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三田一族の意地を見よ 5

第参拾参話 公方からの召還


弘治三年三月七日


近江國朽木谷おうみのくに くつきだに 足利義輝仮行在所


天文二十一年(1552)の都帰還から僅か一年で傀儡からの脱却を狙い三好長慶との戦いを始めた、室町幕府むろまちばくふ第十三代征夷大将軍だいじゅうさんだい せいいたいしょうぐん足利義輝あしかが よしてるは、鎧袖一触で三好勢に負け、近江朽木谷の領主朽木元綱くつき もとつなの元に逃げ込んでいた。

その足利義輝の元へ関東の雄北條家が帝への奉公に上がったとの知らせが着いたのは、琵琶湖対岸で義輝の支援を行っている、六角義賢からの連絡によってであった。

義輝にしてみれば、北條家は幕府政所執事でありながら、自分の都落ちに同行せずに、三好長慶に尻尾を振る裏切り者でしか無い伊勢貞孝いせ さだたかの一族で北條家自体も初代、伊勢盛時いせ もりとき(北条早雲)は元々は第九代将軍、足利義尚あしかが よしひさに仕えていた申次衆もうしつぎしゅう次いで、奉公衆ほうこうしゅうであり、第十一代将軍、足利義澄あしかが よしずみの命令により、義澄の庶兄であり堀越公方ほりごえくぼう家を義澄の母と弟を殺害して乗っ取った、足利あしかがちゃちゃまるの討伐時を命じた関係で伊豆に所領を得たのに、その恩を忘れたかのように、三好に迎合する様に思えたので北條家を好ましくは感じては居なかったが、貧乏な逃亡生活であるが故、献金を受けた以上は、北條氏康にも管領に次ぐ席次を誇る相伴衆しょうばんしゅうを与えていたのである。

六角義賢からの手紙を見て、足利義輝は憤っていた。

「兵部(細川藤孝)!勢州(伊勢貞孝)と筑州(三好長慶)めが、左京(北條氏康)と組んで、都で何やら暗躍するらしい」

義輝の言葉に、側に仕えていた細川兵部大輔ほそかわ ひょうぶだいゆ藤孝ふじたかが都から来た者達から聞いた噂を伝える。

「上様、都へ北條が参りましたのは、御所の修築をするとの事にございます」

「兵部、口では幾らでも言えることだからな、人などそう易々と信じては馬鹿を見るだけよ」

義輝が藤孝の言葉を聞いても疑ってかかるのは、幾度となく逃避行を続けたからであろう。

「しかし、既に帝にも目通りしたそうにございますれば、嘘偽りを言う訳には参りますまい」

「北條が、真に御所の修築だけに来たのであれば、五千もの兵は要らぬであろう。坂東の田舎侍であれば、嘸や粗暴で粗野であろう。それが、五千も来ているのだ。筑州の輩に合力しここへ攻めてくるやも知れん」

この当時の三好家の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・淡路・讃岐・阿波・播磨などに及んでおり、近江・伊賀・河内・若狭などにも影響力を持っていた為、最大動員数は優に六万を確実に越えていたが、それでも播磨、丹波、大和なのでは在来の勢力との小競り合いも多く全てを動員するわけには行かないのであるからこそ、朽木谷へ攻めてこないと言う事もあり得たが、実際の所は長慶自身が将軍義輝の排除までを考えていなかったからであった。長慶としても将軍殺しの汚名は着たくなかった事もあるのだが、その様な事を知らない義輝にしてみれば、北條家の軍勢五千が、新たな脅威と映るのも仕方が無いと言えた。

「江州殿(六角義賢)の話ですと、上様にも拝謁したいと申していたとの事にございます」

「詭弁やも知れぬが、会わぬ訳にも行かんか」

「はっ、早ければ数日中にも連絡が有る物と思います」

「うむ、その際には、左京の存念知ることに成るな」

「御意にございます」

細川藤孝が下がった後で、義輝は一人考えに没頭していた。

兵部は言うが、予としては北條の輩をそう簡単に信じるわけにはいかぬ、何しろ奴等は、予の専決事項たる関東管領職を、左兵衛督(古河公方足利晴氏)を傀儡として勝手に自称しているのだから、本来であれば、武運拙く越後へ落ちた兵部少輔(上杉憲政)が現在でも正当な関東管領なのにも係わらずだ。

先年、会った弾正少弼(長尾景虎)はよく予の考えを判ってくれているが、その敵対者たる北條に関東支配の墨付きを与える事はせん。精々利用してやるだけだ。まずは、都を占拠している三好勢の洛外退去を北條に命じ、更に江州に坂本まで押し出させ、北條の尻を押させよう。都で三好と北條が消耗し合えば、予の帰洛が現実化すると言う物よ。早速御内書を書かねばならんな。

「誰か有る。左衛門佐(大舘晴光おおだち はるみつ)を呼べ」

暫くすると、大舘晴光がやって来た。

「上様、火急の御用とは如何なる事でございましょう?」

「うむ、竜華越りゅうげごえ(現途中越)まで行き、洛中に来た、北條左京の使者に仮御所へ伺候するように命じよ」

「洛中へ向かわずに宜しいのでしょうか?」

「北條如きを、態々迎えに行く必要も無いであろう、小物に御内書を関白殿まで届けさせ、後は関白殿にお願いすればよいが、お前は竜華まで向かい、其処で北條が来るまで待機し、連れてくるように致せ」

「御意」


弘治三年三月八日


公方より使いを命じられた大舘晴光は早朝、共の物を連れて、近江と山城を結ぶ鯖街道を南下し、昼前に竜華まで到着した。その後、小物に御内書を持たせて、洛中の近衞前嗣の元へと届けさせた。近衞前嗣は従兄弟である義輝の願いを快諾し、その日の内に北條氏堯が近衞邸へ呼び出された。氏堯に会った前嗣は先日持病の癪で寝込んでいたという割には、えらく元気な姿で、氏堯もやはり仮病であったかと確信した。

「関白様、急の御召し如何為さいましたか?」

「左衛門佐、公方はんより仮御所へ伺候せよとのご命令や」

「はっ、謹んでお受け致します」

「重畳重畳や」

真継の事もおくびに出さない様に前嗣は話していくが、内心は公方に無理難題を吹っかけられるが良いわとせせら笑っていた。

内野の宿舎に帰ってきた氏堯は、北條氏政、北條綱重、北條長順、三田康秀、大道寺政繁、島津忠貞を集めて、足利義輝からの召喚について説明を行う。

「公方様より、朽木谷の仮御所まで挨拶に来いとのご命令が下った」

氏堯の言葉に来る物が来たかと頷き合う皆々。

「叔父上、挨拶だけなら、別段困るわけでも無いでしょうが」

氏政が言葉尻を濁すように話しかける。

「そうよ。単なる挨拶ならば良いが、恐らくは兄者や幻庵老の危惧が現実化するかもしれんな」

「叔父上、それは如何様な事で?」

「それならば、長四郎に説明させた方が良かろう、何と言っても今回の都行きは長四郎の話から始まったのだからな」

仕方が無いかという感じで、康秀が氏堯に代わり説明を始める。

「公方にしてみれば、当家は裏切り者、伊勢貞孝殿の身内であり、京洛を追放し鄙暮らしを強いている元凶の三好長慶殿と協力しているように映ります。その為に公方としては、身の安全に危険を感じたと思います。何と言っても、将軍家では公方の頸のすげ替えなど何度となく起こっていますし、鎌倉幕府では二代頼家、三代実朝は殺害されてますからね。それに足利幕府でも第六代足利義教あしかが よしのりは暗殺されています。その辺を恐れているのでは?しかも三好家には公方の従兄弟足利義親あしかが よしちか足利義栄あしかが よしひで)も居ますから、尚更でしょう」

公方に様を付けずに、呼び捨てする康秀の話しように皆がビックリする。

「長四郎殿、いくら何でも公方様を呼び捨ては」

島津忠貞が驚いて意見する。

「応仁の乱以来、実力もない上辺だけの権威で、あっちフラフラこっちフラフラした挙げ句、全土に混乱を生じている幕府に、それほど遠慮は要らないと思うのですけどね」

「まあ、それはそうだが、言いようが有るからな」

「そう言う事だ、何処で聞かれているか判らんからな」

「了解しました、以後気をつけるように善処します」

氏堯や綱重が纏めてこの件を閉めたが、反省する気が全く無い康秀であった。

「しかし、公方様の考えも、実際此までの事を考えれば被害妄想とは言えない所が笑えないな」

康秀の言葉に政繁が呟く。

「その緊張の最中に、裏切り者に縁のある当家が現れたわけですから、警戒はするでしょう」

「その為の召還か」

「それもあると思いますが、恐らくは関東管領についても詰問をされるはずです。元々あれは公方の専決事項ですから、左京様が名乗っている自体、僭称に過ぎないと言われますから」

「お前な、親父の悪口にも聞こえるが?」

氏政の言葉に、康秀は否定するように手を振りながら答える。

「いや、事実を言ったまでで、現職の関東管領は今越後にいる上杉憲政ですから、そう公方が言ってくれば、そうならざるを得ない訳です。古河公方が幾ら左京様を関東管領に命じても単なる私称にしかならないです」

「それはそうだが、もう少し言いようが有るだろう」

氏政と康秀の言い合いに、事情を知らない者達は冷や冷やしている。

其処へ氏堯が割ってはいる。

「この事は左京殿も幻庵老もご承知の事だ。康秀続けよ」

「左衛門佐殿が、公方に会いに行ったら、恐らくは当家が占領している関東管領上杉憲政の旧領を返還せよと命じるか、或いは三好と手を切って、公方の帰洛を助けよぐらい言いかねませんね」

「そうなればはた迷惑でしかないな」

「それに、無茶振りして当家の五千で三好勢十万と戦えとか言いかね無いですね」

「甚だ迷惑な事ですな」

康秀の呆れたような話に、氏政、島津忠貞が迷惑そうに呟く。

「まあ そういった無理を言われないように、左衛門佐殿には旨く煙に巻いて貰わないと駄目なわけです」

「うむ、中々難しいと思うぞ」

「公方は塚原卜伝つかはら ぼくでん殿に教えを受け奥義一の太刀を伝授されたそうですから、相当な使い手でしょうから、知より力で何とかせよって言うかも知れません」

「全くだ、其処で、長四郎も伺候させる事にしようと思うが、皆はどう思う?」

氏堯がしてやったりという顔で、皆に意見を求めると皆が皆、賛成した。

「長四郎なら、その弁説で公方様を煙にまけよう」

「長四郎殿ならば安心ですな」

「いや、此方の差配もありますので」

必死に拒否する康秀だが、氏堯が止めを刺す。

「長四郎、朽木谷まで往復でも僅か二十二里程だ、二日も有れば往復出来る。それに今の状態ではお前のやるべき程の事も無かろう」

確かに、濠開削と資材運搬だけであれば、政繁達に任せておけば良いわけであるから、ぐうの音もでなかった。

「判りました。公方を煙に巻いてきます」

翌九日早朝に朽木谷へ氏堯、康秀が旅立った。


第参拾肆話 公方とガチンコ


弘治三年三月九日(1557)


近江國朽木谷おうみのくに くつきだに岩神館いわがみやかた 足利義輝仮行在所


九日卯の刻(六時頃)に内野を発った北條氏堯一行は、高野川沿いを大原三千院を越え、一刻(二時間)ほどで途中越へ到着し、大舘晴光と合流し、ここで休憩後、晴光の案内で朽木谷へと向かった。

安曇川沿いの約六里(24km)の道のりを一刻ほどで走破し、巳の刻(午前十時)には朽木谷へ到着した。そのまま、大舘晴光の案内で、足利義輝の住まう岩神館へ向かった。

岩神館は、享禄元年(1528)に朽木植綱が都より逃れた将軍足利義晴のために建てた館で、この当時は足利義輝が仮行在所として使用していた。

「此方でお待ち下さい」

大舘晴光が館の一角に一行を案内し、部屋を退室して行った。

「左衛門佐殿、どうなりますかね?」

「さてな、此処でいきなり、武者が雪崩れ込んで来ることは無かろうよ」

氏堯は長四郎の質問に、歴戦の武者らしく、落ち着いて対応する。



その頃、足利義輝は大舘晴光から北條一行が到着したとの報告を受けていた。

「上様、北條左衛門佐以下到着致しました」

義輝は晴光の言葉を聞きながら、考えて居る様に見えた。

「うむ、大儀であった」

晴光は、一行に何時会うかが義輝から無い事を訝りつつ待機しているが、一向に話が進まない為、細川藤孝が義輝に言葉をかける。

「上様、北條左衛門佐との引見は如何致しましょうか?」

藤孝の質問に義輝がおっくうに答える。

「うむ、未だ待たせておけばよい」

「上様、それでは、呼んだ意味がございませんぞ」

「そうは言っても、未だ考えが纏まらんのだ」

「では、中食の後で宜しゅうございますな」

「うむ、そう致せ」

「御意」

そう言うと、藤孝は晴光を引き連れて退室して行った。

「兵部大輔殿、上様は如何なる考えなのであろうや?」

「左衛門佐殿、上様も迷っていられるのでは無かろうか」

不安そうな表情の大舘晴光を励ますように細川藤孝が答えるが、藤孝自身は義輝が無理難題を考えているのではないかと思っていた。

「ともあれ、北條殿には中食の後で謁見と伝えねばならぬし、湯茶の接待はせねば成るまい」

晴光が当代きっての茶道家藤孝に湯茶の接待を頼みたいと言わんがばかりである。それに気がついた藤孝も、関東で力を付け伝え聞く限りに善政をひく北條家の者と話して見たいと思っていたために了承する事にした。

「左衛門佐殿、私が接待を致しましょう」

晴光は藤孝の言葉にホッとした表情を見せる。

「兵部大輔殿、宜しくお願い致しもうす」

晴光は、そう言うとそそくさと去っていった。



座敷で待たされていた氏堯と康秀の元へ細川藤孝が現れた。

「お待たせして申し訳ございません。それがしは、公方様の近習を勤めます細川兵部大輔と申します。公方様はただ今御支度中につき、若輩者なれど暫しそれがしがお相手するようにと命じられました」

見事な挨拶を行う藤孝。

「左様でございますか、細川殿、拙者は北條左衛門佐と申します。此処に控えるは、義理甥三田康秀に御座います」

「三田長四郎康秀と申します」

見事な挨拶を返す、氏堯と康秀に藤孝も安堵する。何故なら未だ未だ若輩の自分が相手をしても良いのかという感覚も有ったが好奇心には逆らえなかった。

「些少で御座いますが、茶室に湯茶の用意を致しましたので、此方へ」

藤孝の案内で氏堯と康秀は、茶室へ向かった。到着した茶室はこぢんまりとした四畳半程の部屋であった。

それぞれ座ると、藤孝が茶入れから茶杓に抹茶を取り唐渡りと見える見事な茶碗に湯と茶を入れて茶を点てはじめる。

シュンシュンと鉄瓶が湯気を上げ、茶筅がシャカシャカと茶碗の茶と湯を混ぜ合わせていく。

暫くして、茶が点ておわり、藤孝が氏堯の前へ茶碗を差し出す。

氏堯は殆ど作法など知らぬ為に先だって本能寺で津田助五郎の点てた茶を飲んだときの作法を思い出しながら飲んでいくが、付け焼き刃なために些か滑稽な状態で、藤孝も作法の面では氏堯の底の浅さを感じていた。

氏堯が茶を全部飲んでしまったので、康秀用に再度藤孝が茶を点てた。

康秀は目の前に置かれた茶碗を鑑賞しつつ、藤孝からしたら、多少は独創的作法で茶を味わっていく。その姿に藤孝は驚きを隠せない、氏堯でさえ付け焼き刃の作法なので、田舎領主の四男ではどの様な不作法をしでかすかと思っていたのだから。

「結構なお点前で」

康秀の姿に藤孝だけでなく氏堯も驚いていた。尤も氏堯の驚きはたった一回の茶会で作法を覚えたのかという感心であったが。当の康秀は前の人生で作法を覚えておいて良かったと思っていた。

藤孝は康秀に感心しながら、北條の治世や関東に対する噂の真実を聞き始めた。

「北條殿、貴家では四公六民という低率年貢、雑多な税の一本化などしているとのことですが、何故でございましょう?」

藤孝の質問に氏堯は康秀に目配せすると、氏堯に代わり康秀がすらすらと答える。

「細川殿、それについてはわたくしが、そもそも北條家では、二代氏綱より禄寿応隠ろくじゅおういんと言う印判を使ってきておりますが、此は“人民よ皆平和で暮らそう”と言う意味でございます。それを具現化するために、四公六民の税率と、雑多な税を貫高かんだか(収穫高)の六分の段銭たんせんと、四分の懸銭かけせんそして棟別銭むねべつせんにして、民の疲弊を少しでも無そうとしたのでございます」

なるほどと藤孝は感心するが、もう一つ聞かねばならぬと質問する。

「気を悪くなさらないで頂きたいが、鎌倉御所様や(関東公方の当時の一般呼称)関東管領と争ったのは何故でございましょう?」

藤孝にしても、乱世にその様な質問をする自体疑問を感じてはいたが、幕臣としては聞かざるを得ないと自問してからの質問であった。

「そもそも関東では応永二十三年(1416)の上杉禅秀うえすぎぜんしゅうらん以来戦乱に事欠かず、民は疲弊してきておりました。しかし鎌倉御所様も関東管領様も民の事はお構い無しに、権力闘争に明け暮れてきました。その為に民は田畑を踏みにじられ、家屋敷を焼かれ、家族を攫われ、その上で過酷な税の取り立てに苦しんできました。その為に、敢えて北條家は、民のために悪名覚悟で争ったのでございます」

「なるほど、しかし何故其処まで民を?」

藤孝と言えども、この年二十四歳未だ未だ未熟であった。

「細川殿、武士は親、民は子と考え為され普通“親がたらふく食って、子にひもじい思いをさせる”事は致しますまい。我ら武士は上級武士に成るほど、生産に何の寄与も致しません。民により喰わせて貰っている存在です。親が子に喰わせて貰っている以上、その子を護らないでどうしろと言うのでしょうか?」

康秀の言葉に、藤孝は大いに驚く。

「なんと、斬新な考えでございますな」

此により藤孝が北條家と康秀に大いに興味を持つ切っ掛けなった。

暫く話し込んでいると、部屋の外から藤孝を呼ぶ声がする。

「兵部大輔様、上様の御支度が調いましてございます」

祐光すけみつあい判った」

そう言うと、氏堯、康秀に向き直した。

「北條殿、三田殿、上様の元へ御案内いたします」

「宜しくお願い致します」

藤孝に連れられ、将軍の御座所へと向かう前に、藤孝は共に向かう近習の紹介をした。

「此は、私の家臣で若狭国熊川わかさのくにくまがわ領主、沼田光兼ぬまた みつかねが子、祐光と申しまして、若年ながら 陰陽道・易学・天文学に通じております」

紹介された祐光は利発そうな目をしながら挨拶をする。

「沼田祐光にございます」

「北條左衛門佐氏堯と申す」

「三田長四郎康秀と申します」

当たり障りのない挨拶であったが、祐光の視線は康秀に向いていた、祐光にしてみれば、茶室の隣室で聞いていた康秀の話に非常に興味を持っていたからであった。



藤孝に案内され、御座所へと到着し下座で待つ。

周りには細川藤孝、大舘晴光、三淵晴員等が控えている。

「上様のお成り」

氏堯と康秀が頭を下げる中、足利義輝が御簾の中へ現れた。

仰々しく、三淵晴員みつぶち はるかずが義輝に説明する。

「上様、関東より北條左京大夫の使いが訪れましてございます」

知っていながら、芝居じみたことをしていく。

「うむ、御苦労、名は何と申すか」

それを聞いて、細川藤孝が氏堯に目配せする。

「北條左京大夫が四弟、北條左衛門佐氏堯と申します」

この会見場では、康秀は空気状態で有った。

「して、左京大夫は何が望みじゃ?」

いきなりの単刀直入に戸惑う皆。

「上様」

晴員が窘めようとするが、鋭い眼光で言葉が出ない。

意を決して、氏堯が答える。

「上様、直言をお許し頂きありがとうございます。左京大夫の望みは関東の静謐、只それだけにございます」

話を聞いている藤孝以外の者は胡散臭そうに氏堯を見る。

「ほう、関東の静謐、只それだけと申すか。ならば進んで乱を起こし鎌倉御所や関東管領を蔑ろにしておるのはどういうことじゃ?」

その質問に氏堯は、先ほど康秀が藤孝に言ったことを話す。その話が進むにつれ段々と険悪な雰囲気になる御座所。義輝は話を聞きながら、北條を使い潰そうと考えながら命じる。

「例えどう繕っても侵略は侵略と言えよう、北條の行動認めて欲しくば、畿内にいる兵で三好勢を都より放逐し予の帰洛を助けよ」

そう言いながら、約束など履行する気のない義輝である。

「上様、我が家の兵は僅か五千でございます。更にこの兵は御所修築の工人を含んだ数、恐れ多き事ながら、無謀でございます」

その言葉に、ムッとした義輝は小姓から太刀を奪い取り御簾から出て氏堯へ見せるように太刀を抜き放つ。

「此は鬼丸じゃ、北條が滅んだ際、新田義貞にった よしさだが手に入れたが、それを討った斯波高経しば たかつねから等持院とうじいん様(足利尊氏あしかが たかうじ)の下へ義貞の首級と併せて送られた物じゃ、見事であろう」

鎌倉幕府執権北條家の宝刀を見せびらかす、義輝の姿に氏堯も康秀も眉を顰める。何故なら一応執権北條家を意識して北條を名乗っている手前、鬼丸国綱おにまるくにつなが弄ばれている様で嫌な気分がしていたからである。

「戦など、戦力の過多ではあるまい、大将の気合いと腕で如何様にも出来よう」

如何にも自分が免許皆伝で有ることを言っているが、氏堯、康秀にして見れば、子供じみた話であった。流石に不味いと思った藤孝等が止めようと声をかけようとする中で、康秀が喋り出す。

「上様、直言をお許し下さい」

「そちは?」

「北條左京大夫が婿、三田長四郎康秀と申します」

多少なりとも興味を持った義輝が話を聞き始める。

「当家は、宸襟しんきん(天皇の心)を安んじる為に都へと参りました。それに背くような事を出来ましょうか?上様も朝臣でございますれば、お分かりと存知奉ります」

一々尤もな返しに義輝もぐうの音もでないが、それで諦める義輝ではない。

「ならば、三好を京ではなく摂津辺りで叩けば良かろう」

「恐れ多き事なれど、三好勢は数万の軍勢を軽く集められましょう。僅か二千で勝てる訳がございません」

「関東に覇を唱える北條にしては臆病な事よ、予のように塚原卜伝老に師事した者であれば、無双するのであるがな」

義輝の無茶振りが出て、藤孝が頭を抱えている。

義輝に対して康秀が皮肉を言う。

「上様、昔、有る武将が、自分より手柄を立てた武将に自分こそ剣術の腕は上だと勝負を求めました。勝負を売られた武将は、同じ主君に仕える武将同士が、その様な事をするのはあほらしいと感じましたが、仕方が無しに勝負を受けましたが、後日支度をしてから受ける事に致しました。

後日勝負の日、売った側は剣術の勝負のつもり出来ましたが、買った側は、戦場における鎧兜に身を包み騎乗し、弓、鎗、薙刀で武装した自らの家臣を引き連れてきました。驚いた売った側が聞くと、『儂の武勲は戦場での物、買った以上は戦場での作法でやらして貰う』と凄んだそうでございます」

康秀は、公方自らが戦場で免許皆伝の腕前だろうと、集団戦闘では役に立たないと比喩しているのである。

この話に御座所の気温が一気に下がった。義輝の手はギュッと鬼丸国綱を握り、康秀の目の前に突きつける。

「予を愚弄するつもりか!」

鬼丸国綱を突きつけられても冷静な康秀は、更に話し始める。

「昔、秦始皇帝しんのしこうていは元々自分の高級家臣であった尉繚うつりょうが、暇乞いをしたとき、何故かと尋ね、始皇帝の政策を批判した為に煮殺し。それ以降始皇帝へ諫言する者は居なくなり、秦は僅か十五年で滅びました。

また楚の項羽こううは主君である懐王かいおうを蔑ろにし、“懐王之約”(秦の首都咸陽に一番乗りを果たした者に秦の本貫の地・関中を与えるというもの)を履行せよと命ずる懐王の詔を無視し、劉邦には一番乗りの約束である関中を与えず、自ら諸侯を封建し、自身は「西楚の覇王」を名乗ると言ったとき、有る老将が苦言を述べたところ、老将を一刀のごとに両断し文句がある奴は他にいるかと凄みました。

また亜父と呼んだ范増はんぞうの忠誠を疑い諫言を鬱陶しくなり放逐致しました。その為に最後は四面楚歌となり垓下にて滅び去ることと成ったのです。逆に後漢の光武帝は民を慈しみ、兵を愛し、臣と心通わせました」

康秀の言葉に、義輝も途中で振り上げた鬼丸国綱を、振り下ろせなくなっていた。

義輝に対して、康秀は堂々と諫言する者を排除するようでは、碌な公方には成れない、光武帝のようになりなさいと言っているのである。

その事は、義輝とて判っている事であるが、康秀の堂々とした態度にはかなり頭に来ていたので、つい鬼丸国綱を振り上げてしまったのである。

周りからは康秀は、斬るなら斬って見よと言う態度に見える。

康秀自身は、『どうせ一度の人生を二度して居るのだから』と居直った気分であった。

この状態では、北條氏堯、細川藤孝、大舘晴光、三淵晴員達も固唾を呑んだ状態で動けない。

刀を振り上げた状態で義輝は葛藤していた。

“この小童を、此処で斬るのは容易いが、将軍としての予の矜持、世間体に係わる、くっそー、小童如きに論破させるとは何たる仕儀、えええい”

次の瞬間、義輝は鬼丸国綱を康秀の目の前の畳に突き刺した。

ドシュッという音で、康秀の前髪を散らしながら鬼丸国綱が畳に刺さると、義輝は踵を返し上座へ戻り仁王立ちしながら、引きつった顔をしながら笑い出した。

「ハハハハ、三田康秀、天晴れよ。予に此処まで諫言したはそちが初めてよ、褒美に鬼丸国綱は呉れてやる。しかし、光武帝は昆陽の戦いでは、王莽の新軍四十二万の大軍に三千人で突撃して中央突破、その大将である大司徒王尋を斬っているでないか」

義輝は少しでも康秀を打ち負かそうと知っていた光武帝の戦の話をして、先ほどの康秀の話に矛盾があると攻める。

「上様、光武帝には雲台二十八将を始めとする名将が綺羅星の如く付き従っておりました。一騎当千の将兵が三千有れば可能でございましょうが、恐れながら今の借りた兵ではそれは難しいかと。光武帝が挙兵したは二十八の時、上様は二十二にございます。それまでに将と兵を集め鍛え為され」

康秀の言葉に、悔しいが義輝も納得しなければ成らなかった。

“この小童の言うように、将や兵の質が悪いのは判っている。致し方ないか”

結局、何の言質も取らず取られず状態で将軍と北條家の会談が終わった。



その後、馬で帰洛する氏堯、康秀一行。

「長四郎も肝が座った物だな」

「あの時は必死でしたから」

「兎に角、あまり冷や冷やさせんでくれ」

「出来うる限り、熟考してみます」

「こやつが、お主だけの体でないことを考えよ」

「はっ」

「良いな」

笑っていた、康秀が神妙な顔で氏堯に話しかける。

「鬼丸ですが、如何致します?」

「そちが貰った物故、そちに任す。儂が取り上げることが出来ようか」

「判りました。帰国後左京様にお伺いをたてましょう」

「それが良かろう」

「それにしても、言質を取れないことは折り込み済みであったが、言質を取られなかったことが大きいな」

「そうですね」

「此も長四郎が命を張ったお陰よ」

そんな話をしている中、葛川細川村で、後方から一騎の騎馬が迫ってきた。すわ追っ手かと刀に手をかけるが、見ると先ほど話した沼田祐光であった。

「北條殿!」

「沼田殿、如何致した?」

呼び止められ話を聞くと。

「この先の途中越で大舘晴光の手勢が御両人を討ち果たそうと待ち構えております」

「何故それを?」

「兵部大輔より伝言に御座います。“上様は辛うじて納得したが、納得できない者が居る”と」

「なるほど」

「その為、兵部大輔より百井越えのお供をせよと命じられました」

「しかし、宜しいのか?」

「上様に悪名を着けさせる訳には行かないと」

どうすると、いう感じで氏堯が康秀を見る。康秀としては藤孝がそう言って間道へ誘い、襲うのではと、三好長慶に幾度となく刺客を送った義輝であるし、藤孝自身、本能寺の変後、一色義定いっしき よしさだを宮津城で謀殺した事が頭をよぎったが、あれは明智光秀に荷担したためで有るし、現在は其処までは黒くはないと信じる事にし、氏堯へ無言で頷き返す。

「判り申した、宜しくお頼み申す」

「はっ」

その結果、北條家一行は間道を使い鞍馬へ抜け、大舘晴光の雇った夜盗の集団は、待ちぼうけを食らい、大舘晴光を大いに悔しがらせた。

百井越えをした一行は強行軍で夜遅く到着した鞍馬寺で一泊した。

途中康秀に祐光は多くの質問をしていた。

「三田殿の仰る事は一々面白く興味が湧きます」

「それは光栄です」

翌日別れ際に氏堯が心配した。

「沼田殿、この様な事をして、細川殿、沼田殿のお立場が悪くなるのでは?」

「北條殿、ご心配為さるな、上様は責めません、兵部大輔は何も知りません、それに私は馴染みの女の所へお役目を抜け出して、しけ込んだだけにございます」

そう言いながら、ニヤリと笑った。

「成るほど、昨夜はお楽しみでしたね」


第参拾伍話 経済戦争


弘治三年三月十五日


■山城國京 内野


朽木谷での将軍義輝との会談数日後、工事現場である内野に三好長逸が訪ねて来た。

「此は此は、三好殿よくおいで下さいました」

「堺で話したこちら側の人材を連れて参りましてな」

「成るほど、筑州殿(三好長慶)に、お認め頂きましたか」

「こちらに関しては全て私に任せると」

「それはそれは」

「其処で、私の家臣で博学の士である、この者を連れて参りました」

長逸がそう言いながら、自分の後に控えていた四十代前後の人物を紹介した。

「お初にお見にかかります。白井胤治しらい たねはると申します」

その喋り方に関東の訛りを感じた氏堯が出身を聞いて見る。

「白井殿、もしかすると、関東の出身では?」

そう言われた胤治も答える。

「よくお分かりに成りましたな。拙者、下総白井しもうさ しらいの出にございます」

「成るほど、さすれば、千葉一族の出というわけですな」

「如何にも、尤も祖父は常陸大掾ひたち だいじょう一族の真壁まかべ氏から養子に入った身ですが」

「同じ関東衆であれば、上方衆に比べて言葉の違いや習慣の違いが無く話がし易かろう思いましてな」

長逸がにこやかに話しかける。

「お心遣い、忝ない」

止めどのない挨拶の中、長逸が康秀を見ながらポツリと氏堯へ呟く。

「左衛門佐殿それにしても、公方様の我が儘には相当参ったようですな。尤も其方の婿君が優秀でようございましたな」

長逸の話に氏堯も康秀も驚きながらも、顔には出さないように聞いた。

「言質を取らず取らさずは、今の状態では理想と言えますからな」

氏堯がボソリと返す。

「重畳、重畳、此で私も親方様(長慶)に顔向けができます」

其処へ、康秀が多少引きつっているが、ニヤリとしながら。

「流石、三好殿の耳は兎より長く、鷹よりよく聞こえるようですね」

康秀の返しに、思わず長逸も内心で“やるの小童”と思いながら。

「手も長いかも知れませんぞ」

「味方としては頼もしい限りにございます」

「ハハハ、気に入ったわ」

「ありがたき幸せ」



長逸は会談の後、芥川山城あくたがわやまじょうの三好長慶の元へ北條家側の考えとして聞いた本願寺に対しての婚姻についての相談をするべく向かっていた。

「胤治、北條の将、どう見た?」

質問を受け、素早く反応する胤治、既に答えを考えて居たようである。

「はっ、左衛門佐殿は知勇の将と言えましょうが、所詮は副将止まり。氏政殿は四代目としては些か問題有りかと、ただし優秀な補佐役が居り、その言の取捨選択さえ間違えなければ充分に当主としやっていけましょう」

「成るほど、その辺は私も同じ意見よ、してあの小童はどうじゃ?」

「はっ、あの若さで公方と対峙した際の胆の太さといい、論破した理論といい、末恐ろしき存在ですな。惜しむらくは、自らが重要な人物ある事を軽視している事ですな」

「確かに、公方が彼処で癇癪を起こせば、死んでいたであろうし、細川兵部の機転がなければ途中越で手傷を負っていたであろう」

「そうですな。しかしあの様な面白い人材は久方ぶりに見ましたぞ」

「私もだ、弾正忠(松永久秀)以来かもしれんな」

「そうですな。尤もかの御仁より素直でしょうが」

「違いない、弾正が二人もいて見よ、それこそ大変よ」

「ハハハ、それはそうですな」


弘治三年三月二十五日


■山城國京 正親町通り 三條西邸


正二位権大納言、三條西実澄さんじょうにし さねすみは天文二十二年(1552)以来、駿河守護今川義元の元へ下向し世話になっていたが、北條家一行が都で帝や公家に対して奉仕を行うとの話で北條一行より一月ほど遅れて都へ帰洛していた。

帰洛後直ぐに帝へ拝謁し五年も朝議に参加しなかったことを叱責されたが、主上自体公家の衰亡を判っていたために、さほどご不快には成っていなかった。更に譲位間近に態々波風を立てる必要が無いとのお考えもあったのであろう。

その数日後に、本家に当たる正二位内大臣、正親町三條公兄おおぎまちさんじょう きんえが北條氏堯達と共に訪ねて来た。

「此は此は、内府殿(公兄)なにかあらしゃいましたか?」

「実はな、北條左京大夫が麻呂達に提案があるそうや」

玄関先で下座して待っている北條氏堯達を見ながら、公兄が説明する。

それほど綺麗でない屋敷に上がり、実澄、公兄と対峙する氏堯、氏政。

「麻呂が三條西実澄や」

「北條左京大夫が四弟、左衛門佐氏堯と申します。此は左京大夫が嫡男氏政と申します」

氏堯に紹介された氏政が深々とお辞儀をする。

「それで、左衛門佐、麻呂達に提案とはなんぞや?」

「はっ、聞くところに依りますと、三條様は天王寺青苧座てんのうじあおそざより苧公事をお取りたてしていらっしゃったそうでございますな」

氏堯が喋っている最中に青苧座の事を聞いた、実澄が渋い顔をし始めた。

「如何にも、そうであったが、それがどないした言うのや?」

「我らが聞くところに依りますれば、青苧の産地越後守護代長尾為景が越後を牛耳って以来、その公事自体が削減、遅配との事」

実澄は本当に悔しそうに喋る。

「そうや、あの長尾のせいで、年間百五十貫(1500万円)あった物が五十貫に減らされたんや、しばしば座役銭の貢納が滞ると、お爺様(三條西実隆)がよく嘆いていたで、更に息子(長尾景虎)は越後苧座の頭人蔵田を使こうて、全部自分の物にしてしもうたんや。ほんま悔しいで」

「御心中お察し致します」

氏堯が丁重に喋りかける。

「あれがなければ、態々麻呂かて、駿河へ下向することも無く、とっくに右府(右大臣)になってたはずや!」

「まま、権はん、落ち着きなはれ」

公兄が実澄を落ち着かせている。

興奮気味の実澄に代わり公兄が質問する、

「左衛門佐、青苧座が其方の提案に何か関係有るのか?」

そう言われた、氏堯が身を只して口上し始める。

「はっ、青苧はカラムシ(イラクサ科の草で別名、苧麻ちょまその樹皮から麻に似た繊維を取る越後の特産品、現在で言う小千谷縮・越後上布)より衣類用の布を取りますが、関東では現在綿の大量栽培とそれから作る上等な木綿の製造に成功致しました」

それを聞いた、公兄は流石に海千山千の公家である、直ぐさま青苧と木綿の抗争が勃発すると読んだ。

「つまりは、北條から出荷される木綿が三河の木綿より良いって事やな」

当時は三河は木綿が製造されていたが未だ未だな質であった。

「そうなります。此が見本にございます」

そう言う氏堯が見事な木綿の束を差し出す。

受け取った、公兄と落ち着いてきた実澄がしげしげ見ながら唸る。

「見事なもんや」

「唐渡りと充分に言える程や」

「権さん、こんな物、出回ったら、青苧は大打撃やな」

実澄に公兄が冗談ぽく喋りかける。

「確かに、そうや、青苧が公方はんの公式礼装布言うてもそれだけやし、うちらの贈答品と言うても、絹以外というだけや、別に他の者が真似する必要はあらへん、それにこの肌触りや、青苧と比べものにならへん」

二人が喧々諤々した後、氏堯が再度、身を只して口上し始める。

「其処で、我が北條家と致しましては、三條御一門に是非とも相模木綿の後ろ盾と成って頂きたくお願いに上がりました」

その言葉に、実澄も公兄も一瞬ぽかーんとしたが、二人して見つめた後、満面の笑みで聞き始める。

「それは、正親町三條、三條西で木綿の公事を受け取れるって言う事でええんやな?」

「はっ更に、断絶状態の転法輪三条家てんぽうりんさんじょうけをお継ぎになる左中将様(公兄の子、実教さねのり)もでございます」

息子の名前が出てきて、思わず更にニンマリする公兄、既に自分の手元を離れた青苧がどうなろうか知ったことではない心境である実枝。

「此方は目録にございます」

そう言いながら氏堯が目録を実枝、公兄に差し出す。

直ぐさま二人は受け取り内容を見て更にニンマリする。

それには、三家の三條家それぞれに、“相模木綿公事年間四百貫(4000万円)を贈呈する”旨記されていたからである。

「これはほんまかな、空手形ちゃうやろうな?」

あまりの金額に些か慌てる実枝。

「北條左京大夫は嘘偽りは申しません」

「権さん、朝廷や麻呂達への得心で左京大夫の赤心はほんまもんやとおもうで」

「そやな、そやそや」

「それにしても、麻呂達に木綿だけで話振ったわけやないやろう?」

公兄が目聡く、後の氏政を見てカマをかける。

「流石、内府様、実は今ひとつお願いが」

「ええで、これだけしてもろうて、何もせんのは、気が晴れへん、麻呂達に出来ることならば聞いて使わすぞ」

そう言われた氏政が、進み出て話し始める。

「北條氏政にございます。私の妻は武田大膳大夫(武田晴信)の娘なのですが、その母が、転法輪三条家出身でございまして」

「そやな、 確か公頼きんよりはんの二女やったか」

「はっ」

「それで、どないしたんや?」

「義母の妹君が今現在、管領様(細川晴元)の養女となっており、本願寺顕如上人と婚約されてはおりますが、管領様は丹波へ逃亡中、公方様は近江へ逃亡中にございますれば、中々進まぬ様にございます」

「そやな、公頼はん失のうて、姫さんも御一人で気の毒なことに」

「権さん、管領言うたら、本願寺利用した挙げ句、裏切って討伐までしたお人や、又ぞろ本願寺利用でも考えているんやないか?」

「そうなると、あれやね。管領はんの養女じゃ姫さんも本願寺側から冷たく見られるかもしれへんな」

「三條様、真にそれを心配しております。義理とは言え叔母が不幸になるのを近くにいる以上見捨てられません」

「氏政はん、つまりは姫さんを本願寺へ嫁がせないと言うのか、それとも管領はんの養女を止めさせるのかい?」

「折角の婚約潰すには忍びなく、出来れば、我が父左京大夫の養女として嫁がせたいかと」

「なるほど、麻呂達の養女では如何にも三條本家乗っ取るためみたいで世間体が悪い事まで考えてくれとるんか」

「それもございますが、当北條家は先代氏綱の代に敵の三浦道寸みうらどうすんとの戦いの際に本願寺衆が三浦に味方した結果領國の本願寺末寺を追放致しました」

「なるほど、それの和解もしたいというわけじゃな」

「行き違いとは言え、敵対した身でございませれば、早い内の和解も必要かと」

「なるほど、そう言う事ならば、麻呂達も手を貸しましょう」

「そうよ」

こうして、三條一門を完全に親北條家へと引きずり込んだ末、本願寺との繋がりまで得ることになるのであった。

その後、三條家から、各公家や門跡、大寺院などへ贈答に送られた相模木綿は、次第に上方で有名になり数年後には取扱量が増えていき、庶民の衣類としても多数が販売されるようになり、北條領国の領民の生活も豊かになっていき、領民は北條家の治世を喜ぶのであった。

逆に関税が高く質も相模木綿に敵わない越後の青苧を求める日本海側の商人は少なくなっていき、青苧税に頼っていた長尾家は財源の悪化により、上方からの兵器の輸入や職人の招聘、そして軍事費にも大きな影響を与える事に成る。

その他、康秀が指摘した、入浜式製塩、流下式製塩によって作成され、更に漏斗ざるにより自然と苦汁分が抜け味がまろやかになった塩は、「甘塩」として上方でも高価で取引されるようにも成っており、益々北條家の財源にゆとりを持たせる結果となっていった。

それ等を計画した、康秀はその頃、山科卿と天王寺屋の伝手で堺の薬種問屋丹波屋の小西弥左衛門を紹介され漢方の原料を多数手に入れて、色々ブレンドし、大鍋で炒めたり香りを嗅ぎながら“蕎麦つゆに長葱と鰹節もいるな”と言いながらニンマリしていたそうである。


第参拾睦話 本願寺


弘治三年三月二十五日


摂津國せっつのくに嶋上郡しまかみぐん 芥川山城あくたがわやまじょう


三好長逸が転法輪三條家令嬢春子姫の本願寺顯如との婚姻を元管領細川晴元の養女としてではなく北條氏康の養女として嫁がせたいと三好長慶に相談に上がったのは、長慶が風邪をひいていたために遅れに遅れたこの日になった。

「御屋形様、ご気分は如何でありましょうか」

恭しく長逸が加減を聞く。

「うむ、もう大丈夫じゃ、それにしても世の中には五月蠅い輩が多すぎるな」

「はっ、元管領は丹波で入京を狙っておりますし、河内は河内で治朗四郎(畠山高政)と安見(宗房)が蠢いております、また恥ずかしき事なれど播磨では三木城を落とせず申し訳ございません」

長逸は天文二十三年八月と二十四年一月に三木城の別所村治べっしょ むらはるを攻めたが何れも落城せせることが出来なかったため、恐縮しているのである。

それに気づいた長慶は手を振りながら長逸に話しかける。

「よいよい、敵がそれだけ強大と言う訳だ。何れ何とかせねば成らんが、気に病むこともなかろう」

「ありがたき幸せ」

「所で、北條の事だが、何を言ってきたのだ?」

「はっ、元管領の養女となり本願寺顯如に嫁ぐ予定の三條家の姫ですが、北條家当主左京大夫氏康の養女として嫁がせたいとの事にございます」

その事を聞いて長慶は素早く考え、三好家に益であると答えを出した。

「なるほど、北條左京大夫の息子の嫁が三條の孫で有ったな。その縁で養女とするか、それは当家にとっても良い事だ。なにしろ元管領が本願寺と縁を結ぶと甚だ厄介だからな、父上(三好元長みよし もとなが)が晴元に連携した一向一揆に殺害されて早二十五年か、再度その様な事起こしてはならんな。北條が義父になれば、晴元が本願寺を利用することも出来まい、長逸、早速北條にはその旨了承したと伝えよ」

「はっ」


弘治三年三月二十七日


■山城国京 管領細川晴元邸


三好長慶と三好長逸が芥川山城で会談した翌日には白井胤治が三好家側が快諾した旨の連絡を伝えてきた。それに伴い、翌日には氏政が細川邸へ訪問した。

「叔母上、初めてお目にかかります。北條新九郎氏政にございます」

「新九郎殿、よく訪ねて来てくれましたね」

細川邸で三條家息女春子姫は満面の笑みで氏政迎え入れていた。その笑みで年上の甥の訪問を心から喜んでいる事が判る。

「叔母上はてっきり丹波にいらっしゃるかと思い、ご挨拶が遅れたことをお詫び致します」

北條家側では、幼少の頃より六角定頼、細川晴元の養女になっていた関係を考え、よもやと思い三條邸へは使者を送り無人と確認していたが、管領細川邸までは調べるわけにも行かず細川晴元とと共に丹波へ向かったと考えていたが、実際には確認不足で細川晴元都落ちの際に同行せず。そのまま細川邸に住み続けていたのである、幾ら三好一党でも管領の養女になったとはいえ、従一位左大臣三條公頼の娘をどうこうする訳にも行かなかったからである。

「いえいえ、左衛門佐殿や新九郎殿が上洛したときに連絡を入れれば良かったのですが…」

そう言いながら、うらぶれた状態の屋敷を身で追う仕草をする。

「ご心配為さらないで下さい。我々が来た以上、叔母上に苦労かける様なことは致しません」

「新九郎殿、姉上も良き義息子を得られて幸せでしょうし、梅姫も嘸や嬉しい事でしょう」

氏政は、叔母の満面の笑みと、愛してやまない妻のことを賞められて照れまくる。

「はっい、梅は私には勿体ないほどの良い妻にございます」

「ふふふ、ご馳走様です」

「叔母上」

「所で、新九郎殿が来たのは挨拶だけでは無いでしょう」

流石は、幼い頃より政略の駒として養子(家督相続権が有る)や猶子(家督相続権が無い)となっていた事はあり、その頭脳で氏政が来た理由を単なる挨拶だけでは無いと感じ取っていた。

氏政にしてみれば、言いにくい事ではあるが、ズバリと別の理由があると指摘されたことに動揺していた。

「はっはい、実は真に言いにくい事なのですが、本願寺顯如ほんがんじ けんにょ殿との婚姻の件でございます」

「覚悟しております。破談になるのでしょう」

二十歳の氏政に対して十四歳の春子姫が凛とした顔で言う。

それにタジタジになる氏政。

「いえ、正親町三條公兄殿、三條西実枝殿とも話し合いましたが、叔母上を我が父、氏康の養女として本願寺顯如殿へ嫁いで頂こうとの事に」

聡明な春子姫は直ぐに事の次第と背景を考えおせた。

「成るほど、正親町三條、三條西共に、乗っ取りの汚名を着るのを嫌がりましたか」

「それは…」

「隠さなくてもええ事です。まあおもう様が実教はんを養子にした以上は私は不要ですからね。まあ顯如殿へ嫁ぐのも一興と思っておりましたが、管領はんが都落ちでどないなるかと、心配はしてましたけど、可愛い甥の義姉になれると有れば、面白うことや」

十四歳の娘に論破される氏政は端から見ると滑稽だが氏政から見れば、凄い義叔母だと感じていた。

「はっは、それでは、納得して頂けるのでしょうか?」

心配そうに喋る氏政。

「そない、心配することないで、公家に生まれた以上はそないこと覚悟の上や」

「叔母上様」

「チョイ待ち。今日から、御姉様や、新九郎はん」

春子姫は笑いながら、氏政を弄る。

「はっ、義姉上様」

「ええことや」

その後、新妻のことなどで散々春子姫にからかわれ続けた氏政であった。


弘治三年四月十五日


摂津 石山本願寺


本願寺に北条氏堯、氏政、三田康秀達が、永正年間(1504~1520)(三浦道寸との戦いで浄土真宗は三浦方に味方した為に国府津真樂寺は追放され、それ以来北條領では浄土真宗が禁止されていた)からの禁教体制にあった、浄土真宗との和解をするため、そして養女と成った三條春子姫と本願寺顯如との婚姻についての事を話し合いに来た。

本願寺では、王法為本おうほういほん(統治者を助ける事が仏法の道である)という教えが有ったため、過去の経緯を考えても北條家の訪問を不安視や敵視する者達は殆ど居なかった。何故なら、表面上和平を結んでいたにもかかわらず、三浦道寸が永正七年(1510)に先に小田原城を攻めたのが直接的な抗争の勃発になったからである。

またこの頃の本願寺では天文五年(1536)以降諸大名の諸大名の行う武力闘争や幕府の軍事行動に対しては原則として不介入の立場を堅持していた事、そして元管領と三好家との抗争に巻き込まれないためにも今回の北條家の提案は渡りに船といえたのである。

北條家一行は多数の供物を本願寺に寄進した。

本願寺では、供物の一部として送られた干椎茸の山に僧達が唸りを上げている。

元来椎茸は自然に生える物を採取することがこの時代の常識であり、精進料理に欠かせない食材として大変に高価な品であり。鎌倉時代に宋に留学した道元どうげんが地元の僧に干椎茸が無いかと無心されたほどであり、その当時から日本産の天然椎茸は殆どが、干椎茸として明へ輸出されていた程であり、後に豊臣秀吉の時代でさえ、珍しい食材として珍重されていたほどで、日本本土ではこの当時大変貴重な食材であった。

それを康秀がゼラチンでの菌糸の培養により椎茸の栽培に成功した結果、小田原では干椎茸を進物として大量に送ることが可能となって、各地の寺に対して相当な影響力を持ち始めていたのである。今回の都での活動でも各寺に干椎茸の進物が送られ、大変好評を得ていた。

本願寺の書院造りの客間に案内され、其処で本願寺十一世宗主顯如上人と対面した。

「上人様、北條左京大夫殿よりの御使者北條左衛門佐殿が参りました」

下間頼康しもつま らいこうが顯如に恭しく伝える。

「北條殿、私が本願寺宗主顯如です」

天文十二年(1543)生まれの顯如は、康秀と同じ十五歳で有りながら天文二十三年(1554)に十二歳で父 証如しょうにょの死により十一代目宗主を継いで既に四年目になっていた。

「北條左京大夫が四弟北條左衛門佐氏堯と申します。宗主様にはご機嫌麗しく」

「そう堅くならずとも、我らは北條殿と戦をするわけではありませんので」

「はっ」

「北條殿、他の方のお名前をお伺いして宜しいかな」

「さすれば」

氏堯の言葉に氏政と康秀がそれぞれに挨拶を行う。

「北條左京大夫が息、北條新九郎氏政と申します」

「北條左京大夫が婿、三田長四郎康秀と申します」

「皆お若い、氏政殿はお幾つですかな?」

「二十になりましてございます」

「なるほど、叔母の方が六歳も年下とは」

顯如もにこやかな顔で話をする。

「はっ」

「康秀殿、婿と言われるが、お若いようですがお幾つですかな?」

「はっ、天文十二年生まれの十五歳でございます」

その年を聞いて顯如が興味津々で話しかける。

「それはそれは、拙僧も天文十二年生まれの十五歳ですから、同年ですな」

「はっ」

「上人様、そろそろ、左京大夫殿からのお話を」

頼廉が世間話に興じてしまう顯如に釘を刺して正式な話に戻させる。

「そうでしたね。左衛門佐殿、あらかたの提案は聞き及んでおりますが左京大夫殿の存念は如何様な事でしょうか?」

顯如が真面目な表情になり氏堯に身を向け話しかける。

「左京大夫は先々代早雲庵宗瑞、先代春松院(氏綱)以来の真宗への弾圧を侘び、国府津真樂寺を始めとする、領土内の真宗寺院の再興をお約束致します」

その言葉に、その場に居た本願寺側の者達から厳が取れ始めた。

「左衛門佐殿、真樂寺を含む相模の真宗は三浦道寸に味方し追放された物、此ばかりは我らとしても仕方なき事と考えておりました故、お気になさらずに、我ら真宗として再興のお約束、真に嬉しきことです」

「はっ、宗主様のお言葉に泉下の早雲庵宗瑞、春松院も安堵するでございましょう」

顯如の言葉に氏堯は安堵した表情を見せる。

「上人様、更に左京大夫殿より上人様の婚姻のお話が」

「そうでしたね。左衛門佐殿、管領殿の猶子から左京大夫殿の養女となり私に嫁ぐと言うが、その存念はなんなのでしょう?」

「はっ、ここに控える新九郎は三條の姫様の姪婿にあたります。管領様が丹波へ逃走以来、姫様が捨て置かれて状態、あまりの無体に上洛した以上は親族として捨て置けずに、かって致しました」

「まあ、そうしておいた方が、お互いのためと言う訳ですね。筑前殿(三好長慶)も我らが管領殿と繋がる事を警戒している様ですからね」

「そうでございます」

顯如の言葉に頼康が頷く。

「しかし、左京大夫殿の娘婿になる訳ですから、氏政殿、康秀殿とは義兄弟の間柄となる訳ですね。頼もしき義兄弟ですね。今宵は話を色々聞きたい物です」

こうして、本願寺側と北條側の会談は平和理に終わり、その夜は本願寺で豪勢な晩餐を御馳走に成った。

「ほう、春子姫はそのような冗談が好きな方のですね」

「はい、散々妻のことで弄られまして」

「いやはや、面白き方のようで、安心致しました」

「下間頼廉と申します。三田殿は天竺の料理に詳しいとか?」

「三田康秀と申します。詳しいというか、天竺の人々の食する物を一部作れるだけにございます」

その話に、本願寺側は顯如を含め興味津々で聞く。

「康秀殿、どの様な料理ですかな?」

「カリーと申しまして、各種の漢方薬や香辛料を使った薬膳料理のような物です」

「ほう、やはり仏教発祥の地らしく薬膳料理を食しているのですね」

「聞くところに依りますと、毎日カリーを食しているとのこと」

「なるほど、是非食してみたい物ですね」

「宗主様、私が我が國風に直した物でしたら作ること可能ですが」

「なんと、それは是非、食してみたいですね」

そんな会話の結果、材料を堺から取り寄せ、翌々日四月十七日にカリーを康秀が作ることになった。


弘治三年四月十七日


■摂津 石山本願寺 庫裏(台所)


本願寺の広い庫裏では康秀が次々と漢方材料や香辛料を計ったり混ぜたりしているのを興味津々の顯如が見学している。

「その黄色い粉は何でしょうか?」

「此は漢方の秋鬱金あきうこんです」

「なるほど、間違えなく薬膳料理なのですね」

「そうなります。天竺では各家庭でそれぞれ独特の調合があるそうで、家ごとに味が変わるとの事です」

「なるほど、興味深いことです」

「今回は、私が幼き頃、旅の僧沢庵殿から頂いた本に基づいて試行錯誤の末、我々の口に合うようにした物でございます」

「それはそれは」

顯如はそれを聞き関心したのか頷く。

「秋鬱金、馬芹ばきん(クミン)、胡荽こすい(コリアンダー)、唐辛子、黒胡椒、大蒜ニンニク生姜しょうが丁子ちょうじ(グローブ)、桂皮ケイヒ(シナモン)、肉荳蔲ニクズク(ナツメグ)などを臼でひき程よく混ぜてた物が、天竺語でマサラという物です」

「なるほど、香ばしい匂いが漂いますね」

「それにしても、康秀殿は博識でございますね」

「いえいえ、探求心が深いだけにございます」

「探求心が深いことは良い事と思います」

顯如の言葉にその場に居た皆が頷く。

「ありがたく」

康秀が顯如に礼を言いながらも手は止めない。

「さて、人参、長葱、里芋、大根、鴨肉等を油で炒め水で煮込みます。程よく煮えたところで、マサラを混ぜて行きます。その際に溜醤油と味醂に、鰹節、昆布、干椎茸から取った出汁を混ぜ仕上げます」

康秀が手際よく作っていくと何とも美味しそうな匂いが漂ってくる。

「更に、飯にかける場合は、とろみを付けるために片栗粉を溶かし込みます。また饂飩の汁とする場合はこのまま丼に入れ、茹でた饂飩にかけます」

「おお、非常に食欲をそそる匂いですね」

完成したカレー丼とカレー饂飩の色を見て二十一歳の下間頼廉は一瞬躊躇したが、味見と毒味を兼ねている以上意を決して食べ始める。一口二口と食べる内に、どう見ても散々待たされた末にやっと来た食事をガッツク姿にしか見えなくなった。

「上人様、これは非常に美味でございます」

「このままだと頼廉が全て食べてしまいそうですね」

顯如が笑いながら、頼廉を弄る。

「上人様、其処まで意地汚くはございません」

「そうですね、では私達も頂きましょう」

そう言い、顯如達全員がカレー丼やカレー饂飩を食べ始める。

「確かに、美味です。頼廉が夢中になるのも判る気がしますね」

「色が、何とも言えませんが、この味というコクといい素晴らしい」

「天竺では毎日このような物を食しているとは」

「天竺の物とは少々違いますが、概ね近い物と言えます」

「うむ、此は是非、真宗にも取り入れたい物です」

「宗主様、詳しき作り方を伝授致します」

「なんと、ありがたい事です」

顯如も頼康も頼廉も康秀の答えを聞いて喜んでいた。

「その他の、料理も判る限りお伝え致します」

この後、氏政、康秀は顯如自身から義兄弟の契りを結ぶ事を提案され快諾した。その後本願寺と北條家の繋がりは非常に強くなる。また康秀の伝えた創作印度料理は本願寺で天竺料理として作られ続けるが、後々一向一揆と戦ったある勢力はカレーを食べる一向宗を見て『一向宗はク○を食う』と馬鹿にしたという。


第参拾漆話 其処の頃の小田原


弘治三年三月十七日


■相模國足柄下郡小田原城


康秀を夜這いした為に尼寺へ入れられる所であった、井伊次郎法師は、北條家側から康秀の側室として是非嫁いで欲しいとの連絡で、今川家からも許可を受け、髪を切ることもなく実家のある遠江井伊谷を旅立った。

途中駿府では今川義元に非公式で謁見したが、その際『女地頭にも春が来たか』と茶々を浴びて、『恥ずかしながら』と顔を赤くして答えた。小田原に到着すると早速、城へと招かれた。広間に通されると其処には当主北條氏康、長老北條幻庵が待っていた。

「今川治部大輔が臣、井伊直盛が娘、ゆうと申します。左京大夫様お初にお目にかかり恐悦至極に存じます。又この度はお呼び頂き、真に忝なく存じます」

丹田に力を込めた、次郎法師が本名を名乗り深く挨拶を行うが、自ら泥棒猫と思っているので重苦しい状態で有る。

「祐殿、遠き小田原まで大儀であった。北條左京大夫だ」

氏康が真面目に対応するが、相変わらず場の空気が重い。

「儂も海道一の女傑を見たくてな」

「幻庵老」

「ホッホッホ、冗談じゃ、冗談」

幻庵が冗談を言いながら場の空気を和らげる。

「して、祐殿、今回来て貰ったのは他でもない。長四郎にひかれたそなたなら判るであろうが、あれは未だ危うい、そなたの慈愛で包んで欲しいと思ってな」

「しかし、長四郎様には奥方様が……」

「ホッホッホ、それを知っていて、夜這いをかけたのでは無いのかな」

「あれは、つい酒の勢いと言いましょうか……」

幻庵の言葉に次郎法師は真っ赤になって手をモジモジさせる。

「祐殿、儂も人の親だ。我が娘妙は未だ未だ幼いが、姉の綾が上総介殿(今川氏真)に嫁いで以来、姉として奮闘している。更に康秀は遠き都よ、お主の様な姉が出来ればどれ程心強いか、既に妙には伝え、納得済みだ。康秀の側室として、そして妙の姉として仕えて欲しい」

氏康の誠意を込めた言葉に、次郎法師も腹を決め、見事なまでの挨拶を行う。

「左京大夫様、わたくし如きに、此程の温情、真にありがたく、誠心誠意お仕えいたします」

「祐殿、頼みますぞ」

「御意」

「さて、そろそろ良かろう」

幻庵がそう言うと、襖が開かれ、十代前半の姫が現れた。

「祐殿、私が三田長四郎康秀の妻、妙です。此から宜しくお願いしますね」

妙姫が、その朗らかな笑顔を祐に向け挨拶してくる。

祐にしてみれば、罵声を浴びる覚悟であったが、それが無く驚いている。

「井伊祐にございます。妙姫様にはお初にお目にかかり恐悦至極に存じます」

「祐殿、そんな堅くならないで下さい。康秀様の魅力を知れば、それはひかれますから」

妙姫は朗らかに喋りその場の空気が一気に軽くなり祐もやっと安堵した。

「はい、康秀様に救われました」

「でしょう。康秀様はお人好しですし困った方を捨てて置けませんから、都で何人の側室が出来るやら判りません。だから祐殿も気にしないことですよ~。それに近江では稚児を拾ったそうですし」

妙姫は朗らかで明るい顔立ちながら、時々毒を吐く。

それを見ながら、氏康と幻庵はたいした者よと妙姫の度量を賞めていた。

「さて、祐殿も疲れたであろう、続きは夕餉の時にでも致そう」

幻庵が幕引きを行い、顔見せが終わった。

その日から、妙姫と祐が二人で色々することが多く成ったが、極めつけは北條家の姫達に祐が武術を教えたことであろう。数か月後には薙刀を振り回す妙姫達とかが見られるようになったそうだ。

流石に妊娠が発覚した氏政夫人梅姫は参加しなかったが、お茶会などでは話を聞いて和気藹々としていたそうだが、妙も祐も康秀の功績については完全に隠し、康秀が夜這いされた話などしか話さず、康秀は甲斐から来た者達には完全に笑いものになっていた。


弘治三年三月十五日


武蔵國むさしのくに多東郡たとうぐん喜多見村きたみむら喜多見城きたみじょう


北條氏綱の娘婿で北條家から「蒔田殿まきたどの」と呼ばれ、後北条氏分国内に在りながら独自の印判状を用いることを許された世田谷城主せたがやじょうし吉良頼康きら よりやすの家臣でありながら、北條家にも仕えている、喜多見城主、喜多見きたみ摂津守せっつのかみ頼忠よりただは、北條氏康から直々の手紙を唸りながら読んでいたが、読み終わると、近習を呼んだ。

「官八郎、官八郎はいないか?」

「はっ、何用でございましょう?」

頼忠が呼ぶと未だ若い二十代前後の若侍が現れた。

「うむ、直ぐに猪方いのかた(狛江市猪方)へ向かい小川おがわ次郎左衛門じろうざえもんを連れて参れ」

「はっ」

話を聞くと直ぐに谷田部やたべ官八郎かんぱちろうは走っていった。喜多見と猪方の距離は僅か二里(1200m)(戦国期の一里=六町(648m))程であるので直ぐ行き来出来る距離である。

次郎左衛門が参上するまで、御本城様から直接の命令に色々考えている頼忠である。

彼の喜多見家は元々は坂東平氏に属し後三年の役で先陣を務めた名族秩父氏の支流の一族江戸氏であり、江戸えど太郎たろう重長しげなが源頼朝みなもとの よりともから武蔵の棟梁と呼ばれるほどに勢力を増していた。

しかし南北朝時代に武蔵守護、畠山国清はたけやま くにきよの命により新田義貞にった よしさだ次男、新田義興にった よしおき矢口渡やぐちのわたし(東京都大田区矢口か東京都稲城市矢野口)で味方をすると騙し船に乗せて船底に穴を開けて沈め謀殺するという事件を引き起こした為、『汚き者よ』と蔑まれ、次第に勢力を衰退させていった。

元々江戸城の地に館を築いていたが、衰退と共に江戸も明け渡した末、喜多見に移転していたのである。この時代は吉良家の家臣と北條家の家臣として二足のわらじを履く状態で有った。

あれこれ考えて居る間に半時ほどがたち、押っ取り刀で駆けつけた様な姿の小川次郎左衛門と官八郎が現れた。

「殿、小川殿を連れて参りました」

「官八郎御苦労」

「殿、いきなりの及び如何致しました?」

野良仕事中だったのであろう、顔、手足が若干泥で汚れた状態で次郎左衛門が質問してくる。

「すまんな、小田原の御本城様(氏康)から、手紙が来てな」

次郎左衛門はその話に怪訝そうな顔をする。末席とは言え宿老の地位にある次郎左衛門としては、殿が御本城様から手紙など貰った試しが無く、命令と言えば大概が本来の主君である吉良家との相談で決まることが普通だからであった。

「御本城様から手紙とはいったい何を?」

「うむ、何故か知らんが、お主を小田原へ参内させよとの事なのだ」

喜多見頼忠の話に、次郎左衛門は驚きを隠せない。

「私がですか?」

「うむ、お主を名指しで指定している。それと、何故か知らないが、小川家の系譜や感状などの文書類も持参するようにとの事だ」

「何故文章類を、いったい何があるのでしょうか?」

次郎左衛門の質問には頼忠も全く覚えが無いので答えられない。

「判らんな、しかし御本城様の命は守らねばならんから、早急に支度し小田原へ発ってくれ」

「判りました」

怪訝な表情で屋敷へ帰る次郎左衛門であった。


武蔵國むさしのくに多東郡たとうぐん猪方村いのかたむら


屋敷(屋敷と言っても農家に毛が生えた程度)へ帰ると、隠居した父と母、妻が出迎えた。三人ともいきなりの呼び出しに何かと思っている様で、一様に心配そうな顔をしている。

「お帰りなさいませ」

「うむ」

「次郎左衛門、どの様な仕儀であった?」

父の太郎左衛門たろうざえもんが難しい顔をしながら尋ねてくる。

「取りあえず屋敷に入ってからに致しましょう」

「そうじゃな」

屋敷に入り、畳などと言う高級品のない板の間で丸茣蓙に座り話し始める。

「私に御本城様から小田原へ出頭せよと命が下りました」

その話に太郎左衛門は驚く。

「御本城様というと、あの御本城様か」

「はい、北條左京大夫様です」

「なんで、そんな恐れ多いことが」

「私にも判らないのです」

「次郎、なにかしたのけ?」

「何もしてないです」

四人が皆、考えながら頭を働かせるが答えが出ない。

「取りあえず、支度をしないと」

「父上、御本城様からの命には、小川家の系譜や感状などの文書類も持参するようにとの事のございます」

「なんと、我が家の系譜を……」

考え込みはじめる太郎左衛門。

「全く見当が付きません」

「何故なんでしょうかね?」

皆が皆、判らないと言う表情で頭を抱える。

「次郎、考えて居ても仕方ない、小田原へ行くしかなかろう」

「では支度をしませんと」

「七枝頼むぞ」

「はい」

翌日早朝、小川次郎左衛門は支度を済ませ、主君頼忠の元へ向かい挨拶を行った。

「殿、行って参ります」

「うむ、息災にな」

「はっ」

喜多見からは二子へ抜け多摩川を渡り足柄道(現国道246)を厚木まで行き其処から相模川沿いに平塚まで行き、其処から東海道へ入り小田原へと向かう二日間の旅を終え十七日夕刻に到着し、そのまま小田原城へと向かい到着した旨を報告した結果、翌日早朝から北條左京大夫自らが謁見するとの事で、指定された宿で旅の疲れを癒すことになった。


弘治三年三月十八日


■足柄下郡 小田原城


翌日早朝小田原城へ登城した小川次郎左衛門は謁見の間ではなく、十畳程の小部屋へ通された。其処で待つこと四半時(三十分)もしない間に奥の襖から北條左京大夫らしき人物と六十代過ぎと思える老人が現れた。

「北條左京大夫である。遠路御苦労」

「北條駿河守(幻庵)じゃ」

「それがし、喜多見摂津守が家来、小川次郎左衛門直高でございます。御本城様、駿河守様に拝顔を賜り恐悦至極に存じまする」

カチカチで次郎左衛門が挨拶をする。

その姿を見ながら氏康が話を始める。

「さて、次郎左衛門、そちを呼んだのは他でもない、左衛門佐(氏堯)達が都へ行っているので、此方からの使いを頼みたい。梅姫にやや子が出来た故、新九郎に伝えねばならんし、家族からの手紙も届けて欲しい」

次郎左衛門は内心“エッ”と言う思いで氏康を見た。確かに嫡男の奥方妊娠は大切なことだが、態々何故自分を呼んだと思ったらであるが、此処は主君の主君の命は逆らわずに了承せねばと考えた。

「はっ」

疑問が生じている次郎左衛門に幻庵が話しかける。

「次郎左衛門」

「はっ」

「不思議そうな顔をしておるな。何故自分が呼ばれたか、それに拍子抜けの仕事じゃからな」

「いえ、滅相もございません」

「次郎左衛門、そちの家は元はと言えば武蔵七党むさししちとう西党にしとうと聞くが確かなことか?」

此処で家系の事が出たので次郎左衛門も驚くが、事実なので肯定する。

「はっ、初代、日奉武蔵守宗頼ひまつりむさしのかみ むねよりが武蔵国守として下向して以来西党として西、小川、平山、二宮、由井、立川、川口などの地に土着して来ましたが」

此処で次郎左衛門が口が重くなる。何故なら小川氏は鎌倉時代初期に和田義盛わだ よしもりの乱で和田側に付き、執権北條氏に敵対した末、族滅寸前までになり、所領を全て失い生き残りの少数が現在の地に逃げ込んで鎌倉時代は細々と暮らしていたからである。鎌倉北條氏の後身を標榜する小田原北條氏にしてみれば、小川氏は先祖に楯突いた謀反人の子孫にあたるわけで、それを咎められるのではと思ったからである。

次郎左衛門の態度を見て、氏康が安堵するように話しかける。

「次郎左衛門、昔のことは気にする事も無かろう。既に三百五十年も昔の話だ」

その言葉に、次郎左衛門も安堵した顔を見せる。

「お主の家は武皇嘯厚大禅門 《ぶこうしょうげんだいぜんもん》殿(源頼朝) に仕え宇治川の合戦や承久の乱で活躍したそうじゃな」

次郎左衛門は先祖の功績を語る幻庵に驚きを隠せない。

「はっ確かにその通りでございます」

「其処で、日奉流西党小川氏である次郎左衛門に都へ上がり左衛門佐の旗下に付いて貰いたい」

「日奉が都で通じましょうか?既に宗頼より六百年以上都へは帰っておりませんが?」

「疑問は有ろうが、そちで無ければならんと、左衛門佐からの催促が有ったのでな」

次郎左衛門もこう言われてしまえば、何が必要なのかさっぱり判らないが、行くしかないと腹を決めた。

「はっ、微力なれど力の限りを尽くす所存にございます」

それを聞くと徐に氏康は佇まいを只して喋る。

「うむ、頼んだぞ。使いをするに辺り、小川次郎左衛門直高を直臣とし旧領武蔵國多東郡猪方村を安堵、武蔵國多東郡大蔵村に新恩二十貫文を与える事とする」

次郎左衛門はあまりの厚遇に驚き頭を畳に擦りつけるようにお辞儀を行う。

「摂津守には伝えておく故、確りと勤めを果たすようにせよ」

「はっ」

こうして、武蔵の零細國人小川次郎左衛門直高は北條家直臣として取りたてられた。二日後の三月二十日に共に都へと向かう者達と共に小田原を発った。


第参拾捌話 損して得取れ


弘治三年(1557)四月二十日


摂津國せっつのくに和泉國いずみのくに さかい


堺はその名の通り摂津國と和泉國の堺に発展した商業都市である。その堺に本願寺訪問を終えた北條氏堯以下が到着した。その地には二日前に海路到着した、渡邉わたなべ孫八郎まごはちろう昌長まさなが、小川次郎左衛門直高達一行が待機していた。

「北條左衛門佐だ。遠路御苦労」

「北條新九郎氏政だ」

「北條新三郎綱重と申す」

「三田長四郎康秀と申します」

氏堯達の言葉に昌長以下の面々が頭を下げたあと挨拶を行う。

「それがし、渡邉孫八郎昌長でございます。左衛門佐様、御曹司様、久野様、三田様に拝顔を賜り恐悦至極に存じまする」

「それがし、小川次郎左衛門直高でございます。左衛門佐様、御曹司様、久野様、三田様に拝顔を賜り恐悦至極に存じまする」

元々の伊豆衆で北條家の直臣である昌長は知行百貫を喰むだけあり堂々とした挨拶だが、直臣となったばかりで未だ慣れない次郎左衛門は相変わらずの緊張したままの姿である。

「次郎左衛門そう堅くなるな。肩の力を抜くがよい」

「はっ」

そう言われても緊張の解けない次郎左衛門を見て、氏堯達は苦笑いする。

「そち達を呼んだのは他でもない、新三郎が是非にと名指ししたのでな」

「久野様がでございますか?」

皆を代表して昌長が質問してくる。

綱重が答えるが、実際は康秀からの受け売りである。

「遠路来て貰ったのは他でもない、此は他言無用だが、皆に西国へ使いに行って貰うつもりだ」

西国という声が出る。

「西国と申しますと、どちらへ行き、いったい何故でございますか?」

「明日、堺にて堺会合衆、博多年寄衆との会合が有る。その後、新三郎殿が正使となり、そち達は副使として博多衆と共に西国へ向かい各地の会合に参加して貰う」

「博多というと、九州でございますか?」

「その通りだ、此は北條家百年の計だ、苦労をかけると思うが宜しく頼む」

綱重が、頭を下げる為、昌長達は慌てる。

「久野様、お頭をお上げ下さい、主命とあらば何処へも向かうが武士でございます」

「と言う訳だ。詳しきことは中食の後にいたそう」

氏堯が休憩を入れ、落ち着かせるようにした。



中食で、島津忠貞親子が加わり広間へ集まると、今度は康秀が説明係として話し始める。

「渡邉殿は、先祖は摂津渡邉党の出身、小川殿は武蔵西党の出身で間違いございませんでしょうか?」

康秀の質問に二人が肯定する。

「「その通りにございます」」

「明日の会合で、博多商人神屋紹策かみや しょうさく本人、嶋井茂久しまい しげひさの使いが来ます。彼等は明、朝鮮、琉球、南蛮などとの貿易を手広く進めています」

貿易という言葉に、二人が自分達が何の役に立つのだろうかと言う顔をする。

「博多から、現在明は海禁をしています。大内氏が行っていた勘合貿易以外は皆密貿易として厳しく取り締まっているのですが、商人達は密貿易を行い、さらには倭寇と組んだりもしています。しかし成功すれば良いのですが、失敗すれば大損害です。

しかし世の中には抜け穴が有って、南蛮人は明の澳門という土地を手に入れ、明との貿易拠点としています。又、琉球は朝貢している関係で比較的楽に明の品が入ります。明や琉球へ行くには薩摩の坊津に寄港するのを常としているのですが、島津氏が琉球貿易の独占を狙っているのです。

永正十二年(1513)に備前の三宅みやけ和泉守いずみのかみ國秀くにひでなる者が十二隻の商船を持って琉球貿易をしようと坊津へ寄港した際、島津忠隆しまづ ただたかが國秀を殺害しているのです。

更に島津は烏滸がましい事に、琉球に対して、島津の印判のない貿易船を閉め出すように命じ、三宅を討ったは、三宅が琉球を侵略しようとしたからであると、嘘までついたのです」

康秀の話に、皆が驚きと共に、島津が欲深いと感じ、家督を奪われた島津忠貞の境遇を聞いていた全員がさも有らんと考えていた。

「しかし、三田様、それと我らがどう繋がりが?」

長々とした話で些か判らなく成っている昌直が質問する。

「現在、南蛮貿易は肥前平戸が主な湊です。その領主は松浦隆信まつら たかのぶ嵯峨源氏渡邉党二十五代目だそうです」

「なるほど、それがしも嵯峨源氏渡邉党出身でございますれば、同族の誼を使えと言うことですか?」

「正に、その通りだ。利用するようで悪いが協力してくれ」

昌長にしてみれば、系譜が役に立つのであればそれでよいかという譜代としての考えで快諾した。

「判りました。微力を尽くます」

「頼むぞ」

康秀は次いで次郎左衛門を見て話す。

「小川殿、小川殿のご先祖は吾妻鏡あづまかがみ(鎌倉幕府の公認歴史書)に載る程の勇者でございましたな」

次郎左衛門は、その言葉に驚きを隠せない。些細なことまで知っているとはと。

「はっ、武皇嘯厚大禅門様(源頼朝)の元へ参りまして以来、九郎判官くろうはんがん(源義経)蒲冠者かばのかじゃ様(源範頼)の旗下で壇ノ浦まで戦い続けました。承久の乱では佐々木左近衛将監と共に先陣を切りましてございます」

驚きながらも、先祖が賞められたことで気が良くなり、先祖の功績を一気に説明した。

「流石は、武蔵七党の西党ですね。宇治川合戦は血湧き肉躍りました」

「お褒め頂き恐悦至極に存じます」

「小川殿、承久の乱の恩賞で薩摩甑島地頭職を得て、分家が地頭として赴任していますね」

「はっ、確かに系譜には当時の当主太郎右衛門尉景直の従兄弟宮内右衛門尉季能の子息小太郎季直が甑島へ下向しております」

「その子孫が未だに甑島島主をしているそうです」

「真にございますか?」

康秀の言葉を聞き、次郎左衛門は、遠き地で未だに生き延びていたかと言う驚きと、よくぞ生き延びていたという喜びが沸き上がる。

「うむ、島津の干渉は受けてはいるが、それほどでは無いようだ」

「つまりそれがしも、渡邉殿と同じ様に、甑島との繋ぎですか?」

「正に、その通りだ。利用するようで悪いが協力してくれ」

次郎左衛門にしてみれば、陪臣の陪臣のあった自分を直臣として拾って下された御本城様のお役に立てるならと快諾した。

「微力を尽くます」

「頼むぞ」

その後は宴会なった。


弘治三年(1557)四月二十一日


摂津國せっつのくにさかい北庄経堂きたしょうきょうどう


北条氏堯の頼みにより、堺へ来ていた博多の豪商神屋紹策と嶋井茂久の代理で息子茂勝(嶋井宗室しまい そうしつ)が堺会合衆の中で津田宗達がこれぞと思った人物五名と共に会合衆の会合場所北庄経堂へ集まってきた。

「遠路遙々お越し頂きおおきに」

「こん度は、お呼び頂きありがとうやね」

堺衆と博多衆は貿易のライバル関係に有るが、商人はいつ何時何があるか判らないので表面上は穏やかに挨拶し合っている。

雑談が終わる頃、今回の会合を呼びかけた、天王寺屋の津田宗達が北條家一行を案内してきた。

「北條左京大夫が四弟、北條左衛門佐氏堯と申す。この度はお集まり頂き真に忝ない」

「北條左京大夫が嫡男、北條新九郎氏政と申す」

「北條新三郎綱重と申します」

この時代、武士と商人の間に江戸期のような厳格な境が無く、呼んだ以上は氏堯達も丁重に挨拶を行うのである。

北條家側と堺会合衆が、挨拶を行うと続いて博多衆が挨拶を行う。

「神屋紹策と申するとよ」

「嶋井茂久が息嶋井宗室と申するとよ」

博多弁で話す二人。

津田宗達が司会をする為に話し始める。

「さて皆さんに集まって頂いたのは、我等と日ノ本の損を無くすが為に北條様よりお話があると言う事でございます」

損とはなんじゃ?とかいう話し声が集まった堺と博多の商人七人から聞こえる。その騒がしさを遮るように、宗達が北條側に説明を求める。

「静かに、静かに、北條様ご説明をお願い致します」

話し始めるのは氏政で康秀ともう一人今回やって来た人物が説明係として補佐に付く、氏政は康秀が教えたことを言っているだけである。

「皆さん、何故、唐人や南蛮人が金銀以外に我が国の銅塊を欲しがるか知っておいででしょうか?」

拍子抜けの話に商人達が呆れている。

「そんなの、銅銭の材料にでもするからやろう?」

その答えに氏政がニヤリとする。

「違いますな」

「ならなんやね?」

「我が国の銅には製錬技術の未熟から銅の中に多量の金銀が含まれている状態なのです」

その言葉に多くの商人が驚く。

「なんやって、なら唐人や南蛮人はそれを精錬出来るって言う訳やな」

「そうなります。彼等は安い金額で銅塊を買い付け、其処から金銀を取り出し莫大な差益を得ているのです。だからこそ我が国へ次々に南蛮人や唐人が訪れるのです」

些か、違う点もあるが、銅塊に関しては正しい事である。

ざわめく、経堂。

「そなら、精錬技術があがらにゃ、丸損やないか」

「そやそや」

「皆さん、このまま捨て置けば、唐人と南蛮人にいいように富をもぎり取られてしまいます。其処で我が国でも精度の良い精錬を行おうと言う訳です」

その言葉に商人達が色めきだつ。

「北條様、北條様は精錬方法をご存じなのでっか?」

津田宗達が代表して聞く。

「無論、詳しくは此処に控える、大久保長安に説明させる」

大久保長安の名前に勘の良いものは気がつき期待に満ちた顔になる。

「大久保長門守長安と申します」

無論、彼は風魔者だが、康秀からの教育で確りと大久保長安という山師を演じている。

「神屋殿の祖父寿禎殿が石見銀山にて灰吹法を持って銀を作りましたが、それを応用する方法です。まず銅を鉛とともに溶かしてから徐々に冷却し、銅は固化するが鉛はまだ融解している温度に保ちます。すると銅は次第に結晶化して純度の高い固体となって上層に浮かび、金銀を溶かし込んだ鉛が下層に沈む事になります。この融解した状態の鉛を取り出して、あとは灰吹法にて金銀を取り出すわけです」

(此は南蛮吹と言い、天正十九年(1591)に、銅精錬商人蘇我理右衛門が泉州堺にて貴金属を多く含む粗銅の地金から金銀を取り出す応用法を南蛮人から伝授されたのが最初であるが、今回の伝授で実に三十年以上も前に実用化されることになり、日本の国富の海外流失を防ぐことになる。)

長安の説明に神屋紹策は元より堺衆も覆いの驚きそして、儲け話が着たと喜ぶが顔からあふれ出るが、田中與四郎(千利休)だけは、この様な大事を独占せず、いとも簡単に教える北條家の意図を考えていたが判らず質問する。

「北條様、何故この様な大事を我々にお教え下さるのでしょうか、通常であればそしらぬ顔で銅塊を集め其処から出る莫大な富を独占なさるのでは?」

與四郎の言葉に、氏堯がニヤリと笑う。

「そう思うか、であろうな。当家としては独占しても世の為にはならぬと考えた。それに全ての銅塊を北條家が集めることも出来まい、唐人や南蛮人が濡れ手に粟で利益をむしり取るのが許せぬと言えばよいかな」

人を食ったような返答の氏堯を見て、参加者達が苦笑いする。

「判りました」

場が和むと、口々に唐人と南蛮人の話が出る。

「しかし、唐人も南蛮人も阿漕な稼ぎをしていた物よ」

「ほんまや、もうだまされまへん」

ある程度したところで、康秀が製作したカレーが振る舞われ、皆が恐ろしくげに食したがあまりの旨さに皆が驚き、調理法を聞く場面も見られた。この後値段は高いが、カレーは本願寺だけではなく堺と博多でも食べられるようになる。

食事後に、北條氏堯からの商人達に幾つかの頼みが為された。

「皆にお願い致す。明や朝鮮より陶器、鉄作り、蚕育成、絹織物、木綿織物、漢方、馬の去勢術の職人を雇って連れて来て頂きたい。さらに南蛮馬、蒙古馬や豚などを繁殖用に大量に連れて来て頂きたい。なお動物は去勢されていない繁殖できる物をお願い致す」

商人達は大規模な話に驚くが面白いという商人魂に火が付いた。

「面白うございますな。神屋紹策お受けします」

神屋紹策の言葉に刺激され、儂も儂もと皆が協力を申し出てくれた。

「更に、お願い致す。聞くところに依ると九州では南蛮人が、我等の同胞を奴隷として海外へ売り飛ばしているとの事」

奴隷販売自体戦国期にはごく普通に行われていたので皆さほど驚かない。

「それがどうなさいましたか?」

「彼等はデウスとやらの教えを信じているらしいが、神の前では平等なる教義だそうだ。それなのに奴隷を作るとは以ての外と考え、北條家が資金を出す故、奴隷を買って関東へと送り届けて貰いたい」

デウスや南蛮人の話はよく判らないが、奴隷を北條領へ送ることに関しても快諾され得た。

「博多衆にお願い致す。筑後三池と言うところに燃える石が有るとの事、博多衆で掘りだし恒久的に関東へ送ってもらいたい」

此も、神屋紹策が責任を持って調査すると約束された。

それらの話の中で平戸へ行く際には、松浦氏と同族の渡邉孫八郎昌長が北條新三郎綱重の副使として向かい話し合うこと。琉球や明へ向かう際、島津の妨害を防ぐ為に坊津に代わる仮泊地に甑島を使う為の副使に小川次郎左衛門直高が行くことになり、都どころか更に遠く九州の海の先まで向かうはめになった。

最後に最大級の願いが為された。

「神屋殿は王直殿をご存じかと思うが」

王直は倭寇の元締めでこの頃平戸や五島列島を根城にしていた。

王直まで知っているとはと、流石の神屋紹策も驚きを隠せない。

「はい、昵懇にしておりますが、王直殿に何か?」

「風の噂だが、王直殿に明より使者が来たとのことだが」

其処まで知っているのかと更に驚く。

「はい、明の浙江巡撫せっこうじゅんぶ(浙江長官)胡宋憲こ そうけんより帰国すれば海禁を緩和し貿易を許すと使者が参ったようで、王直殿は乗り気だそうです」

その話を聞き、氏堯の顔に皺が寄る。

「神屋殿、それは恐らく明側の謀略よ、昔から唐は強大な敵対者に対しては謀略を持って排除するのが臆面もなく行われてきた。王直殿がのこのこ帰れば、捕らえられるがおち」

「なんと、どうすれば」

「其処で、我が殿より王直殿への手紙を届けて頂きたい。そして帰国の危険性を知らせて欲しい」

神屋紹策にしても王直は知り合いであり、商売相手でも有る為、北條家の手伝いをすることにした。

「判りました。微力を尽くしましょう」


第参拾玖話 雑賀衆


弘治三年四月二十八日


和泉國いずみのくに 堺南荘さかいみなみそう 開口神社境内あぐちじんじゃけいだい念仏寺ねんぶつじ


和泉國堺南荘で北條氏堯達が数人の男達と会談に及んでいた。

鈴木佐大夫すずき さだゆうと申します」

土橋平次つちばし へいじと申します」

佐竹源大夫さたけ げんだゆうと申します」

岡太郎おか たろうと申します」

「北條左衛門佐と申します。皆様、遠きところをよくおいで下さいました」

北條家が会談しているのは、紀伊國北部の土豪集団雑賀衆と根来衆の中で康秀が是非にと呼んだ人物達であった。各々二名の子を連れ控えさせている。

関東の大大名北條家との会談だと言うのに、四人とその子達は悠然としている。流石傭兵として名を売っている者達であると氏堯も関心していた。

「北條殿、我等を態々名指し為されたのはそれなりの理由があるのでしょうな」

鈴木佐大夫が不敵な顔をしながら問いかける。

それに答えるように、氏堯が話し出す。

「今回の件は、皆様が持つ鉄炮技術を北條家が学ぶ為に伝授をお願い致したく、日の本に名高き皆様をお呼びした次第です」

「なるほど、我等雑賀の者は銭により兵を貸し出してきましたが、今までの北條殿であれば例えどんなに銭を積まれましても、お断り致したところでしたが、上人様(本願寺顯如)との和睦、そして関東での真宗の布教許可で我等としてもお断りする理由が無くなりました。しかし、北條殿には以前岸和田流の炮術師が伝授を行っていたのでは?」

流石に鉄炮の事が詳しい雑賀衆であるから、鉄炮の流れもかなり気にしているようである。

「戦は刻一刻と進化致す物、既に七年経ちさほど改良も加えていない状態では時代の流れに対応出ません故、お願い致したく」

「なるほど、上人様のお手紙通りの御方のようですな。上人様が認めた以上は派遣も吝かではございません」

佐大夫の言葉に今まで黙っていた話を聞いていた土橋平次が話し始める。

「当家は、雑賀とはいえ、真宗だけではなく真言宗にも伝手がございます故、何の憂いもございません」

「当家も同じく」

「当家も」

佐竹源大夫、岡太郎も賛同の意志を見せる。

四家を代表する形で鈴木佐大夫が話を続ける。

「して北條殿は如何ほどの兵をご希望なのでしょうか?」

「うむ、各家より一名ずつを頭領とし、各々七十から八十名ほど、都合三百名をお願いしたい」

三百名という雑賀衆三千の一割にも及ぶ数に驚く雑賀の者達。

「北條殿、畿内ならいざ知らず、遙か彼方の坂東まで行けと言えば行く者もおりましょうが、あまり期待できない人数になりますぞ」

佐大夫の言葉に他の三人も頷く。

「集めるとして、残す家族が困らぬだけの物も必要なれば」

平次が暗にどの程度の実入りがあるのかを聞いてくる。

「その事だが、それぞれの頭領に支度金千貫文(一億円)その他の者に支度金百貫(千万円)を、更に北條家在籍中には頭領には五百貫文の所領を、その他の者には五十貫文の所領を与える事を確約致しましょう」

その金額に更に驚く雑賀の者達。

「それは真でございましょうか?」

いつの間にやら、佐大夫の喋り方が丁寧になっていた。

「当家は家祖早雲より根無し草故、嘘は言えませんから」

氏堯が祖父早雲の事を例に挙げる。

「ハハハハ、此は参りましたな」

氏堯の自傷気味の話に佐大夫も平次も笑いはじめる。

「全くよ。そうまで言われるからには間違えはあるまい」

平之丞の言葉に佐竹源大夫、岡太郎も頷く。

「北條様のお話は素晴らしいのですが、昨今の畠山殿や三好殿との問題が有る為に我等は國に残らなければなりません」

「さすれば、東国へ行くにあたり、誰を行かせるかですな」

「技量の問題もあります故」

佐大夫や平次にしてみれば、自ら行けば大口の顧客である以上、実入りが良いのは判っているのであるが、如何せん先年弘治二年(1556)には根来の泉識坊と杉之坊が抗争、今年初めには雑賀の中之島で戦闘が起こったばかりであり、畠山氏や三好氏達の抗争も有り、留守にするわけに行かず、かといって他家の者を行かせて、みすみす千貫文を棒に振るのも惜しい思いがしていた。

佐大夫達がそう考えている中、氏政が話しかける。

「北條新九郎と申します。皆様、宜しゅうございますか?」

「何か妙案でもございますか?」

「妙案という程でもございませんが、聞けば、鈴木殿、土橋殿、佐竹殿、岡殿のお子等は幼少の砌より鉄砲に慣れ親しみ腕前も素晴らしいとのことでは有りませんか、しかも鈴木殿の御三男と佐竹殿の御次男は雑賀の中之島の戦いで活躍為さったとか、皆様のお子等では駄目でしょうか?」

佐大夫や平次達にしても次男以降の子等を坂東へ向かわせることも考えはしたが、自分からすれば未だ未だ未熟な息子達を出して不評を買うことを考えて、自ら言えなかった事を氏政が言ってくれたのであるから内心では喜んでいたが、傭兵業の信頼の為には自分達から数段落ちると伝えなければと考えた。

「北條様のお話は嬉しきことですが、息子達は未だ未だ未熟にございます。北條様のご期待に添えるとは思えないのですが」

鈴木佐大夫の話を聞き後に控えていた、三男の重秀しげひでが鉄炮には自信も実績もあるから行かせろと言うニアンスで話す。

「親父、それはないぜ、平太(土橋守重つちばし もりしげ(土橋平次重隆長男))平尉(土橋重治つちばし しげはる(土橋平次重隆次男))と違い俺と源左(佐竹義昌さたけ よしまさ(佐竹源大夫允昌次男))は北條様の言う通りに何度も手柄を立てているんだぜ。中之島の戦じゃ源左の危ないところを助けたしな」

「孫六、嘘を言うな、お前が危ないところを俺が助けたんだろうが」

重秀の嘘に佐竹義昌が抗議する。

「まて、鈴木の小僧(重秀)、俺達が活躍していないとは馬鹿にするな、貴様が小手先の遊びをしている中で、俺達は指揮していたんだからな」

重秀の大言雑言を巫山戯るなと土橋守重が睨み付ける。この二人相当仲が悪いようである。史実を知り、端から見ている康秀にしてみれば、こういう言う事が高じて、後に重秀が守重を謀殺したんだなと考えていた。

「お前達、いい加減にせんか、北條様の御前だぞ!」

「北條様、見ての通りの未熟者でございます故、ご無礼は平にご容赦を」

左大夫、平次、源大夫が頭を下げる。

「いやいや、元気があって良い事です。それに此だけの勢いがあれば、坂東でも活躍して貰えましょう」

氏堯の言葉に重秀が自信満々に答える。

「北條様、俺や源左が行けば千人力だぜ」

「北條様、申し訳ございません。阿呆に付ける薬はないと申します故」

それまで黙っていた岡太郎次郎おか たろうじろう岡吉正おか よしまさ(岡太郎長男)が苦笑いしながら話す。

「何を言う、太郎次郎、お前など友垣もいないで、一日中鉄砲稽古ばかりの稽古阿呆ではないか」

「賞め言葉と思っておく」

重秀の言葉を軽く流して、吉正が真面目な顔で氏堯に話す。

「北條様、私は嫡男でございますが、是非とも坂東にて鉄砲の粋を見せたく存じます」

「岡殿、御嫡男はこう申しているが如何ですかな?」

氏堯の質問に岡太郎が答える。

「はい、太郎次郎は一度決めたら親の言う事など聞きませぬ。北條様のご迷惑にならなければ、お連れ頂きたく」

「うむ、岡太郎次郎、禄五百貫と千貫文を約束致す」

「はっ」

最初に決まったのは意外にも岡吉正であった。

「北條様、太郎次郎だけでは不安ですから、我等もお願い致します」

吉正が先に仕えることが決まり、焦った重秀が真面目な顔で懇願する。

「鈴木殿、佐竹殿、お子等の坂東行き許して頂けますかな」

ここまで行けば、左大夫も平次も嫌とは言わずに是と答える。

「はっ、北條様のお役に立つようにお使い下さい」

「判り申した。では、鈴木孫六、佐竹源左、禄五百貫と千貫文を約束致す」

「任せてくれ」

「はっ、お任せ下さい」

こうなると、土橋家も出さざるを得なくなるが、孫六と仲の悪い嫡男守重は無理であるから些か技量の落ちる次男の重治を出す事に決めた。

「北條様、当家は次男の平尉重治をお仕えさせたく」

「土橋平次が息、平尉重治にございます」

平太に比べて冷静そうな次男が挨拶をした。

「判り申した。土橋平尉重治、禄五百貫と千貫文を約束致す」

「はっ」

このやりとりの中、他の雑賀根来の者達は冷や冷やしながら、兄弟達の言動を聞いていたので無事に済んでホッとしていた。そんな中、氏堯が左大夫に話しかける。

「左大夫殿、我が北條領には鍛冶はいますが、残念な事に鉄炮鍛冶がおりません。今は堺などから買い集めてはおりますが、坂東の田舎と思われているのか、一度撃つと壊れるような不良品が多く含まれており、大変困っております。又堺より一々買い求めていたのではいざという時に間に合いません故、腕の良い鉄炮鍛冶を雇いたいのですがご協力お願いできませんでしょうか?」

不良品を売りつけられたと言う話に、鉄炮をこよなく愛し使いこなしている岡吉正などは「許せぬ話だ」と言い始める始末。鉄炮撃ちにしてみれば、鉄炮の故障が速自分や仲間の死に直結するだけに、胡乱な鉄炮など使えないと言う感覚から、鉄炮鍛冶派遣にも積極的となった。

「判り申す。不良品の鉄炮ほど、厄介な物はございません。我等の伝手で優秀な鉄炮鍛冶を紹介致しましょう」

「忝ない。鉄炮鍛冶達には、それぞれ支度金五百貫と二百五十貫の禄を与えましょう」

「何と破格な。そんなに出されたら、雑賀根来はおろか、畿内中の鉄炮鍛冶が移住してしまいますぞ」

左大夫や平次の話はあながち誇張ではない。鉄炮鍛冶の禄について天正七年(1579)信長の家臣の鉄炮屋与四郎は百石扶持、天正二年(1574)羽柴秀吉は近江國友村の國友藤兵衛に百石扶持、慶長三年(1598)頃の上杉家では和泉松右衛門に二百石扶持を与えていたのであるから、この時代なら二百五十貫(千石)は破格であった。

その後、最近の北條家では恒例となっている康秀監修の料理で持てなされた雑賀根来の面々は本願寺へお参りに行った。

雑賀根来でも腕前の確かな四名が北條家に来ることになり、康秀がニヤニヤすることになる。

鈴木左大夫達が帰った後、康秀の台本通りに狙う人物を手に入れた氏堯、氏政と康秀が話す。

「思惑通りに四名の招致が出来たわけだな」

「ええ、此で当家の軍政改革が一気に進みますよ」

「雑賀衆に自作鉄砲か、しかし考えた物だ」

「大量の扶持をこんな方法で手に入れるとは中々考えられんぞ」

氏堯と氏政が呆れたように康秀と話す。

「まあ、どうせ上杉憲政の旧領へ移動した者達の旧領ですから禄として与えても我々には何の痛みも無い訳で、しかも換金作物増産の為に余剰が出来てますから、新知二万貫ぐらい楽に出せますから」

「確かに、それで雑賀衆三百を雇えるなら安いと言えるのか?」

氏堯も些か高い気がしているが、費用効果を考えれば有益な戦力と言えた。

「まあ、此から益々忙しくなりますから、覚悟を決めて下さい」

康秀の話に、氏政が「堪らんな」とぼやいていた。



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