I WANNA BE YOUR MAN
機材の片付けをしていると
「お疲れさま~」
と客の流れを縫うように戻ってきたマスターの後ろを、小さな城沢がついてきた。
『かわいい……!』
ちょこまかとついていく姿が、まるでカルガモの親子のようだ。 顔に少し疲れた色を浮かべた城沢は、俺たちの顔を順番に見ながら
「お疲れさまでした!」
と懸命に笑顔を見せた。 立木が明るく返したのに対して、俺はまたしても視線を合わせられずに
「お疲れ」
としか言葉を出せなかった。 すぐにマスターは城沢を呼んで、奥の方へ誘導した。
きっとトイレ掃除をさせる気だな。 新人が必ず通る道だ。 この前までは立木弟がやっていたトイレ掃除。 マスターに渡された掃除用具を手にしたまま呆然としている城沢に、立木弟がなにやら話し掛けている。
「影さん、そろそろ椅子とテーブル、戻しましょうか」
立木兄に声をかけられて、俺は我に返った。 二人で店内の椅子とテーブルを所定の位置に戻し、布きんでカウンターを拭き終わると、ステージには白いスクリーンが下ろされ、店内はいつもの静かな風景を取り戻した。 いつの間にか城沢もトイレ掃除から戻ってきていた。 それに気付いた途端に、動作が固くなる俺。
その時、さっきステージに立ったバンドマンたちが楽屋から荷物をまとめで出てくると、俺たちが居るカウンターの前に並んだ。 そして深々とお辞儀をした。
「今日は、ありがとうございました!」
マスターの
「こちらこそ。 また、よろしくお願いします」
という言葉に、再び深々とお辞儀をして帰っていった。 本当に近年まれに見る礼儀の正しい姿だ。 これが他のバンドマンたちにも、普通に見られると一番良いのだが。
それから、俺はいつもと同じテーブル席に座り、立木兄が右隣に、マスターが俺の前に座った。 いつも立木兄の前には弟の隼人が座るのだが、彼は一丁前に城沢に席を譲り、自分はカウンターから椅子を引きずって、テーブルの端に席を作った。
「疲れた?」
マスターが城沢に話し掛けた。 城沢は
「少し……でも大丈夫です」
と笑顔を返したが、そこには明らかに疲労が浮かんでいた。 無理も無い。 あんなに大勢の人を相手にして、しかも初めての仕事だ。
「ま、すぐに慣れるよ!」
隼人はそう励ましながら、興味深そうに城沢の顔を見つめていた。
「ありがとうございます」
城沢もホッとした顔で頷いた。
仕事が終わると、それぞれに好きな飲み物を飲んで良いことになっている。 俺はいつも缶コーヒー。 皆もオレンジジュースやミネラルウォーターなどを好き好きに飲みながら、やっと煙草を吹かせる時間だ。
そんなホッとする時間のはずなのに、俺は内心、もの凄い緊張に襲われていた。 なにしろ、俺の斜め前には城沢が座っているのだ。 落ち着けるわけがない。 俺の目の前で、隼人に色々と質問される城沢。 俺は気の無いふりをしながら、耳はダンボのように敏感に立っていた。
『二十二歳で、この近くに住んでいるのか。 今日は自転車で来たのか……』
ふと気付くと、俺の前に座るマスターが、唇の端を俺だけに分かるように上げてこっちを見ていた。 こいつは、相当面白がってるな……。 俺の胸の中に不安な影が漂い始めた。
頃合を見計らって、マスターが席を立った。 そしてカウンターの奥でなにやらゴソゴソして戻ってきた。
「はい、今日のギャラね」
マスターはいつもその日払いをしてくれる。 現金で手渡され、俺はそれを丁寧に受け取ると懐にしまった。 城沢はわざわざ席を立つと両手でそれを受け取り、
「ありがとうございます! わぁ! なんか現金だと緊張する」
と喜んでいた。 そして目を丸くして、手渡された今日の稼ぎを、瞳を輝かせてしげしげと眺めていた。 こんな体験は初めてなのだろう。
やがて立木兄弟が帰り、店内はマスターと城沢と俺の三人だけになった。
『気まずい』
そう思っているのは、俺だけなのか?
マスターはバー:セブンスヘブンの開店準備に取り掛かっている。 服をいつもの白いカッターシャツに黒のベスト、ズボンに着替え、腕には袖留めをはめている。
「何も無いの?」
城沢がいきなり話し始めた。 マスターはきょとんとして
「何もって?」
と返すと、城沢は首を傾げて
「反省会とか、無いのかなぁって」
「反省会かぁ……」
その今思い立ったような返しに、城沢は拍子抜けしたように眉をピクリと動かした。。
「あのバンドはどうだったとか、今日の照明はとか、無いの?」
「う~ん……」
マスターは答えを煽るように俺を見た。 俺は思わず鼻で笑った。 面白い質問だと思いながら
「あまり気を入れてないからね」
と答えた。
「えっ?」
驚いてマスターを見た城沢に、彼は困ったような顔をした。
「そう言われると誤解されるじゃないですか……ライブの営業はあくまで『仕事』としてやっていますけど、ステージに上がりたい子達はまだ無名で、芽が出るか出ないかわからない。 そんな素人の集まりなので、照明や音響なんかに何かを求めるほど経験や知識はないんですよ。 だから僕らは、自分たちのやりたいようにやらせてもらってるだけなんで、特に反省会をする必要もないんです」
「へえ~……自由なのねえ……」
「それとは違うから!」
マスターは手を振って否定した。 城沢音香……天然なのか? ますます興味が沸いてきた。 一体どんな子なのか。 だが俺にそれを紐解く勇気は無い。
城沢はそれからしばらくマスターと話していたが、扉のベルを設置して
カランカランカラン……
という音が響くと、おもむろに自分の小さな鞄を持って席を立った。
「帰るの?」
尋ねたマスターに頷いて
「また呑みに来ます」
と微笑んだ。 マスターは
「はい、お待ちしています。 今日はありがとう、お疲れさま」
頷いて笑顔を送った。
俺にも頭を下げて帰っていく城沢に
「お疲れ様」
と言い、その後ろ姿を見送った。
「いいの?」
マスターの試すような言葉に、俺は反射的に席を立った。
「俺も帰るわ!」
そう言って、城沢の後を追うように店を出た。
外は真っ暗だった。 窓ひとつ無い店内にいると、外の様子は全く分からない。 雷が鳴っていても聞こえないし、台風が暴れまわっていても気付かないほどだ。 それほどセブンスヘブンの防音設備は整えられている。 そうでないと、こんな住宅街にライブハウスなど営業出来ない。
城沢は店の裏手に自転車を停めていた。 鍵を解いている姿を見ながら、俺は息を吸い込んだ。
「お疲れ様」
あまり大きな声を出したつもりは無かったが、その声に驚いたように顔を上げた城沢は、それでも笑顔を見せてくれた。
「えっと、影待……さん……お疲れさまでした~!」
なんと! 名前を覚えてくれたのか! それだけで、なんだか充分な気がした。 それ以上顔を合わせられなくて、
「気を付けて」
と言いながら車に乗り込むと、早々に走りだしてしまった。 視界の隅、バックミラーに映る、城沢のあっけにとられた顔が見えた。 たった一言交わしただけなのに、俺の心は満足感で満たされていた。
家に着き部屋に入ると、崩れるように床に伏せて長い息を吐いた。 少しだけ落ち着くと、落胆を覚えた。 もっと話したい。 そう思うが、目が合った瞬間に、頭は真っ白だった。
今日の収穫は、城沢が二十二歳だということと、セブンスヘブンまで歩いてこれる距離のところにあるマンションに家族と住んでいるということ。 車は避けてくれとマスターに言われて、ちゃんと自転車でやってくるあたり、とても律儀な性格なのかもしれない。
「はあぁ~~……」
俺は、また長いため息を吐いた。
自分のことはどう思われただろう? 一言だけ残して走り去った俺を、冷たい奴だと思ったに違いない。 笑顔のひとつも残せなかった。 次のバイトにも来てくれるだろうか? また会える日が来るのだろうか?
悩み続けて、ついに朝を迎えてしまった。
それから一ヵ月半後、再びライブの仕事が入ると、城沢も姿を現した。 完全にスタッフとして頑張るのだという。 俺は静かに心躍らせた。 月に一度入れば良いライブの仕事ではあるが、城沢と会えるのであれば、それだけでもう贅沢は言えなかった。
ただ、いつまで経っても彼女との距離が縮まることはなく、目の前で立木兄弟やマスターと楽しそうに話す城沢の笑顔を静かに見つめる日々が続いた。
その日が終わると、俺の頭の中にはその日見せた城沢の笑顔が生まれては消え、回り、幻想に襲われる。 たいして会話もしていないから、そのストレスもあいまって、俺は完全に妄想に耽る危ない男と化していた。