、なんでい、誰かと思えば小竹じゃねーか、正左衛門なら今、伊都と一緒に使いで那古野にいってるだで、昼過ぎまで帰らんぞ」
「お武家様、今、小父さん今居ないだと」
小竹の後にいる武士に気づいた爺さんが話しかける。
「お武家様、正左衛門に御用とは如何なる事でしょうか?」
「拙者は、関東より来ました北條左衛門佐氏堯と申します。この度、都で御所の修築を行うにあたって、釘や魔除けの短刀などを作るために、刀鍛冶を捜しておりましたところ、荒子にて聞いたところ此方にいらっしゃると言う事でしたので」
その事を聞いた爺さんは厳つい顔をゆがめながら質問する。
「御所の修築のような大事に何故わしらの様な野鍛冶を訪ねて来なさった?」
尤もな疑問であるが、それも占い万能の時代であれば幾らでも誤魔化せる。
「占いにて、尾張の那古野より西に目指す人がいると出たもので」
「そうか、けど、正左衛門が帰えってこねーと話もわからんでな」
「待して貰います」
「家は、今俺一人だから、お武家様に湯もだせねーだ」
そう言っている中で小竹が話しかける。
「お武家様、汚いが家へ来て休むといいだよ」
「しかし迷惑であろう?」
「ええだよ。正左衛門小父さんは遠縁にあたるだで、おっかあも平気だ」
こうして、氏堯と康秀と数人が小竹の家にお邪魔し、山科卿と氏政が丹羽長秀一行を誘って、北條家謹製簡易テントで休んでいた。丹羽長秀も田舎の鍛冶屋や農家の小倅が重要人物とは思わなかった事と、簡易テントが天幕や傘をさして日や風を防ぐ今までの方法と違うことが、凄いことだと感じ、構造を聞き出そうとしていた。
しかし今回、丹羽長秀達に見せて居るテントは見せテントであり、真似をしても日差ししか遮れない程度の物である。実際に北條家で制作しているテントは麻布で目の細かい帆布を作り、柿渋で防水加工した物で、防水、防風、防寒などに効果を発揮する物である。
実際麻布で作られた簡易テントの方がノミやダニが居る農家より快適であるが、この小竹が重要人物だと知っている康秀がお言葉に甘える形にしたのである。逆に丹羽長秀達は、一緒に農家へお邪魔することもなく監視もしていなかったのである。
「おっかあ、正左衛門小父さんのお客さんだが、暫く家で休んで貰うだが、ええじゃろ?」
小竹の問いかけに、古い佇まいだが、ある程度の大きさの農家から、年の頃四十後半ぐらいの女性と十代後半ぐらいの娘が現れた。
「あいや、小竹、お武家様にこんなボロ屋で休んで貰うなんぞ、失礼にあたるんじゃなかと?」
「兄さ、お武家様かい?」
小竹のおっかあと妹が、驚いた顔をして恐縮しているが、康秀がフォローする。
「いやいや、御内儀、立派な物ですよ」
「あいや、御内儀だなんて、そんな立派なもんじゃないだね」
おっかあは、にこやかに手を左右に振り照れる。
「拙者は北條氏堯と申します」
「拙者は三田康秀と申します」
「お武家様、おらは、仲っていうだよ、此は娘の旭だ」
「申し訳ござらんが、正左衛門殿がお帰りになるまで、ご厄介になります」
「いやいや、こんなボロ屋で良ければ、どうぞどうぞ」
「忝ない」
仲の案内で、小竹が汲んできた水で、足を洗って板の間の座敷へ上がる。二月後半であり囲炉裏には火がくべられている。
「茶でも出せればええだが、生憎こんなボロ屋では無いだで、すまんですな。せめて湯でも如何かの?」
仲が心底すまなそうに言うが、其処で康秀が持って居た背負い袋を開け中身から木筒を出す。
「仲殿、お湯と椀を御家族の分だしてください」
小竹と仲と旭が人数分の椀を出すと、康秀は受け取った椀を湯で温めてから、木筒から茶葉を出して、持参した竹で作った急須に茶葉を入れて湯を注ぎ蒸らし始めた。暫くすると良い香りが部屋に漂う。充分蒸れた所で、椀に茶を注いでいく。
「さあ、出来ましたよ。仲殿、小竹殿、旭殿、お飲み下さいな」
全員分の御茶を入れ終わった康秀が、皆に勧めるが、仲も小竹も旭も恐縮している。
「こげん、高い物頂く訳にはいかないだよ」
「お武家様、とても高くておら達じゃ返せないだ」
「兄ちゃん、けど良いにおいやな」
仲と小竹はこんな高い物を頂いたら、大変だという感覚で遠慮している。
「大丈夫ですよ、此は笹茶と言って笹の葉を洗ってから鍋で煎った物ですから」
その言葉に驚く三人と普通に飲んでいる氏堯達、それを聞いて仲達は笹茶を飲み始める。
「甘いだね」
「旨いです」
「美味しい」
三人ともにこやかになった。
「関東では、皆が皆こういう御茶を飲んでいたりするんですよ」
「凄いだね、笹が茶になるとはしらんかったよ」
「詳しい作り方を教えよう」
康秀の言葉に、三人が驚く、普通こういう事は秘密にして金を儲けるのが、武士や商人の常套手段だと思っていたからである。仲にしてみれば、亡き夫弥右衛門が戦傷で亡くなった後の親族の仕打ちが忘れられなかったので、この氏堯と康秀の気さくさは驚きであった。
その後、茶葉の作り方を教えて貰いながら、身の上話をし始める。
「おらは、尾張の御器所村の生まれで、中中村の村長だった木下弥右衛門さに嫁いだんじゃが、弥右衛門さは織田様の足軽組頭だったんじゃけど、傷を負って戦えなくなっただよ。暫くして弥右衛門さんが三十一で死んじまったら、今まで下に付いてきた連中が皆出て行ってしまっただよ。それで、今では只の百姓してるだ」
康秀は、仲の話で、以前読んだ、秀吉の出自話が本当らしいと感じて居た。
「大変だったんですね」
「まあ、子供四人も抱えてじゃからね、弥右衛門さの爺さんが、近江の浅井家から婿に来ただがそん時の田畑があったから何とか生きていけただよ」
「近江の浅井と言うと、小谷城主の浅井殿ですか?」
「んだよ、弥右衛門のおっとうに聞いただよ。何でも爺さんは浅井重政っていうらしいけど、もう全然関係無い状態やからね」
「お子が四人と仰いましたが」
「んだよ、日吉、小竹、とも、旭だ。日吉は出て行ってしまって今は何処に居るのやら、ともは去年嫁さいっただよ」
日吉は今織田信長に仕えてるって言いたいが康秀は我慢していた。
「女で四人も育てて大変だったでしょう?」
「いやー、一応再婚はしただが、働かない人じゃったんでな」
「その方は?」
「今日は、寺へ連歌とかへ行ってるだよ」
昼が近づき、仲が雑煮でも喰っていけと言うので、ご馳走になったが、流石に雑穀と大根とかだらけだが、お袋の味で懐かしく感じた。氏堯などは常時戦場の気持ちであるから、嫌な顔一つしないで食していた。
食事の後、笹茶を再度煎れて、一服していたところへ、隣へ雑煮を届けてきた小竹が帰ってきた。
「氏堯さん康秀さん、正左衛門小父さんが帰って来ただよ」
「そうか、じゃあお邪魔するか、仲さんご馳走様でした。又後で御挨拶に来ます」
「そげなこと、ええだに」
木下家を出た氏堯と康秀は、鍛冶屋清兵衛家へお邪魔する。
「申し訳ない。正左衛門殿がお帰りになったと聞いて来ました」
その言葉に、家の戸が開いて年の頃三十代の男が出てきた。
「北條殿ですか、大変お待たせ致しました。拙者加藤正左衛門清忠と申します。義父より簡単には聞きましたが、詳しい事は中へどうぞ」
「此はご丁寧に、拙者北條左衛門佐氏堯と申します」
「拙者は、三田長四郎康秀と申します」
入ると座敷に案内されて、先ほど小竹に届けさせた笹茶を妻の伊都が持ってくる。
「頂いた物で、申し訳ありません」
「なんの、おかまえ無く」
氏堯、康秀と清忠が向き合い話が始まる。
「突然押しかけて申し訳ござらん」
「なんの、帝の御用とあれば仕方ないこと」
「そう言って頂けると幸いです」
「それで、何故私をお誘いになるのですか?」
清忠にしてみれば、美濃今尾城代として斎藤道三に仕えながら、落城し尾張の田舎へ逃げ込んで武士を捨てざるをえなかった存在で有る、それが何故今北條家から誘いが来るのかが判らなかった。
「実は、今回都の御所の修築に刀鍛冶や鍛冶が多数必要で、それを束ねる長を探して居たのですが、占いにより、尾張にその者が居ると出たのです。そして昨日荒子で貴方の話を聞きまして、貴方こそ探していた者だと考えた次第」
氏堯の話をジッと聴いていた清忠だが、疑問を述べる。
「都には、腕の良い鍛冶も多数居ましょう、何故尾張からと?」
「都の鍛冶は伝統に胡座をかいてしまっています。新しい方法を試すこともしない、更に、今回の御所修築は、武家の考えを入れるつもりです。その為に貴方のような、元城主が必要なのです」
清忠にしてみれば、自分の出自も判っているとは、最初は胡散臭い占いと思ったが、信じてみたくも成りつつあったが、義父が果たして一緒に来てくれるか、義父が来なければ、妻は義父を置いていくことが出来ないだろうと考えていた。
「私の、出自まで、判りましたか?」
「詳しくは出ておりませんでしたが、城主かそれに匹敵するとは出ておりました」
「そうですか、私は、元々美濃斉藤家に仕えており、父加藤因幡守清信は、尾張犬山城代となり、天文十六年、織田家との合戦で討死しまして、その後家を継ぎ美濃今須城代になったのですが、敗戦により所領を失い、さらに負傷により武士をやめ此方で鍛冶になろうと婿入りしたのです」
「なるほど、斉藤山城守殿の御家中でしたか」
「いかにも」
「どうでしょう、我が北條家に仕えて頂けませんか?」
「しかし、私は、お役に立てる様な、体ではありません」
「いや、鍛冶としても腕を振るって欲しいのです」
「しかし」
清忠の心が揺れるが、家族の事が心配で決断できない、それを感じたのか、妻の伊都が入ってきた。
「申し訳ありません。宜しいでしょうか」
清忠は帰そうと思ったが、氏堯が許可をする。
「御内儀、お入りなさい」
「はい」
伊都は氏堯、康秀に挨拶し、清忠に向き合って話しかける。
「正左衛門様、加藤家復興の好機なのです、お悩みにならずに、お受けなさい」
「しかし、義父殿が」
「元々、我が家は野鍛冶、正左衛門様は御城主様、私如きが妻になれる事は無かったのです。離縁してお受け下さい」
「その様な事出来る訳がないだろう!」
伊都は気丈に正左衛門を諭す。
「加藤家復興になれば、正左衛門様にも良きお方様がお出来になるでしょう。その際、たかが野鍛冶の娘が一緒に居ては迷惑になるだけです」
「伊都、お前を捨てていける訳があるか!」
二人のラブラブ感に些か胸焼け気味に成った康秀が話しかける。
「失礼ですが、それほど悩むことでも無いかと」
その言葉に二人が驚いた顔をする。
「何故ですか?」
「何故と申しますと、私は北條氏康様の婿ですが、私の母は踊り念仏の娘でしたから」
それを聞いた二人が更に驚く。
「北條氏康様と言えば、相模の虎と言われるほどの名君、その方の婿殿が」
「そうじゃ、北條は出自など気にせんぞ」
氏堯が少々大げさに宣伝する。
「是非、正左衛門殿は伊都殿と一緒に来て頂きたい」
「しかし、父を一人にしていく訳にはいきませんし」
「それならば、父上も一緒にいらっしゃったら宜しいかと」
「しかし」
心配する清忠と伊都。
「それならば、お父上にお話ししてみましょう」
康秀の言葉で、伊都の父清兵衛を呼び話をした。
「なるほど、正左衞門に加藤家復興をそして伊都を一緒に連れて行くと」
「はい、その際、清兵衛殿を置いていけないと」
それを聞いた、清兵衛は苦笑いする。
「伊都、俺は赤ん坊じゃ無いんだ、一人でも生きていけら」
「けど、父さん、心配なんだよ」
中々話が進まないので、康秀が再度提案する。
「清兵衛殿は鍛冶ですよね」
「そうですが」
「その腕を都と小田原で振るって貰えませんか?」
「俺がかい?」
「はい」
「冗談はよしてくれ、俺は只の野鍛冶だ、御所の修理や殿様のお役にたてるような腕はないぜ」
「私に協力してくれている者達も、元々野にいた者達ばかりです、是非お願いします」
康秀が土下座したため、清忠も伊都も清兵衛も驚いてしまう。
「まっまっまってくれ、頭を上げてくれよ。判った其処まで頼られちゃ男が廃るってもんだ。清忠、伊都一緒に行くか」
「義父さん」
「父さん」
三人の心が纏まったところで、氏堯が話しかける。
「清忠殿、清兵衛殿、伊都殿、それでは一緒に行って貰えるかな」
「はい、加藤清忠、北條様にお仕え致します」
ここに尾張中中村の鍛冶屋清兵衛と刀鍛冶加藤清忠、伊都夫婦が北條家一行に入ることになった。
三人とは津島で合流することになり、中中村を出立する前に、木下家へ向った。
「仲殿、小竹殿、旭殿、お世話になりました」
「いやー大したことはしてないだよ」
「案内しただけです」
「清兵衛殿達は都へ向かうことになりました」
「そうきゃ、寂しくなるね」
「けど、正左衞門小父さん達が立派になるんだから良いことだよ」
「兄さ、そうだね」
「所で、木下殿は浅井家の出身、どうでありましょうか、当家に仕える気はございませんか?」
行きなりのスカウトに驚く三人。
「なっ何故ですか?」
「私が、みんなを気に入ったからと言う理由では駄目ですか?」
「恐れ多いことですだ」
「家はもう百姓だで、北條様や三田様のお役にたてないだよ」
三人が驚きまくるが、康秀はスカウトを諦めない。
第貳拾睦話 尾張で種まき
弘治三年二月二十二日(1557)
■尾張國海東郡津島
北條家一行は、熱田大社で宮番匠、岡部又右衛門以言をスカウトし、中中村で刀鍛冶の加藤正左衛門清忠もスカウト、更に後の豊臣秀長になるはずの、木下小竹一家にスカウトをかけたが、小竹達は暫く考えたいとの事なので津島にて返事を聞く事として、先に津島へと向かった。
「津島は尾張一の湊町と聞いたが、噂に違わない繁栄ぶりだな」
「津島は織田弾正忠家飛躍の地と言えます。何せ上総介様(織田信長)の御祖父霜台様(織田信定)がこの地を支配して以来勢力を増し、今は守護代にまで成られたのですから」
氏堯の言葉に反応するように丹羽長秀が話すが、織田信長を賞めることに気が行ってしまい、端から見たら斯波義銀の家臣ではなく織田信長の家臣であることが、完全にバレバレであったため。康秀、氏政などは何度も吹き出しそうになるのを必死で我慢していた。
「なるほど、経済を握る事は大事と言う事じゃな、三河守(織田信秀)が四千貫も寄進出来たのはこういうことじゃったんじゃな」
「まさに、そう言う事です」
織田家が山科卿に賞められて嬉しそうに丹羽長秀が話す。
その後、一行は湊近くの大慶寺に腰を落ち着け、めいめいに休み始める。
暫く休んでいると、再度丹羽長秀が現れた。
「お休みの所、申し訳ございませんが、尾張守護代織田上総介(織田信長)がご挨拶に参りました。
「三河殿のご子息かな?」
山科卿が思い出したように質問する。
「はっ、織田三河守(織田信秀)の子息にございます」
「なるほど」
「お会いしましょう」
氏堯の言葉に丹羽長秀が信長を呼びに行った。
皆は、織田上総介と聞いてもピント来ない状態で有ったが、康秀にしてみれば、信長を歴史上知っているために緊張していた。
暫くして、丹羽長秀が信長らしく人物を連れて部屋に入ってきた。
「織田上総介信長と申します。山科卿にはご機嫌麗しく。北條殿、お初にお目にかかる」
「三河殿には、色々世話になり申した。やはりどことなく趣がにておるの」
「北條左衛門佐氏堯と申す」
「北條新九郎氏政と申します」
「三田長四郎康秀と申します」
康秀にしてみれば、信長は破天荒な傾奇者のイメージが有ったが、今回の信長は確りとした姿をしていた。つまりは万正寺で斎藤道三を驚かした時の格好と言えた。
康秀としてみれば、信長VS氏堯の話が聞けるかと期待したのであるが、信長は挨拶を済ませると、そそくさと退出してしまい、拍子抜けであったが、流石に戦国の風雲児という感じか、自分達を観察した目は鋭かったのである。
弘治三年二月二十二日
■尾張國海東郡津島
北條家一行を見に来た信長であったが、一目見てさほどの人物とは思わずに挨拶と少々の話の上で退室した。この当時は斉藤道三の殺害により斉藤義龍との間で戦端が起こっていた上に、弟の織田信成(織田信行)との確執も大きく、北條一行に注意を向けるほどの意識下になかったのである。
「五郎左、北條の軍だが規律はまあまあだが、装備は大したことが無さそうだな」
「はい、鉄砲も少なく弓が主力の様です、鎗も二間ほどしかありません」
「うむ、関東は田舎というが、果たして全てを出しているかが疑問だが」
「確かに」
「それにしても、御所の修理を行うか、朝廷の歓心を得るのは易い事だな」
「はい」
「それで、宮大工に野鍛冶を連れて行くか」
「千秋殿もなるべく、使えない人物を送りましたので」
丹羽長秀が必死にフォローする。
「まあ、良いだろう」
信長と言えども神ではないのだから、スカウトされた人物が未来で役に立つとは判らなかったのである。これが、既に織田家や他家に仕えていた人物であれば、態々引き抜くのは何故だという疑問が湧いたのであろうが。康秀が欲をかかずに引き抜きやすい人材のみを狙った結果であった。
「五郎左、取りあえず尾張を出るまでは、お前が案内せい」
そう言いながら、馬に乗り去っていく。
弘治三年二月二十三日
■尾張國海東郡津島
津島郊外の寺で寺侍の男が佇んでいた。
はあ、我が子が大きくなるにつれて、このままで良いのだろうかと思う。爺様の時から寺侍としてこの寺に仕えてきたが、この所の尾張の動きに目が廻るようだ。しかし織田様に仕える伝手も無いし、このままであれば、儂はともかく息子達の代にどうなるか判らない。
「森殿、森殿」
おっつい考え事をしていたので、聞こえなかった。
「如何致した?」
「森殿に御客人だ」
私に客とはいったい誰だろう?
康秀は津島郊外のある寺に来ていた。風魔の暗躍で探して居たらしい人物を発見していたからである。通された座敷で待っているとうらぶれた四十代ほどの侍が現れた。
「私に御用とは貴方でしょうか?」
「森殿ですな、私は関東の北條家家臣三田長四郎康秀と申します」
関東の雄、北條家の家臣が津島に来ているとは噂で聞いていたが、関係の無いことと思っていた、この男は一瞬返事が遅れた。
「あっ、申し訳ござらん、拙者、森太郎兵衛と申します」
康秀はしげしげと太郎兵衛を見てから、話し始める。
「森殿は、現在のご自分の生きようにご満足かな?」
思っていたことをズバリと当てられた太郎兵衛は驚く。康秀側は風魔からの連絡でその不安や不満を知っていたから言ったのであるが、太郎兵衛としてみれば驚愕であった。
「はっはい、このままで良いのであろうかと、特に息子達の将来を考えたら」
「なるほど、実はこの度、当家は都へ向かい御所の修築を行う事と成りました。その際吉兆を占ったのですが、尾張の地にて共に連れて行きべき人物がいると出たのです」
その言葉に驚くが、実際にこの時代は占い全盛期であるから太郎兵衛も疑問に思わなかった。
「その占いがどのような結果を?」
「尾張に相模国愛甲郡毛利庄と音を同じにする者有り、彼の者を相模へ戻せば万々歳であろうと」
その言葉に、太郎兵衛も驚く、何故なら森家は鎌倉時代に相模から尾張へ移住してきた一族の末裔だと教わってきたからであった。
「なんと、我が家は、相模国愛甲郡毛利庄出身だと教わっております」
「なるほど、占いは正しかった訳ですな」
「それで、私をですか?」
太郎兵衛の質問に康秀が頷く。
「森殿、我が家に仕えませんか?」
「北條家にという訳ですか、しかし北條様には良き家臣が大勢いましょう。その中に自分のような寺侍が混じっては疎外されるだけかと」
太郎兵衛の考えも尤もであるが、別に康秀は北條家に仕えろと言っている訳ではないのである。
「自分は三田家の四男で若年ですが、新たな所領も頂いております。しかし如何せん、譜代の家臣が僅か四人しかおりません。どうでしょう、森殿、当家に仕えてくれはしませんでしょうか?」
太郎兵衛にしてみれば、関東へ移住する不安もあったが、北條家家臣としてではなく陪臣であればさほどの気苦労も減るのでは無いかと考え始めていた上に、息子達の将来を考え話に乗る気になって来た。
「私としては、吝かでないのですが、如何せん妻と子が二人もおります。恥ずかしながら、喰わしていくためにはそれなりに銭が要り申す」
「それならば、当家で銭五十貫(五百万円)を取りあえず給しましょう。都での奉仕の後、相模へ戻り次第知行割を致す所存」
太郎兵衛は五十貫という数字に驚きを隠せない。
「なんと、それほどまでの好意を示されて、嫌とは言えますまい。この森太郎兵衛勝貞、三田様にお仕え致します」
「宜しく頼みますぞ」
「はっ」
太郎兵衛は五十貫という金額に驚く恐縮しているが、康秀の方にしても、息子の方がメインであり青田買いにしては安い金額でなんか騙した気がして少々恐縮していた。
弘治三年二月二十五日
■尾張國海東郡津島
康秀と二曲輪猪助が他人に聞かれないように注意深く話していた。
「康秀様、美濃の状態は、万全です」
「やはりな、斉藤道三敗死後、斉藤義龍が反対派粛正を終えているから、あと一年早ければ芽はあったが」
「蜂屋や坂井などは既に織田上総介へ仕えております。明智は既に美濃から消えておりまして未だに行方が知れません。ご期待に沿えず申し訳ございません」
「仕方が、無いですよ。風魔衆には無理なお願いを何時もしているのですから。風魔には本当に感謝しています」
その言葉を聞きながら猪助は頭を垂れる。
「ありがたきお言葉、部下達も喜びます」
「それに、森太郎兵衛を見つけてくれたじゃないですか」
「はっ」
「それと末森だが、やはりきな臭いか」
「はっ、織田信成、昨年の謀反の後、今は大人しくしてるようですが、若衆の津々木蔵人を重用し、宿老の柴田勝家は増長した蔵人に侮られ無念に思ってるようです。更に信成は、岩倉の織田信安に通じているようです」
「なるほどな、そろそろ又やるか」
その言葉だけで、二人は信成が再度謀反を起こすのではと判る。
「恐らくは」
「しかし、柴田が上総介に伝えるであろうよ」
「可能性は大きいかと」
康秀は今後起こることを知っているから、考えたような振りをしながら一呼吸時間をおいた。
「猪助、信成には何人子供がいる?」
見当違いの質問に一瞬驚くが其処はベテランであるから、淀みなく答える。
「男児三名女児一名おります」
又考えた振りをする。
「なるほど、謀反を起こせば子供とて死罪か」
如何にも気の毒そうに演技する。
「はっ此も武家の習いかと」
猪助も答える。
「猪助、末森には何人か入っているか?」
「はっ末森を探れとのご命令により既に二年前より五名が入り込んでいます」
「よし、万が一、信成が粛正或いは敗北したとき、偽の死体を用意し自害に見せかけて母諸共に小田原へ送れ」
「はっ」
何故かと猪助も考えたが、康秀の手腕を判っている以上はそれを全うさせるだけだと思っていた。
何故なら、自分の噂を聞いた者達が、敵の忍に追撃されながら馬を盗んで逃げた自分を馬鹿にしたりする中で、風魔小太郎に命じられて会った康秀は、自分の行動を賞賛してくれたのだから。
『情報収集の為に忍んで居た以上は、情報を伝えるのが大事であり、敵と戦うのは本末転倒、猪助殿の行為は賞される事であり、馬鹿にして狂歌を書く連中こそ、本末を見ていない』と言われたのだから、それを聞いて胸の閊えが抜けホッとしたのである。それ以来康秀の為に頑張っているのである。
弘治三年二月二十六日
■尾張國海東郡津島
二十六日になり、支度を終え家族も連れて来た岡部又右衛門以言一家や加藤正左衛門清忠一家が続々と津島へやって来た。その中に小竹と旭が混じって居た。
「北條様、お待たせ致しまして申し訳ございません」
又右衛門が頭を下げる。
「なんの、いきなりの都行きでは、家族の支度を大変であったろう」
「ありがとうございます。此が女房の田鶴、息子の又兵衛、娘の凜でございます」
「うむ、都までは長いが頼むぞ」
「はっ」
岡部家が終わると加藤家の番になった。
「北條様、宜しくお願い致します」
「正左衛門、宜しく頼むぞ」
「はっ」
氏堯達が話している中、康秀と小竹が話をしていた。
「小竹殿、旭殿、よういらっしゃった。仲殿はどうなされた?」
康秀の言葉に小竹が慣れない丁重語を間違えたり野良言葉混じりで話しながら、すまなそうする。
「実は、私は、元武士とは言え既に百姓状態です。それにおっかあが、おっとうの眠る中村から離れたくないと言うで、おっかあを残して行く訳にはいかないんです。それにあんな継父でも居るだけで、他家から田畑の横領やらを防げたのも確かで、恩もあるだで、それに兄さが、帰って来たとき誰もいなきゃ、可哀想だで、三田様のお誘いなんですが、すみませんです」
そう言うと、小竹は頭を地べたに擦りつける勢いで土下座し始めた。
康秀にしてみれば、この場で小竹を斬れば全て終わるのだが、とてもそんな事を出来なかった。将来の禍根を断たず、自分自身の判断のミスを呪うことになるかも知れないのに。為政者としては失格な行為をしてしまった。
「そうですか、小竹殿は間違えなく太守となると思ったのですが残念です」
「そんな、おらに太守なんて、一生百姓で暮らすのがええですだ」
すっかり訛りが出てしまっている。
その後、加藤一家と小竹達は話してたが、いきなり旭が康秀に話しかけて来た。
「三田様、兄ちゃんはああは言ってるだども、うちは都って言うのを一度見てみたいだよ、連れてってくれんかね?」
旭は康秀と同じ年の十五才である。旭の話を聞いた小竹が慌てて旭を呵る。
「こら、旭、三田様にご迷惑をかけるんじゃない!」
それに対して旭が反論する。
「兄ちゃん、帰って来るかも判らんし会ったこともない、日吉兄ちゃんを待っていたってどうしようも無いべ、それにおら嫁さいくなら百姓より武士の方がええだよ」
「おっかあを捨てて行けるか!」
その大げんかに正左衞門の妻伊都が入ってきた。
「小竹、旭、三田様の御前なのですよ。小竹も旭も言いたいことは判りますが、静かにしなさい」
そう言いながら、康秀にすまなそうに土下座する。
「いや、奥方、その様な事しないで下さい。まるで私が悪者みたいだ」
そう言いながら、康秀が笑い出す事で、場を和ませた。
「旭、どうしても都へ行きたいか?」
康秀の質問に旭は即答する。
「はい」
「小竹、旭はこう言っているが、どうする?」
「妹を一人で都へ行かす訳には行きませんし」
小竹は自分が着いて行く訳にも行かないと葛藤している。
其処へ伊都が助けに入る。
「三田様、宜しいでしょうか?」
「なんですか?」
「旭を家で預かり、都へ行くと言うのは宜しいでしょうか?」
伊都の言葉に旭は喜びの顔を見せ、小竹は考えている。
「伊都さん、ほんとうかい?」
「三田様からご了承を受けたらだけど」
「三田様、お願いしますだ、おらを都へ連れてって下さい」
康秀としても考えようであったが、旭の不幸を知っている手前嫌とは言えなかった。
「判った、伊都殿の才覚にお任せします」
「三田様、ありがとうごぜえますだ」
旭が喜んで頭を下げるが、小竹は仕方が無いという表情をしていた。
「三田様、拙い妹ですが、宜しくお願いします」
「小竹殿、旭殿が不幸にならないように気を付けよう」
「お願いします」
そう言って小竹は頭を下げる。
「しかし、袖振り合うも多生の縁、とも言うから、小竹殿に此を差しあげよう」
康秀が腰に挿していた鎧通しを抜いて小竹に手渡す。
それを受け取った小竹が驚く。
「こんな、ええ物頂く訳には行かないだ」
「良いと言う事だ、それならば、野良仕事にも使えるので竹を割るときなどに重宝するぞ」
「けど」
それでも恐縮しているが、結局受け取る事に成った。
こうして津島湊から船に乗り、小竹の見送りを受けながら、桑名までの三里の船旅は始まった。
船の中では、年が近い凛と旭が早速仲良くなって話していた。
桑名に到着すると、一人の僧体の武士とその妻であろう女性が子供の手を引きながら現れた。そしてその武士が話しかけてきた。
「失礼でございますが、北條様ご一行でございますか」
第貳拾漆話 近江の麒麟児
弘治三年二月二十六日(1557)
■伊勢國桑名郡桑名
「失礼でございますが、北條様ご一行でございますか?」
僧体の男からの問いかけに、氏堯が答える。
「如何にも儂は北條左衛門佐だが、そちは?」
「はい、拙者は以前北条氏康様にお仕えし駿河国善徳寺城におりました、平野右京亮賢長の子権平長治と申します」
それを聞いた氏堯が思い出したように顔を見る。
「ああ、あの平野か、確か駿相一和で善徳寺城が今川へ割譲された際に、国へ帰ったのであったな。しかし、そちのような子が居るとは知らなかったぞ」
その言葉に、長治が話し出す。
「はっ、その節は尾張より追放された亡き父がお世話になりまして、お礼のしようもございません。私は養子でございます」
「なるほど、それでか、それで右京亮は亡くなったか」
「昨年、織田上総介により、再度追放され桑名にて」
「左様か、して権平、儂等に何の用だ?挨拶だけでは無かろう?」
氏堯の言葉に、権平達は土下座しながら答える。
「北條様が尾張へいらっしゃていると、津島の大橋和泉守殿から伝手がありまして、亡き父の手前今更、北條様に合わせる顔などは御座いませんでしたが、是非今一度、御配下にしていただけないかと」
康秀の記憶では平野権平長治はあの賤ヶ岳の七本鎗の一人、平野権平長泰の父親で、その祖父堅長は津島出身で有ったが、織田信長との確執から、加賀を経て北條家へ仕え、駿河国善徳寺城に居住していたことを知っていたため北條家で動けるようになった後で調べたのだが、既に北條家を出奔していた為に諦めていたのだが、まさかここで会えるとはと驚いていた。
「大橋と言えば、当家に仕える大橋山城守と同族であったな。それで伝手を頼ったのか」
「はっ、恥ずかしながら、このままでは妻と幼い息子達を喰わせる事すら出来ません。あつかましいお願いと判っておりますが、平に平にお願い致します」
長治達を見ながら氏堯や氏政は少々困った顔をしながら、康秀の方をチラチラ見てくる。つまりは“お前が何とかしろ、以前平野を捜していただろう”と言う事であった。
「平野、儂もそちの境遇は気の毒に思うが、例え父親の時とは言え一度北條家の禄を離れた以上、左京大夫殿も納得いたさんだろう」
長治はその言葉を聞いてガックリと肩を落とす。
その姿を見ながら、氏堯が康秀に目配せしてくる。
「左衛門佐殿」
「長四郎、なんだ?」
「窮鳥懐に入れば猟師も殺さずと申します。この様な幼子を抱えて明日の糧にも困る者を見捨てることは出来ません。ましてや北條家に縁のある者です」
長四郎の言葉を聞いて、長治も妻も長四郎を縋るような目で見つめてくる。
それを見ながら、氏堯が氏政に目配せする。
頷きながら、氏政は直ぐさま、長四郎に意見をする。
「長四郎、そうは言うが、ここは出先だ、父上の許可も無くおいそれと家臣を増やす訳にはいかんぞ」
「それが問題だ。左京大夫殿からは御所の造営に対する権限を委託はされているが、それ以外は独断とはいかんぞ」
「確かにそうですが」
氏堯と康秀の話し合いを聞いている長治達の顔に曇りが見え始める。
「それほど、気の毒に思うなら、長四郎の家臣とするのはどうだ?」
其処へ氏政がフォローを入れる。
それを聞いた長治達は目を見開いて長四郎を見つめる。
「なるほど、長四郎であれば、一家の主だ、家臣を迎え入れるのも自由だ」
氏堯の問いに康秀が考えた振りをして、その康秀を拝み倒すように見つめる長治一家。
「判りました。平野権平長治、そちが良ければ、当家の家臣として召し抱える事に致すが」
その言葉を聞いた長治夫婦は地べたに頭を擦りつけるように土下座をして感謝の言葉を言った。
「はっはー、御殿様、是非ともお願い致します」
「私の名前は、三田長四郎康秀だ、平野権平、当座の資金として四十貫を渡す。所領については都から相模へ帰り次第、決める事と致すがよいか?」
「はっはー、この平野権平、三田様の御恩は一生忘れません」
「よいよい、こうして認めてくれた、左衛門佐殿と新九郎殿にも感謝してくれよ」
「はっはー」
土下座しまくりの長治夫婦を見ながら、山科卿は康秀達による人心の掴み方を見ながら、“旨いのー”と含み笑いしていた。
こうして、更に増えた一行は桑名で一泊し、尾張における今川方である尾張服部党の党首で荷ノ上城主服部友貞と会った。
「服部左京亮友貞と申します。北條様にはご機嫌麗しく」
「北條左衛門佐氏堯と申す」
この後、輪中地帯の治水に慣れた人材を関東へ紹介して欲しいと頼んだ。
友貞からは、朝廷に寄進する品物を預かった。
その頃、伊勢大湊へ向かった別働隊は伊勢国守北畠具教へ使者を送り、領内通過許可の再確認と挨拶を行っていた。その後伊勢神宮へ北條綱重が代参し百貫文を奉納し安全を祈った。その後、鈴鹿峠の手前である関まで向かった。
弘治三年二月二十九日
■伊勢國鈴鹿郡亀山
鈴鹿峠を目前にした亀山近郊で北條家一行は再集結を完了した。伊勢国は伊勢平氏発祥の地であり。北條家の本家伊勢家発祥の地としても重要な地である。又この亀山城主は伊勢平氏の流れを汲む関氏であり一帯を一族で領していた。
関氏一族の所領に入ると、早速関安芸守盛信からの使者が現れた。
馬に乗ってきた二名が直ぐさま下馬して問いかけてくる。
「失礼で御座いますが、北條様御一行にございますか?」
「如何にも、北條左衛門佐じゃ」
「拙者、関安芸守が弟関兵庫助に御座います。皆様のご案内に参りました」
「それは重畳、よしなに」
「はっ」
兵庫助に案内され一行は亀山城へ向かった。亀山城では関安芸守盛信が門先まで迎えに来ていた。
「山科様、北條様、拙者伊勢平氏関一族当主関安芸守盛信と申します。遠いところを様こそお越し下さいました」
「山科内蔵頭言継じゃ」
「北條左衛門佐氏堯と申す」
「北條新九郎氏政と申す」
「北條新三郎綱重と申します」
「北條覚胤長順と申します」
挨拶が終わると、旅の疲れを癒すようにと風呂が用意され汗を流した一行は宴へ呼ばれ伊勢の山海の珍味を味あうことと成った。ここまで関安芸守が歓迎するのは、別に同族だからと言う訳だけではなく、思惑があるからでもあった。
関家にしても最近北上してくる北畠家や南下してくる六角家の圧力を感じて居たために都で大規模な寄進をする北條家に便乗するという事もしたかったのである。
「北條様、鈴鹿峠ですが、この所の佐々木六角氏と伊勢北畠による戦で幾度となく軍馬が通り、更に南隣の長野と北畠の戦が、昨年には六角家が、伊勢に攻め込んで来たことも有りまして、この程度の物しか出せずお恥ずかしい限りです」
「なんの、関殿は当家と同祖でございます。こうしてお会いできただけでも、何よりの馳走でござる」
「そう言って頂けると幸いです」
氏堯の言葉に盛信がはにかみながら喜んでいる。
そして関家へ伊勢波切の海賊九鬼家への紹介を頼んだ結果、快諾を得た。
その後、盛信は自分の弟盛貞を都まで同行させる事を頼んだ。
氏堯もそれに関して快諾した結果、関家との間では非常に和気藹々と宴が進んだ。
亀山城で一泊後、共に都へ行く関兵庫助盛貞の案内により鈴鹿峠へ向かった。
鈴鹿峠では六角側からの使者である蒲生賢秀が一行を迎え入れた。一応仮想敵国から来る軍勢で有る以上蒲生側も兵を引き連れての挨拶であった。
「山科様、北條殿ですか、拙者、六角左京大夫が臣、蒲生下野守定秀と申します。此は、息子の左兵衛大夫賢秀です」
「蒲生左兵衛大夫賢秀でござる」
蒲生親子が挨拶を行った。
「山科内蔵頭言継じゃ」
「北條左衛門佐氏堯と申す」
「北條新九郎氏政と申す」
「北條新三郎綱重と申します」
「北條覚胤長順と申します」
「三田長四郎康秀と申します」
「お久しぶりにございます。義叔父上」
兄関盛信の妻の父である定秀に関盛貞が挨拶をする。
双方の挨拶が終わると、緊張していた双方の兵達にもホッとした空気が流れた。
実は六角義賢は北條家などという彼にしてみれば得体の知れない家の軍勢五千が領土内を彷徨くのを嫌がったのであるが、朝廷への寄進に行く一行で有る以上それを妨害することは六角家の為にも成らないと言う、後藤賢豊、進藤賢盛、蒲生定秀、平井定武、三雲賢持、目賀田綱清、六宿老達に諭され渋々ながら通過を認めたのである。
その為に、六角義賢自身は現れず、観音寺城にも招待せずに、通り道に近い蒲生家に接待を丸投げしたのであった。その為、蒲生親子の案内で蒲生家の居城日野城へ向かい其処で一泊する事に成ったのでが、何が幸いするか判らない、後々まで康秀は六角義賢のこの行為にちょっぴり感謝することになる。
一行を迎えた日野城では出来うる限りの持てなしを行った。
「残念な事に、左京大夫が寝込んでおりまして、皆様にご挨拶出来ないことを申し訳ないとの事でございます」
「左様ですか、左京大夫殿にはご自愛下されとお伝え下さい」
定秀は苦しそうな言い訳で何とかとりつくる。
その事を氏堯も判っているので、そしらぬ顔で受け答えする。
「ささ、皆様、心ばかりの宴でございますが、ささどうぞ」
「下野守殿忝ない」
定秀は山科卿に会わすために定秀の子供や孫まで集めていた。
「山科様、これは、次男の青地駿河守茂綱、三男の小倉左近将監実隆、此方は、孫の忠太郎、松千代、鶴千代でございます」
定秀が山科卿に紹介している孫の中で、未だ二歳になったばかりの鶴千代こそ後の蒲生氏郷であった。
康秀は赤ん坊の鶴千代を引き抜けないかと考えていたが、子供を出さないだろうと一刻は諦めたが、夜中に考えが纏まって、氏堯、氏政に相談の後、朝に山科卿に相談をした結果、山科卿の協力を得ることが出来た。尤も相模帰国後に山科卿へ送る酒の量と種類が増えたのは確実だったが。
酒で攫われるはめになった鶴千代こそ良い迷惑であるが、あの蒲生氏郷を信長に取られる前に奪い去るというとんでも無い事をしでかしたのである。更にこの時期であれば、蒲生家も長男次男が居るため、三男を養子に出すことに嫌とは言えなかった。
朝餉の後、山科卿が蒲生定秀に話しかけた。
「蒲生殿の孫の鶴千代殿が気に入りましてな、婿養子に迎えたいのだが、如何であろう?」
いきなりの山科卿の話に定秀が驚く。
「鶴千代をでございますか?」
「さよう、我が家に鶴千代殿と同じ年の姫がおる。その婿に是非お願いしたいのじゃ」
定秀の頭の中では、ここで帝の覚えが高い山科卿に伝手を作ることも、六角家が支援している将軍足利義輝の早期の都への帰還にプラスに働くと考え、ここで断れば、山科卿の機嫌を損ねると考えて、承諾することにした。
「それほどまで、鶴千代をかっていただけるとは、蒲生家末代までの誇りとなりましょう。しかし養子となれば自分だけの勝手になりません故、主左京大夫に伺いを立てましてから、改めてご返事を差しあげると言う事で宜しいでございましょうか?」
「よいよい、下野守殿、吉報を期待しておりますぞ」
その後、蒲生一族の見送りと、案内を受けながら、一行は日野川沿いを池田まで向かい其処で北陸道へ合流し地元の豪族池田景雄から湯茶の接待を受け、その後南下し草津に到着しこの日の宿を取った。
その間に、元近江水口城主で敗北後、草津郊外の長束村に逃げ込んで帰農していた、水口安芸守盛里の元へ使者が向かい、北條家へスカウトが行われた結果、快諾を得て夫婦揃って翌日には合流してきた。何故なら、落城以来の貧乏暮らしで持ってくる物など殆ど無かったからである。
ここでも康秀の青田刈りが遺憾なく発揮された。
第貳拾捌話 稚児を拾いました
弘治三年三月二日(1557)
■近江國滋賀郡園城寺
都へ入るにしても朝廷にからの正式な許可と三好家への確認という大事の為、嘗て北條幻庵が修行した園城寺にて待機することになった。ここで、駿河以来一緒に旅をしてきた山科言継卿は一足先に都へ戻り、朝廷に話をしてくれることになった。
氏堯が山科卿にお辞儀をしながら話している。
「山科様、大変お世話になります」
「なに、朝廷の復興に繋がることじゃ、苦ではないわ」
「宜しくお願い致します」
「なるべく早く都へ入れるように話す故」
「はっ」
こうして、山科卿は従者と一緒に逢坂の関へ向かっていった。
弘治三年三月二日
■近江國滋賀郡坂本 日吉大社 三田康秀
「んで、長四郎、何故ここへ来たんだ?」
「いやね、この地の是非拾いたい人材が居るはずなんだよ」
「ほう、この衆道だらけの場所がか!」
さっきから、新九郎が嫌そうにしているのは、氏康殿と綱成殿の様な関係に俺となるんじゃないかという、恐怖心と梅姫や妙ちゃんの事を考えて怒っているようでして、説明が大変です。
「だから、猪助から腕自慢を借りてきた訳で」
「絶対に守れよ、俺は衆道はどうも苦手だ」
「やっぱ、梅姫が恋しいと」
「そうそう、梅の襦袢を持って来ているし…って何言わすんだ!」
「俺も、妙の匂いの付いた絹布持ってるし」
「なるほど、お前もそう言う事か」
二人して笑い出す。
「それで、人材確保に協力をお願いしたい訳で」
「なるほど、で目的の人材は何処に居るんだ?」
「ここの稚児をしているんだ」
「そんなの、金で何とか出来ないのか?」
「所が相手は日吉大社でも相当人気のある稚児らしいので、俺だけじゃ相手して貰えないんだよ」
「それで、俺を巻き込んだという訳か」
「すまんが、北條家という名前が非常に役に立った」
「まあ、親父からも期待されている訳だから、俺も期待させて貰うが、部屋入っても変な気を起こすなよ!」
「それは重々承知、俺も衆道出来ないもん」
その言葉に本当だなという顔で氏政が見てくる。
護衛の馬廻りもそしらぬ顔をしているが、腹では大笑いしていたし、其処から少し離れた場所で、猪助から護衛に配備された風魔も会話を聞いて吹き出しそうになっていた。
弘治三年三月二日
■近江國滋賀郡坂本 日吉大社 河田岩鶴丸
日吉大社の稚児である岩鶴丸は人生を悲観していた。天文十四年(1545年)に近江野洲郡川田、生まれの十三才たが、父伊豆守入道により日吉大社に稚児として売られたのである。元々眉目秀麗なうえに女装させれば完全な少女と見間違うほどの姿だった為、毎夜のように衆道の相手として叡山の僧侶や地元の土豪、堅田の湖賊などに抱かれ続けていた。
なんで、僕がこんな目に会わなきゃ成らないんだ。父さんも母さんも僕を売って迎えにすら来てくれない、毎日毎日、男の人の竿やふぐりを舐め、後を使われる毎日、もう嫌だ!死にたいけど、死ぬのも怖い、このまま僕は一生稚児として生きていかないと駄目なのか。誰か助けて、神様、仏様、誰でも良いから助けて。
「岩鶴丸!岩鶴丸!」
嫌で嫌で堪らない中稚児様のお呼びだ。
「岩鶴丸。そんなところで油を売っているんじゃない、関東からいらっしゃった偉い御方がお前を態々ご指名だ、直ぐに支度して座敷へ行くんだ!」
関東から態々僕を抱きに来るなんて、なんて嫌な人なんだろう、僕は僕は…。
「おい、岩鶴丸!ボッとしてるんじゃない!」
「はぃ」
誰か助けて!!!
化粧をして女物の着物に着替えてると、銅鏡には映るのは女の姿の僕。何時までもぐずぐずしていると、殴られたりするので、嫌で嫌で堪らないけど、仕方なしに座敷へ行くと、年の頃十代ぐらいの若侍が二人も待ってた。この人達が、今日のご主人様になるのか。なるべく痛くしないで欲しいな。良い子にするから縛ったりしないで欲しいし、お願いだから痛くしないでください。
「御客様、岩鶴丸でございます。何なりと御召し付け下さい」
ご主人様の横へ行ってお酌を始めた。
年かさの方が、僕の顔を繁々見ながら感嘆の声を上げる。
「驚いた、本当に男の子か?」
僕に対する問いかけなのか判らないけど、撲たれたしされたくないから、精一杯の作り笑いで頷くんだ。
「はい」
「新九郎、お前見とれてるじゃないよ」
もう一人の方が、新九郎さんを茶化しました。
「長四郎、此で男とは驚きだぞ」
僕は、男なのに女の子みたいな顔でだから、何時までもこんな生活を、いっそ山法師みたいな厳つい顔に生まれれば良かったのに…。
不思議なことに、二人とも世間話と酒を少し飲むだけで僕に舐めさせたり裸にしたりしてこない、今までだったら、酒も飲まずにいきなり僕を組み伏せて、衣をはだけさせ、胸やお尻を触りまくり、その後で僕の竿を確かめたあと、自分も衣を脱ぎ捨てて、僕に舐めさせたりするのに、変な人達だという感じだけど、どうせ後になったら凄い事をされるんだから、今の内に脱いで少しでも媚びを売って優しくして貰おう。
■近江國滋賀郡坂本 日吉大社
バサッと言う音と主に岩鶴丸は衣を脱ぎ捨て、氏政に撓垂れかかった。
「ご主人様、どうかお優しくして下さいませ」
いきなりの行動に驚く氏政。
「ちょちょちょ長四郎。なんとかしてくれ!!」
一瞬は笑ったように見えた康秀が直ぐさま、岩鶴丸を抱きかかえて、衣を掛けてやる。
「えっ、何かお気に召しませんでしたか…」
岩鶴丸は康秀の腕の中でもの凄く怯えている。
「そうではない」
「おねがいします。何でも致しますから、撲たないでください、おねがいです」
岩鶴丸は泣きそうな顔をしながら必死に康秀に縋り付く。
その姿を見ながら康秀は優しく岩鶴丸を座らせる。
「岩鶴丸、そちは今の境遇に満足しているのか?」
康秀の言葉を最初は判らなかった岩鶴丸だが、勇気を持って答えた。
「もう嫌です。毎日毎日抱かれて縛られるのは、嫌です」
そう言いながら岩鶴丸は泣き出してしまった。
康秀も氏政も思っていた。嘸かし鬱積していたのであろう。性の道具として幼い頃より虐待を受けていたのだからと。
「岩鶴丸よ、この方は、相模小田原城主北條左京大夫様の御嫡子新九郎様で、俺は新九郎様の義弟、長四郎だ。いま我々は都へ向かう途中だ、園城寺で占いをした結果、お前の資質を探り当てた為に迎えに来た。儂はお前を家臣として召し抱えたいと思うが、お前はどうだ?」
康秀の問いかけに最初は完全に判らない状態だった岩鶴丸だが、次第に意味が判ってくると、次第に信じられないような顔をしながら問いかけてきた。
「ご主人様は、私をここから出してくれるのですか?」
「無論だ、家臣を何時までも稚児にしていられる訳がない」
岩鶴丸は康秀の言葉を聞いて一瞬は嬉しそうにしたが、直ぐさま絶望の顔をし始める。
「けど、私は三十貫(三百万円)で売られたのです、それで外へ出る訳にはいかないのです」
その言葉を聞いた二人はニヤリとした。
「岩鶴丸、心配は無用だ、三十貫だろうが百貫だろうが気にはしないぞ」
氏政も頷いている。
「そうよ、岩鶴丸、北條左京大夫が嫡子北條新九郎氏政と三田長四郎康秀がお主を確と貰い受ける」
「無論、暫くは小姓として勉学して貰うが、いずれは一城の主や一軍の将として育て上げるつもりだ、それでも良ければ付いて参れ」
氏政と康秀の言葉に岩鶴丸は目をキラキラさせながら必死に頷く。
「はい。私は河田岩鶴丸と申します。御主君様宜しくお願い致します」
岩鶴丸は天にも登る気持ちで二人を眺めていた。この方々が僕を救ってくれた。この方々の為に一生かけて恩返しをしようと。
その後、ごねる日○大社の者達に白銀百枚(一千万円)を叩き付けて、岩鶴丸の強奪に成功した。流石に白銀百枚と眉目秀麗とは言え稚児を比べたら白銀に軍配が上がったのである。
自分を白銀百枚で身請けしたと知った岩鶴丸は益々、氏政と康秀を敬愛し、一生の忠誠を尽くすことになる。
小姓になった後でも眉目秀麗なために、氏政と康秀が衆道の為の稚児を買ってきたと兵の間で噂になり、噂をかき消すのに苦労したのは後の話であるが、事の顛末は猪助から小田原に伝えられて氏康と幻庵達が大笑いした上で、妻達にも知られて、幻庵の悪戯で、妻から貴方方は衆道になったのですかと、書かれた手紙が来たため、慌てて否定する手紙を書き続けたのであった。
岩鶴丸曰く、御主君様一生御側に居ますだそうだ。
弘治三年三月四日
■山城國上京 二条晴良邸
御所ではこの所、摂関家の二条晴良、九条稙通が色々と動いていたが、今日になり晴れやかな顔で御所からの帰りに二条晴良に誘われ、九条稙通が二条邸へ二人して帰宅してきた。早速二人で話し始めるが、その顔は笑顔であった。
「九条はん、主上もたいそう御喜びや」
「ほんまやな、大嘗祭なんぞ、後花園院が行のうた、永享二年(1430)以来百二十七年ぶりでできるんやから、御喜びも大きいやろうな。天文十四年にはお伊勢さんに宸筆宣命だしたはるぐらいやからな」
「ほんまやで、大嘗祭が終われば、これまた後花園院がおこのうた、寛正五年(1464)以来九十三年ぶりの譲位をなさるつもりやさかい、そりゃ嬉しゅうなるわな」
「ほんまや、御所も修理やなく、新造やし、何でも大極殿の再建もするそうやで」
「それは剛毅やな、うちらの邸宅も新しゅうなるんやろうな」
「近衛はんは知らへんが、うちらの邸宅は新造されるはずや」
「摂関家いうたかて、内情は火の車や、今回の事でいい目がでるやろな」
「そやな、伊勢から北條への改姓やらも請け負うたけど、主上もそれぐらいポーンと詔出しも罰わあたらへんな」
「そやな、まあ官位じゃないさかい、主上も平気やろうし、官位については次の主上に言上すればええだけや」
「そやそや、大嘗祭、譲位、践祚、即位、御所新造やで朝廷復興の第一歩になるんや」
「北條はんは主上の即位の時も献金してくれたさかい、ええお得意さんや」
「ほんま、北條様様やな」
「園城寺で待うてる一行には明日にでも主上から女房奉書が届くさかい六日には都へ入るはずや」
「しかし、関東の北條はんと言うだけで、承久の時のこと思いして騒ぐ連中がやかましいわ」
「ほんまや、あん時は後鳥羽院の勇み足やで」
「シーッ、二条はん何処で聞かれているわからへんで」
「そやな九条はんの言う通りや」
「特に関白(近衛前嗣)はんは、北條はんに思うところがあるさかい、事に付けて反対しおったの」
「そやな、その為に今更北條はんに、ええ顔する訳にもいかへんな」
「せやけど、このままだと関白で居られるのも何時までかわからへんな」
「そやな、主上の譲位を反対してようなもんや」
「譲位があれば、人事も一掃されるさかい、関白はんも散位やな」
「そやな、次は九条はんかうちかやな」
「そやね、どっちがなっても恨みっこ無しや」
「しかしほんまに承久の時や朝日将軍(木曽義仲)のようにならへんのやな?」
「一緒に旅してきた山科はんの話聞く限りじゃ、乱暴狼藉しない兵やそうやから大丈夫や」
「それなら安心や」
「まあ、二日後がたのしみや」
「そやね」
第貳拾玖話 堺会合衆
弘治三年二月二十日(1557)
■和泉國大鳥郡堺
泉州堺に相模小田原から遙々到着した商船が碇を降ろした。その商船から堺を見つめながら数人の身分卑しくない姿の武将が話していた。
「流石に畿内一の大港だ。多くの船が停泊しておるな」
二十歳前半ぐらいの武将が、四十代後半の武将に話しかける。
「そうですな、私が以前来たときより更に発展している気がしますな」
「新三郎殿が堺を出たのは何時のことでしたか?」
その質問に四十代後半の武将が答える。
「そうですな、あれは享禄元年(1528)の事でしたから、今から三十年ほど昔のことですかな」
二十歳前半ながら代表者らしい武将が労う。
「なるほど、新三郎殿も苦労なさいましたな」
「なんの、それしき、今はこうして大役を与えられたのですから、こうなる運命であったのでしょう」
その時、若いが新三郎によく似た武将が話しかけてくる。
「大道寺様、父上、そろそろ準備が出来ますぞ」
「おお、孫四郎殿、そんな時間になったか」
「大道寺様、父の昔話に付き合わせて、すみません」
「何の、新三郎殿は世が世であれば、島津の当主で有ったかもしない御方、そのお話は私のような若輩者には何よりの糧になりますからな」
「なんの、大道寺様、買いかぶり過ぎでございますよ。相州家が島津の当主になったは、従兄弟の未亡人に惚れた挙げ句に、その連れ子を相州家の当主にすると言う話を受けた事で、連れ子である義兄の三郎左衛門尉(島津日新斎忠良)が才覚で島津宗家を継いだに過ぎませんから。私が相州家当主ではとてもとても敵いませんよ」
「爺様が色に狂って、息子二人を捨てた結果が、今の状態ですから」
孫四郎が自傷気味に吐き捨てる。
「孫四郎殿、まあその結果、北條としては優秀な医師であり武将である新三郎殿に来て頂けたのだからな」
「そうよ、私が相州家当主であれば、とっくに島津は滅んでいたかもしれんからな」
カラカラと笑いながらそう答える相州家二代目当主、島津運久の嫡男、島津忠貞であった。
島津忠貞、本来であれば、彼の実家相州島津家は島津宗家の有力支流であり宗家を継ぐ可能性も有るほどの家であったが、二代目当主島津相模守運久が従兄弟に当たる伊作島津家九代当主島津善久が下男により撲殺された後、その未亡人に恋い焦がれて、連れ子である善久の子忠良を養子として家督を継がす約束の末婚姻した為、永正九年(1512)に約束通り家督を本当に譲り渡したのである。
その為、永正七年(1510)に生まれた忠貞は本来であれば相州家長男として生を受けたが、生まれた時には、養子の兄忠良が居た為既に要らない状態で有り、直ぐに僧として長徳軒と名付けられた。その後十九才になると薩摩にさえいる事が許されずに、下野の足利学校へ入学すべく薩摩を発ったが、その後の船旅の最中に駿河沖で嵐に遭い遭難、その後彼一人が漂流の末、今川氏親により助けられた。
彼は、仏教の他、軍事や医学にも精通した博学の人であったことから、氏親の要請により還俗して「島津忠貞」と名乗り三浦氏の娘と結婚する。その後、今川氏親の従兄弟に当たる北条氏綱の病気治癒のために小田原へ移り、見事に氏綱の病気を完治させた。その為、氏綱からの強い願いで、そのまま今川氏には戻らず北条氏に仕えたのである。
「さて、昔話もそろそろにして、天王寺屋の津田宗達などが、湊で待っているようですから」
「新三郎殿、今頃氏堯様達はどの辺りでしょうかな」
「そうですな、尾張辺りですかな」
「そうなると、早くしないと時間も無いですな」
「材木、石材、漆喰、瓦と集めるものは天王寺屋を始めとする堺商人に頼んでありますから、あとは三好などへの挨拶をするだけですが、責任重大ですな」
新三郎の言葉に大道寺駿河守政繁は緊張した趣で答える。
「新三郎殿、脅かさないで下さい。あの三好長慶が出てくるかは判りませんが、それでも緊張しますよ」
「ほう、天下の大道寺様でも怖いものがお有りか」
「死んだ爺様以外は怖い者など居ないと思っていましたけど、段違いの怖さですな」
島津忠貞に大道寺政繁は冗談を良いながら苦笑いする。
そうしている中、船頭が準備が整ったと知らせに来る。
「殿様、港へ行くための小船も来ましたで」
「おお、御苦労。新三郎殿、孫四郎殿、行きますか」
政繁の言葉に忠貞も孫四郎も頷いて縄ばしごへ向かい動き始める。
小船へ乗り換え、堺湊へ到着すると、天王寺屋の津田宗達が迎えてくれた。
「大道寺様、島津様、堺へようこそお越し下さいました」
「津田殿宜しく頼みます」
政繁の言葉に津田宗達がにこやかに答える。
「無論でございます。堺会合衆は昵懇な御方(お金払いの良いお得意様)には誠心誠意利便を図ります故」
宗達の腹の中を知ってか知らずか、政繁は大仰に感謝する。
「津田殿はじめ、堺会合衆のご協力に感謝致します」
その後、津田宗達の屋敷へ向かうと、三好方からの使者が訪れていた。
宗達が三好家に先に連絡を入れていたのであったが、別に親切心からではなく、堺会合衆としても現在の畿内では最大勢力の三好家と関東では最大勢力であり、伊勢家出身で畿内とも繋がりが深く、又種々取引でも昵懇の北條家との関係は重要で有った事と、折角集めた材木、石材、瓦等々の資材が無駄にならないようにするためでもあった。
宗達の息子、津田助五郎の茶の湯の師であり今は無き武野紹鷗の教えを受けた、兄弟弟子である、物外軒実休(三好義賢)の伝手を頼ったのである。
屋敷では政繁だけが茶室に通された。茶室では三十代ぐらいのぐらいと二十代後半ぐらいの人物が先に待っていた、まず三十代ぐらいの人物から挨拶を受けた。
「北條殿の御使者の方ですな。私は物外軒実休と申すが、三好豊前守義賢と申した方が判りますかな」
「此は此は、失礼致しました。私は北條左京大夫が臣、大道寺駿河守政繁と申します。この度はお会い頂き誠に恐縮にございます」
義賢は政繁の言葉ににこやかに答える。
「なんの、御所の修築という大事を為さる北條殿の御苦労を考えれば、阿波からの渡海など大して事も有りませんから」
「態々の御渡海、誠にありがとう存じます」
「まあ、まあ、茶会というのも身分の上下も関係無く皆平等に茶を楽しむものです。その様に畏まっていては折角の御茶が不味くなると言うものですから。緊張せずに楽にして頂きたい。のう助五郎殿」
義賢から話しかけられた助五郎なる男は、やっと挨拶を行う。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。私は津田宗達が嫡男津田助五郎と申します。三好様には茶の湯の同門として昵懇にして頂いております」
「大道寺駿河守政繁と申す、よしなに」
助五郎の挨拶を受けたが、義賢の言葉に、どうすれば良いかと考える政繁だが、義賢自身が胡座をかいて楽にし始めたので自分もそうすることにした。楽な姿勢を取ると早速、津田助五郎が茶をたてはじめた。
「大道寺殿、茶の湯とはいいものですぞ。心落ち着かせるにはこの上ないものです」
そう言われても、政繁には茶の湯の経験も殆ど無いので、空返事になってしまう。
「はあ、お恥ずかし事ながら、私は関東の田舎もの故、茶の湯を知りません」
「なるほど、しかし武士と言えども殺伐としてばかりはいられませんからな、少しでもやってみることをお勧め致しますぞ」
「なるほど」
一通り茶を楽しむと津田助五郎は茶室から下がり代わりに忠貞と四十代後半の人物が入ってきた。
「三好日向守長逸と申します」
「大道寺駿河守政繁と申します」
「島津新三郎忠貞と申します」
それぞれの挨拶が終わると、四人とも真剣な眼差しで話が始まった。
「筑前守様(三好長慶)は北條殿が都に公方様を迎え入れるのではと心配しております」
長逸が単刀直入に政繁に尋ねてくる。
「それならば、左京大夫様もその事はご心配しておりましたが、例え公方様が我が家に御命じになられても、三好殿のご意志が無い限りは、力を貸すことはございません」
政繁の答えに義賢も長逸も安心した表情を見せる。
「それならば、宜しいが、筑前守様にしても、決して公方様を蔑ろにしているわけでは無く、管領細川右京大夫(細川晴元)の策謀に公方様が乗り、筑前守様を排除しようと幾度に渡り戦を仕掛けた挙げ句、天文二十年(1551)には二度にわたって暗殺未遂事件に遭遇しているのです。
それに犯人は、なんと公方様近臣の進士賢光でした。また筑前守様の岳父であられる遊佐河内守長教様も自らが帰依していた僧侶の珠阿弥に暗殺されてしまったのです、此も公方様の手の者らしいのです」
その話を聞いた政繁と忠貞はあまりの畿内の混沌に唸ってしまった。
「それはそれは、皆様がご心配になるのもよく判ります。北條左京大夫様の名にかけて、公方様を勝手に帰京させる様な真似は致しませんので、ご安心頂きたく存じます。そしてお願いなのですが、三好殿からも人を出して頂ければ、齟齬も起きないと思うのですが」
それを聞いて安心したのか、義賢も長逸も更に表情をゆるめる。
「確かに、そうですな。筑前守様もお喜びになるでしょう、早々に向かわす人材を揃えましょう」
「まこと、ありがたき事です」
「なんの、北條殿の御本家、伊勢伊勢守貞孝殿には筑前守様も世話になっておりますから、その繋がりのある北條殿と昵懇になるのは悪い事ではござらん」
「主君左京大夫に代わり御礼申し上げます」
ここから、四人の話も盛り上がりっていった。
翌日から、政繁達は堺会合衆と会談をしながら、必要な物資や輸送の手当、それに康秀から名指しで指名された掘鑿や河岸整備に長けた商人、安井市右衛門成安や納屋衆(倉庫業)の田中與四郎などや各地の瓦職人が召還された。
又都で摂関家のおける協力者、二条晴良、九条稙通達により、法隆寺番匠、中井正信、正吉親子の招集や、比叡山延暦寺などの石垣などを手がけた石工衆、穴太衆も近江坂本から呼ばれることになっていた。
後は、主上の御裁可が下るのを待つだけになっていたが、結局三月四日に御裁可が下り淀川水運で当日には堺へと連絡が付くと、翌日には堺湊や吹田湊など、摂津各地の湊から大挙して物資が淀川を遡る姿が見られるように成った。
第参拾話 洛中へ
弘治三年三月五日(1557)
■近江國滋賀郡園城寺
園城寺で待機する北條家一行に朝廷よりの使者が今上帝(史実での後奈良天皇)の綸旨を与えた。普段であれば、綸旨ではなく女房奉書辺りが発されるのであるが、違うと言う事は朝廷にしてもよほどの大事と言う事であろう。使者は数日前分かれたばかりの山科言継卿と朝山日乗と言う僧であった。日乗は今上帝の覚え良き三千院で出家した僧で上人号の宣下も受けている程の人物であった。
本来なら、武家伝奏が武家に対して綸旨などの発給を取り仕切るのであるが、この当時の武家伝奏の広橋家と勧修寺家のうち、勧修寺尹豊が丁度風邪をこじらし寝込んでいたこと。
広橋家は藤原北家日野流で、広橋國光は、本流である日野家の日野晴光が天文二十四年(1555)に死去しその息子、日野晴資は今川家へ下向していたが、十六才で駿河富士川で水死し、(狂気のため自殺したと噂された)当主不在になり日野家の跡目を将軍足利義輝が國光の息子兼保(後の日野輝資)を擁しており、三好長慶が、飛鳥井雅綱の子資堯を擁していたため、三好長慶に近い行動を取っていた北條に対して思うところが有り仮病を使って拒否した。
園城寺の客殿で勅使山科言継、副使朝山日乗が上座に座り、下座に北條左衛門佐氏堯、北條新九郎氏政が畏まる。朝山日乗が菊紋の更紗から漆塗りの文箱を恭しく取り出し、中を開け一礼し綸旨を取り出し、山科卿へと手渡す。山科卿も恭しく一礼後、綸旨を読み始める。
「北條左京大夫、昨今よりの献身、国家太平に仕え大儀である。京洛の仕儀、義挙である」
何となく判るか判らないかの、全部漢文の文章を読まれた後、それを氏堯が恭しく受け取り儀式が終わる。その後、山科卿や朝山日乗を接待するために宴を開く。
「山科様、又お早いお帰りでございますな」
氏堯の話に言継が答える。
「なに、お主らの事を主上に奏上したところ、武家伝奏が二人とも居ないので、詳しい儂に白羽の矢が立った訳じゃ」
「それは、御苦労様でございました」
「なんの、なんの、朝家復興の為ならば、この老骨、骨惜しみはしませんぞ」
ケラケラと酒を飲みつつにこやかな言継卿であった。
言継と話が終わると、氏堯に日乗が話しかけて来た。
「朝山日乗と申します。この度の義挙に関しては、主上も御喜びでございます」
「北條左衛門佐氏堯と申します。帝への献身こそ我らの使命と考えております」
「北條殿の為さる、御所の修築は、まっこと、素晴らしき事でございます。かく言う拙僧も幾度となく御所の修築を夢に見まして、その為に出家し主上にお仕えした次第でございますから」
「それは、素晴らしき事でございますな」
日乗は氏堯に御所修理の重要性や、帝に対する献身に関して幾度となく話していった。
弘治三年三月六日
■山城國京
山科卿達が宴を開いている中、五千の兵達は出発の支度に追われていた。そして翌六日早朝(午前六時頃)未だ暗い中、園城寺から蹴上まで二里半(10km)程は鎧などを着ずに移動した。その後、蹴上で戦闘部門二千の兵全てが煌びやかな北條家五色備の鎧に身を包み都へ向かい行進が始まったが、代表者たる五人は全員がそれぞれの色に彩られた古式豊かな大鎧に身を固めて馬に乗っていた。
「長四郎、その真っ青な大鎧似合っているな」
苦笑いの氏政に康秀も返す。
「新九郎殿も、その真っ赤な大鎧は映えますよ」
「しかし、いくら何でも北條の五色備の色に揃えたこんな派手な大鎧を着るはめになるとは」
「新九郎、長四郎、諦めよ、都の者達に田舎物と蔑まされる訳にはいかんのだから」
そう言う、氏堯の鎧は真っ白の白備であり、“まるで源氏の旗じゃ無いか”と、時々ブツクサ言っているのが聞こえるので、新九郎も長四郎も仕方ないと我慢する。
「ちっ、融深の黒備が一番無難なんだが」
「新九郎殿、拙僧は出家の身、黒以外は着れませんので」
さらっと、北條長順が嘘を言う。
一人静かなのは黄備の北條綱重だが、よく見るとやはりブツクサ言っている。
「あー、なんで、俺が黄色なんだよ、左衛門大夫殿(北條綱成)に絶対間違われるって。漢字が違うだけで、読み方同じなんだから。絶対、地黄八幡とか言われるに違いない。あー憂鬱だ」
只一人、代表者でありながら工兵隊の指揮をしている関係で黒いごく普通の鎧を着ている田中融成がホッとした表情でチラチラ五人を見ているが、気づかれそうになると顔を背けながら、通常の黒い鎧の工兵隊三千を引き連れて続行して行く。その後には岡部又右衛門や加藤清忠達が続いていた。
山科卿や朝山日乗の案内で蹴上を発し蹴上げ坂を下っていく。知恩院を左に見ながら、白川の支流を越えて感神院祇園社(八坂神社)の門前を通り、数少ない鴨川の橋である四条大橋から京へと入った。
当時の京は、応仁の乱以来の戦乱ですっかり衰退し、上京と下京に分かれており、両者の間は十町(1km)ほど離れており、南北に繋がる道は室町通りだけであった。
四条大橋を抜けると少数の町衆が恐る恐るという感じで観察し、口々に話をしている。
『東夷にしてはええ鎧きたるわ』
『北條やからな、承久の様にならへんやろな』
『どやろう、取りあえずは、濠と柵があれば、防げるんとちがうか?』
『女子供は、外へ出さんようにせんと、攫われるわ』
『そやそや』
沿道では、北條家の軍勢を見た京雀達が心配そうに話していた。しかし北條軍は規律正しく行動し進軍していく。その行動は、それまでの乱暴狼藉をし続ける軍勢と一線を画した姿であり、町衆も驚いた表情で見送っていた。
軍勢は四条高倉から高倉通りへ曲がり北上をする。何故ならここから先は下京で惣構が掘られ土塀と柵により防御され、入り口には木戸門があるからであり、町衆に無用な威圧感や混乱を与えないという配慮であった。
二条通りを越えると上京の範囲に入るため、チラホラと公家衆が姿を現した。皆おっかなびっくりという感じで有ったが、公家衆の着物は薄汚れたり烏帽子が壊れかかっていたりという姿が哀れを誘う。
『あんさん、あれが、御所の修築するっていう北條かいな?』
『そや、そや、山科はんが、先導しとるわ』
『うちらも、恩恵有るんかな?』
『どやろう、何でも政所執事(伊勢貞孝)の身内らしいから、公方はんには良いことやろうけど。うちらはわからへんな』
『せやけど、執事はんの顔に泥塗ることはせえへんやろうから、無碍なことはしないのとちゃうか?』
『そやそやな』
『それにしても立派な軍列やな』
『公方はんや細川や山名でもああは、いきまへんな』
軍勢が土御門大路(上長者町通)に到着すると右折し御所へと向かう。
御所の前に到着し全員が下馬し御所へ一礼を行う、その後、山科卿、朝山日乗と共に氏堯が御所へと向かうが、他の者は待機する。何故なら氏堯は左衛門佐の官位があるが、無位無冠の氏政以下は参内が出来ないからである。
氏堯は二条晴良、九条稙通、山科言継と共に御所内に進み、清涼殿において今上天皇と御簾越しに対面した。
「北條左京大夫が臣北條左衛門佐が参りました」
「うむ」
喋るのは二条晴良であり、氏堯はひたすら跪いて居るだけである。
「左京大夫より、御所新造と伊勢神宮式年遷宮の為の苦役を申しております。又大判金千枚、白銀一万枚、永楽銭二万貫を献上致すとのこと、誠に朝臣の鏡と言える行為でございます」
暫く無言でいた主上が質問してくる。
「左京大夫は何が望みなのじゃ。単なる心の行いでは有るまい」
鋭い指摘に二条晴良も喋れない。
「左京大夫は、関東の静謐を願っております」
山科言継が、代わって答える。
「朕も諸国の静謐を願って般若心経を書したが、左京大夫の願いは同じか?」
「臣も関東の事を聞き及んでおりますが、民が安堵して暮らせるとの事」
「真か」
「諸処の税を統一し、無頼の徒の搾取を禁じ、民の意見を聞くための書箱を広く遣わしているそうにございます」
主上は、山科言継の言葉に一々言葉をかみ砕くように反芻している。
「左京大夫が、関東管領を名乗ったのは如何様な仕儀じゃ?」
後奈良天皇の言葉には、元来上杉家が世襲してきた関東管領職を足利晴氏から認められたとはいえ、名乗ったことに不快感が有るという言い方であった。
「それは」
「朕は左衛門佐に只しておる」
山科卿の言葉を遮るように氏堯に詰問する。
その詰問に氏堯が答える。
「恐れながら、関東公方様、関東管領は、本来であれば、関東の静謐が勤め。しかし永享の乱(永享十年(1438))以来、関東の静謐を行わず、悪戯に戦乱を長引かせ、臣民を蔑ろにし、多くの民が流浪し死を迎えました。その為に祖父早雲以来関東に静謐を求め民を慈しむ為に戦い続けました。しかし上杉殿は只ひたすら、民を搾取し蔑ろにしてきたため、やむを得ず越後へと追討するに至りました。しかし何時までも北條は凶賊と言われ続けては、民の安全も守れませぬ故、悪名は覚悟の上で関東管領を名乗りました」
切実に訴える氏堯の言葉を主上は聞きながら、反芻していた。
「左衛門佐、朕は左京大夫が我欲にて関東管領を名乗ったのであれば、許さぬ所であったが、そちの言に嘘偽りをかんじない」
結果的に、氏堯の話が信じられ、酒一献と剣を下賜された氏堯は、伊勢家から北條家への改姓の詔を頂ける事と、関東静謐の詔も合わせて頂ける事なり、第一段階は成功裏に終わった。実際金銭に対する潔癖症な所のある、主上ではこれ以上の譲歩は難しいと考えていた事で、その後の工作は次代の天皇、方仁親王(史実の正親町天皇)との交渉をしようと考えていたからである。
御所前で規律正しく待機する北條家の軍勢を公家衆や町衆は遠巻きに見ながら、驚いていた。今までの軍勢で有れば、乱暴狼藉が当たり前であり、彼等は自らの生命財産を護るためには京都中を濠と柵で覆い各辻には櫓門が作られていたほどなのである。その恐怖の対象に成るはずの東夷が悪さ一つせずに大人しい状態であるのが、彼等にしては異常な状態で有った。
「長四郎、さっきから、チラホラと公家や町衆が見に来てるけど、直ぐ逃げるな」
暇そうに回りを眺めている氏政が康秀に話しかける。
「それはそうさ、彼等にしてみれば、俺達は東から来た恐ろしい野蛮な武士だ、そりゃ怖いと思うさ」
「なんだい、恐がりにも程がある」
「いやいや、何でも未だに朝日将軍や承久の乱の記憶が鮮明らしいぞ」
「なんだそりゃ、戦と言えば応仁の乱や公方同士の戦とかの方が最近じゃないか?」
「都の連中にしてみれば、応仁の乱は管領(細川勝元)と四職(山名宗全)の争いに公方の跡目争い(足利義尚と足利義視)だから、連中にしてみれば身内の争いごとにしか感じないのさ。逆に我々のような東夷は平将門公以来の恐ろしい存在なのさ」
康秀の答えにその場に居た全員が納得した。
その後、氏堯が御所から退出してきたので、二条卿、九条卿、山科卿、朝山日乗に挨拶を行う最中、上京、下京の代表者達、洛中洛外の寺社から禁制(侵攻してくる軍勢の乱暴狼藉などを予め阻止する為、それを必要とする集団が軍勢の統率者と交渉し、礼銭を支払って獲得する文章)を求めてきた為発行した。
その後は、資材も未だ届いていないので、建設予定地の内野(平安京大内裏跡、正史では後に豊臣秀吉が聚楽第を作る場所)は、御所から十五町(1.5km)ほどであるので、直ぐに現場の把握を行い、その後、二条卿達に紹介状を書いて頂いた寺院へと宿泊するために分散した。
この日は、二条室町の妙覚寺、二条西洞院の妙顕寺、六角西洞院の本能寺等々の寺院に静かに宿泊した。寺側は、武家が泊まるのを極端に嫌うのであるが、それは武家が勝手に寺を改造したりしてしまうからであったが、北條家の軍勢は一切その様な事をせず、寺側も驚いていた。
岡部親子や弟子達、加藤家一行や旭などは、疲れたのであろう、いち早く寝入っていた。
氏堯達はその時間も、今後のことを話し合っていたが、その場所が本能寺だったというオマケが付いていて、康秀は心の中で『宿は本能寺に有りって縁起でもない!!』と言っていた。
第参拾壹話 ロマンスの神様
弘治三年三月七日(1557)
■山城國京
本能寺での宿泊の翌日、堺から到着した大道寺政繁率いる堺組と合流し顔合わせと会合が始まった。
「新九郎様、左衛門佐様、お待たせ致しました」
大道寺政繁が氏政、氏堯にお辞儀をする。
「駿河守、御苦労」
「はっ、さて、此方に控えますは、津田宗達殿嫡男助五郎殿、安井市右衛門成安殿、田中與四郎殿でございます」
「津田殿、安井殿、田中殿、宜しく頼む」
氏堯の挨拶に津田宗達が代表して答える。
「北條様、この度は、我々にお任せ頂きありがとうございます」
「うむ、津田殿、田中殿は資材や人足をお願い致す」
「はい」
「安井殿には、堀川を船運で資材を運べるように下流側からの再開削と二条付近から内野までの通運路の開削と賀茂別雷神社付近の賀茂川からの補水路の開削をお願いしたい」
「なるほど、私を呼んだ訳が判りました」
説明した康秀の言葉に安井市右衛門成安が納得した感じで頷く。
その後、助五郎の点てた茶を頂きながら、細評を話し合い、氏堯、氏政、綱重、長順は各公家への挨拶回りに向かい、康秀以下は、内野の普請準備の為に内野へ移動し、建設用の飯場や宿舎建設の指示を始めたのである。
弘治三年三月七日
■山城國 京 西園寺公朝邸 北條綱重
氏堯殿との話し合いで、私は清華家を担当することになり、近衞家出身で氏綱様の後妻のご兄弟である久我家の久我晴通殿以外の六家に挨拶回りを行うために公家の屋敷のある御所付近へとやって来た。因みに久我家は氏堯殿が行かれる事に成った。
清華家は久我、三条、西園寺、徳大寺、花山院、大炊御門、今出川の七家からなり、この内、三条、西園寺、徳大寺、花山院の四家は藤原北家閑院流の流れを組んでおり同族意識が非常に大きいそうだ。
ただしこの所の戦乱で久我家は近衞家から晴通が養子が入り、徳大寺家は、先代、徳大寺実通が天文十四年(1545年)に越中へ下向中、越後守護代長尾為景に殺害されたため、久我通言の庶子、公維が継ぐことになった。その為この頃は血統的には非常複雑になっていたため、挨拶回りも慎重にならざる得ないのが大変なところだ。
近衞系は我々北條家に含むところが有るために慎重に対処しなければ成らない、その為に氏堯殿や氏政殿が廻らなければ成らない訳だ、それに比べて、私の方は未だ未だマシと言えよう。
三条家は先代、三条公頼殿が周防山口へ下向中、天文二十年の大寧寺の変により陶晴賢の手勢により殺害されて以来当主不在で屋敷も荒れ果てて居る状態だ、公頼殿の世継ぎが居なかったため、三条家は断絶状態だ。
公頼殿には、娘が三人いるのだが、長女は管領細川晴元室、次女は北條家の同盟者武田晴信室で氏政殿の奥方の御母上、三女が六角定頼の猶子になったあと、細川晴元の猶子となり現在、摂津石山本願寺の本願寺顕如と婚姻しているそうだが、細川晴元は畿内を制している三好家と交戦中と言う状態で、中々旨く行かないようだ。
その辺りは、氏堯殿と康秀が旨くやると言っていたので、気にはしないが、取りあえず久我、三条家は対象外としなったので、西園寺家からはじめるとしよう。
出水通りと東洞院通り辻付近に西園寺邸は有ったが、屋敷地はある程度の広さは有るが、このご時世を反映するかのように、築地塀は崩れかけ、屋敷の檜皮葺からは草が生え、一目見ただけで、屋敷が、あばら屋のような状態だと判る。此が嘗ては太政大臣まで累進した家なのかと諸行無常を感じられる。
現在の当主、西園寺公朝殿は右大臣兼、左近衞大将の重席に着いていてもこの様な状態なのだ。感傷に浸っているよりさっさと用事を済まさねばならんな、未だ未だ今日中に全部で五家は廻らなければならないのだから。
何故か西園寺邸の回りに人垣が出来ているな。いったい何があったのだ?近くにいる比較的身なりの良い者達に話を聞いてみると、驚きの話が聞けた。
「すまんが、この騒ぎはいったい何なのかな?」
「ああ、蔵法師(僧体の高利貸し)が西園寺はんの借金の形に娘差し出させて、お家を乗っ取ろうとしてるそうや」
「なんと、そんな無体が蔓延っているのか?」
「あんさん、その言葉使いやと、東のお人やな、こんな事、都じゃ日常茶飯事やで」
人々がその言葉を肯定するが、此ほど酷いとは思わなかった。しかしほって置くことも出来ん。
屋敷門の前で屯する破落戸に話しかけた。
「すまんが、西園寺公朝卿にお会いしたいのだが」
「あ゛、今家の親方の用事があるんだ、さっさと帰れ」
ほう、流石は破落戸だな凄んで追い返そうとするとな。
「そうはいかんのだよ。此方としても西園寺卿にはお会いする事は主君よりの命だからな」
「なんやと、帰らへんと酷い目に合わせるかもしれんへんで!」
一触即発の状態が続くが、その時屋敷から嘆く女性の声と銅鑼声の男の声、そしてか細い中年の声が聞こえてきた。そして門へと近づいてくる。
■山城國 京 西園寺公朝邸 西園寺月子
「おもうさん」
うちを、無理矢理連れて行こうとする蔵法師は、うちを借金の形で手込めにして跡継ぎの居ない西園寺のお家に婿入りするという条件をおもうさん(おとうさん)に突きつけはったんや。おもうはんはひたすら拒否なさってくだっさったんやけど、借金の金額が多すぎて返す当てもあらへん、けど西園寺のお家をこんな蔵法師なんぞに奪われてしもうたら、ご先祖様に顔向けできへん。
うちも、おもうさんも直ぐに借金返せと言われたらどうしようもあらへん、うちの身だけで何とか出来へんかと、思うのやけど、それだけじゃ満足しそうにないんや。姉さんが伏見宮様に嫁がれた後、家を継げるのはうちだけやから、西園寺のお家も風前の灯火や。誰か助けてくれへんかな。
尤も、幾ら右大臣でも貧乏では誰も助けてくれへん、伏見宮様かて、余裕なんかあらへんから、見て見ぬ振りするしかあらへんのやから。
「ほれ、月殿、儂の嫁として確り尽くして頂きましょうぞ」
脂ぎった中年の蔵法師なんぞ嫌やけど、誰も助けてくれへん、もうお仕舞いや。
「なにをしているんだ!」
門先で何かもめてるようやけどなんや?
「親方、此奴が西園寺の爺に会わせろと言いやがるもんで」
うちが見ると蔵法師の取り巻きの破落戸と対峙してはる、身なりがようて、若い精悍な武士がおったんや。
「構わんぞ、用事はすんだのだから、そんな奴はほって置け、さっさと帰って、床入れだ」
「へい、良かったな。親方が上機嫌だ。西園寺の爺に会ってくれば良いだろうよ」
蔵法師と破落戸がうちを連れ去ろうとするのですが、其処へおもうさんが、やっと駆けつけてくれました。おもうさんは蔵法師に抵抗した挙げ句に殴られ血流したままや。
「崇伝殿、どうかどうか、月を返して下され」
おもうさんが、土下座なさった。
「そうはいきまへんな。既に決まったことや、それが嫌ならば、積もりに積もうた、借金三十万疋(3億円)、耳揃えて返してもらえまへんと、あきませんな」
荘園も殆ど横領されたしもうて、その日暮らしのお家にそんなお金、ある訳がないんや。
「西園寺様でございましょうか?」
うちらの話に武士の御方が入って来なさった。いったいなんの用なんやろうか?
破落戸が威嚇するんやけど、それを一睨みで黙らすなんて、なんて凄いお人や。
「西園寺公朝だが、そちは?」
「申し遅れました、拙者、北條左京大夫が臣、北條新三郎綱重と申します。この度、左京大夫の名代として西園寺卿にご挨拶に参った次第」
全然場違いな、挨拶にみんな呆気にとられるわ。おもうさんも、驚いてるわ。
「そそうか、こっれは、御丁重な」
「所で、この者達は何でしょうか?」
おもうはんは、言えへんな、恥ずかしいけど、うちが言うしかあらへん。
「お武家はん、借金返せへんさかい、うちを手込めにして婿養子に入る気や」
お武家は、うちの言葉聞いて、何か考えたようやけど。
「やい、兄ちゃん邪魔やで」
「その様な無体を聞いた以上、無視することもできんな」
「なんやと、金借りて返せへんのやから、当然の権利や!」
崇伝と破落戸がくってかかろうとし始めたわ。悔しいけど崇伝の言うとる事が理に適ってるんは確かなんや。
「借財は、先ほど聞いた三十万疋で良いのか?」
いきなりの言葉に、一瞬、崇伝の動きが止まったわ。
「そそ、そうよ。溜まりに溜まった元本と利息合わせて三十万疋、一文もまける訳にいかへんな」
何やら、お武家はんが、ニヤリとした気がするんやけど、気のせいなんかな?
「なるほど、ならば持って行くが良い、平助、三十万疋だくれてやれ!」
「はっ」
お武家はんが、荷車牽いてきていた人に命じて覆い取ると中から、沢山の箱が出て来たんや。それを地面に降ろして開けると、其処から眩いばかりの黄金が出て来たんや、うちこんな量の黄金初めてみたで。
「ここに、一枚四十四匁の黄金判金がある、七百五十枚で三千貫、銭に直せば三十万疋だ、持って行け!」
黄金見た崇伝や破落戸が驚いた顔しはじめたわ。
「ななな、ほんまか?」
「調べてみるがいい」
お武家はんが、崇伝に大判金投げつけたわ、それを崇伝が噛んで本物か確かめとるわ。
「ほんまもんや、ほんまもんの金や」
「三十万疋あれば、西園寺卿の借財は完済なのであろう?それならば証文を置いていけ」
受け取った判金を一々調べ終えた崇伝にお武家はんが、言うてくれたわ。
「ああ、儂かて、土蔵(金貸し)や貸した金さえ返ってくれば、文句はあらへん」
「ほう、殊勝だな」
うちも驚きや、あの狒々爺がアッサリ引いたんやから。なんや企んでるんやないか?
「この世界信用第一や、ここで誤魔化しでもしたら、明日から商売あがったりや」
「それより、西園寺卿の御息女を早くお離しせんか」
そやったわ、未だうち腕を捕まれたままやった。
「すんまへんな、お嬢はん」
「痛っ」
しもうた、足を捻挫したみたいや。
「大丈夫ですが」
うわわ、お武家はんに抱きかかえられてしもうた、恥ずかしいけど嬉しいわ、この方がうちの恩人や。
「西園寺様、此で宜しいのですか?」
お武家はんにが、崇伝から受け取った証文をおもうさんに渡して調べてもろうてるわ。
「はい、北條殿、此で間違い有りません。何とお礼を申して良いやら」
「なんの、西園寺様にご挨拶に参ったところですので」
うちに来た御客はんやったんか、北條っていうと、噂にのうてる、東の方やな、東夷は恐ろしい言うけど、聞くと見るとでは全然ちゃうな。すごく素敵なお人やな。
「崇伝とやら、此で西園寺卿に関しは何も無いのだな?」
「そや、そなら、帰らせてもらいますで。おおきに」
崇伝達がホクホク顔で黄金もって帰って行くわ。回りの野次馬が北條様に喝采を送ってるわ、うちも嬉しゅうて、思わず抱きついてしもうたわ。北條様が照れてはるわ、そやけど、恩人はんには積極的にや、うちかて海千山千の公家の娘やからな。
第参拾貳話 近衞前嗣の陰謀
弘治三年三月七日
■山城國京 近衞邸
北條氏堯は北條氏政を連れ、烏丸今出川にある時の関白左大臣藤氏長者近衞前嗣邸に挨拶に伺ったが、近衞前嗣は、持病のため会えないと伝えてきた。
「誠に申し訳ありませんが、主は持病の癪(胃痙攣)の為に休んでおります」
氏堯達に対応した近衞家の家僕が少々小馬鹿にしたように告げてくる。
「お会いできぬとは残念でございます」
氏堯は神妙そうな物言いではあるが、内心では仮病だと確信していた。
「主も、残念だとのことでございます。引き出物の数々忝ないと仰っております」
「そう言って頂ければ、幸いにございます」
結局、氏堯、氏政は近衞前嗣へ会うことが出来ずに帰る事と成った。
「どや、外記、帰ったかいな?」
「一上様、お帰りになりました」
「会いとうもない相手が来るさかい、仮病も大変や」
氏堯達が帰った後、近衞前嗣と家僕の外記と呼ばれる男が、話していた。
「そやそや、奴等幾ら持ってきたんや?」
「此方にございます」
前久が、氏堯達の持って来た葛籠を開けてみると、中からは大判金や白銀が多数出てきた。
「こりゃ、凄いの、貰える物は貰わにゃ損や、ありがたく貰っておきまひょう」
「此は此は、関白様、大層なお宝でございますな」
屋敷の奥から、脂ぎった中年の小太りの男が現れ、その黄金を見ながら、前嗣に親しく話しかけた。
「弥五郎、どないもんや」
「たいしたお宝ですな」
「そやろう、たいしたもんや、折角持って来たんやから、貰ろうても罰はあたらんわ」
「しかし、各所に廻ってご機嫌伺いとは」
「そやろ、必死こいて、わてらや、当今はんのご機嫌伺いやで、笑うてしまうわ」
「全くでございますな」
「所で、お前はん、態々世間話に来た訳やないやろう」
「はっ、関白様には、是非とも当家への、ご支援をお願い致したく」
「支援て言うても、なんやあったかいな?」
「ご冗談を」
「判こうてるがな、お前はんが、諸国鋳物師御蔵職(全国の鋳物師を統括する朝廷の役職)の権勢振って、大内や今川から鋳物師の許可証だので大分巻き上げとるそうやけど、それのことやろう」
「関白様、此は此は手厳しい。実は以前北條にも鋳物師許可証について、当家の監督下にあると督促しましたが無視されました。その為に今回の御所造営では、うちの配下の鋳物師を動かせないようにしたいのです」
「なるほど、麻呂にその後ろ盾になれと言う訳やな」
「はっ、是非とも関白様にお力添えをお願い致します」
「なんとまあ、当今はんを騙くらかして、綸旨出させただけでは、足りへんか」
「関白様、人聞きが悪うございます」
「何言うとるんや、元々地下人で柳原家に仕えとった、お前はんの親父が、借金の形に諸國鋳物師御蔵職やった、新見有弘はんを脅して、家を乗っ取ったんやないか、しかも既に家を継いではった跡継ぎの弥三郎忠弘はんを強制的に引退させた挙げ句に、お前はんが、手下に命じて足の骨折って、歩けぬようにしてから、下京の無縁所にうち捨てて、餓死させたんやないか。おお怖っ」
近衞前嗣はおちゃらけた風に真継弥五郎久直をからかう。
「世の中、金が大事でございますれば、関白様とて、同じでございましょう」
「ふん。言うてくれるわ、まあええわ、北條には含むところが有るさかい、お前の企てに乗ってやるわ」
「ありがたき幸せ、此で、北條は都に居る限り鋳物師を雇うことは出来ません」
「そうなれば、御所造営も失敗やな」
「まあ、其処を関白様に仲裁に入って頂き、その見返りとして、北條領内の鋳物師の統制を我が家が請け負うという形で話を付けて頂ければと」
「判ったわ、ならばそん時は、それなりの返りはあるんやろうな」
「無論でございます、北條には虚仮にされた恨みがありますから、精々吹っかけてやります」
「ホホホホ、それは愉快じゃな」
「以前大人しく金を出していた方が良かったと、悔やむ姿が目に浮かびます」
「オーホッホッ、益々、愉快じゃな」
近衞前嗣と真継久直の笑い声が、近衞邸に響いていた。
弘治三年三月七日
■山城國京 内野
嘗て、平安京の大内裏跡地に槌音が響いている。この地は延暦十三年(794)桓武天皇により長岡京より遷都されてから、八百年近くにわたり日本の中心として栄えてきたが、平安末期からの武士の台頭により次第に寂れ始め、更に政変や失火の為に度々焼失し、平安末期頃から再建されておらず、安貞元年(1227)にはついに大内裏のほとんどを焼失する火災が発生し、これ以後再建されることはなく、跡地は内野と呼ばれる荒れ地になってしまった。京は、足利尊氏が京に幕府を開くことで再度栄え始めた物の、応仁の乱で再度興廃していた。
「安井殿が堀川を開削改良している間に我々は、旧大内裏の東側の整地を行う事とする」
現場監督の様に整地地図を持った康秀が、北條家工兵隊に銅板製の拡声器を使って説明している。
「各中隊ごとに整列終了しました」
副監督役の田中融成が報告を行う。
「御苦労、諸君、我々が開削する濠は御所の境界を決める物だ、東面は大宮通り、北面は一条大路、南面は二条大路までは旧大内裏の範疇だが、西面のみ縮小する事に成っている。そこで旧皇嘉門大路現在の七本松通を西面にし、南北十四町、東西八町の規模とする。濠の大きさは、箱堀とし幅二丈(6m)深さ一丈(3m)とする」
工兵隊から規模の大きさに歓声が上がる。
「更に、濠開削の土砂で御所側に土塁を作ることも同時に行う事とする。作業手順だが、各中隊三百名ずつが十班に分かれ、分業で開削を行う。各班の担当範囲は四町十三丈(440m)程だ、頑張って貰いたい」
康秀の説明に頷く工兵隊員達。
「氏堯様より、早く正確に作成した者達には順番に褒美が出されることに事に成っているぞ」
この言葉に更に工兵達が歓声を上げる。
この分業制と褒美をぶら下げる方法は、後に木下秀吉が清洲城塀修築の時に行ったことを先取りしただけに過ぎなかったが、兵達には格別の事に映ったのである。
早速各組の中隊長が、田中融成から作事地図を受け取り、直ぐさま自分の隊に戻り各小隊長、分隊長と共にどの様に作事するかを相談をし始める姿が、彼方此方で見受けられた。
既に工兵達の手により、野戦築城の技術を使った、宿舎と飯場が作られ、其処では津田宗久や田中与四郎が差配した、身元を調べ病気等を持って居ない女中達三百名程がいそいそと食事の支度などを行っている。彼女たちは、食事の支度や洗濯などの身の回りの世話を行い、夜間には遊女として働く者達で、兵達の士気の維持に役に立つように集められたのである。
何故なら、この当時の都は疫病が毎年のように起こる傷都であり、兵達を都で女買いをした場合、病気の蔓延が懸念されたため、予め娼館を作り、管理した方が良いと言う事で、設置する事にしたのである。その発表を聞いた兵士達は好感を持って支持し、少し待てば、安全な娼館が出来るのに、態々盗賊などの危険が多い怪しい都へ向かう者達は居ない状態になっている。
尤も、怪しげな女達がこの地へ彷徨き始めるのも時間の問題で有るからこそ、それらから隔離するために濠を大至急掘らせているのである。つまり濠は、御所の防御というよりは、胡乱な人物の侵入と、夜な夜な脱走して遊ぶに行く輩を止める為の物であった。
各中隊が、会議を終えた頃には、昼食の支度が終わり、各隊はそれぞれの飯場で食事を始めた。本来であれば、この時代は一日二食が普通であるが、戦時と同じ感覚で四食としているのは、日の出と共に働き日の入りと共に仕事が終わる方式で行くためである。
その姿を見ながら、康秀と田中融成が話をしている。
「長四郎様、しかし、御所の防御のためと言う口実で、濠を作るとは、私には思いつかないことです」
「まあ、一番の懸念は疫病の蔓延だからな。疱瘡自体は牛痘の接種で防げるとしても、麻疹や梅毒は防ぎようが無いからな」
「しかし、あの疱瘡が、牛の疱瘡で予防できるとは思ってもいませんでした」
「まあ、あれも、牛の世話をしている者達に疱瘡にかかる物が殆ど居ない事から調べたんだけどな」
「それで、牛の疱瘡を探し出したのですから、長四郎様はよほど神仏の加護がお強い御方です」
「何の何の、下手に厳格な仏僧にでも知られたら、騒ぎになるだろうしな」
「確かに、自分も、効果を知るまでは、四つ物の病気を人間に植え付けるなど、信じられませんでしたから」
「そう言う事だ、特に南蛮人の僧侶は、凄まじいらしいぞ」
南蛮人の話に興味を持った田中融成が、聞いてくる。
「どの様な事なのですか?」
「又聞きだが、彼等の神はデウスとか言う、一人だけだそうで、人は神が作ったとか言うらしい」
「なんと、我が国には八百万の神が居るのにたった一人ですか、しかも人間を神が作ったとは」
「何でも、土着の神は皆、悪魔だそうで、それを信じる連中は悪魔の信者として迫害するらしいからな。しかも、デウスの教えにそぐわない考えをしたりすると、魔女だと告発されたり、裁きを受けたりして、有罪だと火炙りにされたりするそうだ」
「なんと、野蛮な考えですな」
「それだからこそ、牛痘なんぞ、知られたら危険な訳だ」
「なるほど、気を付けねばなりませんな、しかしそれでも長四郎殿は凄いですよ」
田中融成は非常に興奮気味に康秀を褒め称える。しかし康秀にしてみれば、種痘はエドワード・ジェンナーのパクリだから、賞められた物では無いと言う感覚で有ったので、あまり嬉しくはなかったが。後にこの種痘が山科卿から帝に奏上される事になるのである。
「それに、あの単純基準工法も驚きですな、予め同一規格の材料を加工しておき、番号を振り、現場で番号通りに組み立てれば、短時間で建物が建つのですから」
「まあ、堺での時間を考えれば、その程度の加工をしておけると考えただけだがな。それに実際の工作は天王寺屋が差配した番匠達だし」
「いえいえ、それを考えるだけでも、凄い事です、私にはとても思いつかない事ばかりです」
こうしている中で、平和なように作事は続いていたのであるが、数日後の濠完成後に鋳物師が集まらない状態だと、津田宗久に伝えられ、康秀は対処を考えることになる。