第三十一章『鳳凰于飛(二)』
扇の背から現れたのは花のかんばせではなく、鋭い牙を剥き出しにした獣の顔であった。
「ようやく正体を現したな、雌豹が……!」
嫌悪するように檮杌が口を開いたが、西王母は耳を貸さず凰華へ眼を向けた。
「凰華や、もそっと退がっておれ」
「え……」
その声は先ほどまでの冷酷さは感じられない代わりに、まるで娘を心配する母のような温かさが込められていた。
凰華は西王母の事がますます分からなくなった。
拓飛を利用して饕餮の討伐を目論んだかと思えば、今のように優しい言葉を掛けてくれる。それに、交流試合の時の笑顔まで嘘だったとは思いたくはない。
凰華が素直に壁際まで退がると、西王母の身体から薄紅色の霧が吹き出し、瞬く間に掌門の間を覆い尽くした。
「フン……、桃氣か」
「永遠の眠りに落ちるがよい……!」
吐き捨てた檮杌に向かって西王母が扇を振るうと、桃氣が意思を持ったようにその身体を包み込んだ。
しかし檮杌はニヤリと牙を見せると、口をすぼめて身体を覆う桃氣を吸い込んでしまった。
「……まっじい綿飴だなあ、オイ」
檮杌はこれ見よがしに薄紅色の煙を吐き出した。
「月娥ぁ……、このガキに何度も桃氣を吸わせたのは悪手だったなあ。おかげで、おめえの術に対する耐性が出来ちまったようだぜ……!」
「…………」
西王母は無言で扇を振るった。再び桃氣が檮杌の身体を覆い尽くそうと蠢き出す。
「ヘッ、何度やっても————」
緩やかに檮杌に向かっていた桃氣は直前で槍に変形するや、猛烈な勢いで突き出された。
すんでのところで辛くもこれを外した檮杌だったが、今度はその背後から刀が斬り掛かって来る。
「チッ!」
檮杌は振り向いて刀を受け流したが、次は左右から剣が同時に首と脚を薙ぎにかかる。軽く背後へ跳躍して躱すと、頭上から斧が振り下ろされる。身体をひねって逃れたところには、待ち構えたように小刀が雨あられのように降り注いで来た。
四方八方から縦横無尽に、様々な兵器が絶え間なく襲い来る。しかも元が実体の無い氣なだけに、いくら破壊しても瞬時に形を変えて再び向かって来るでは始末に負えない。
更に、さほど広くはない掌門の間は西王母の桃氣によって覆い尽くされており、逃げようにも逃げ場など何処にも存在しない。やがて檮杌は兵器を躱すだけで手一杯になった。
必死に攻撃を躱す檮杌を、西王母は眼を細めて眺めていた。
「ホホ、愚かよの。ノコノコと妾の宮殿に乗り込んで来るとはのう。そなたはもう、妾の腹の中におるようなものじゃ……!」
愉悦を含んだ声で西王母がつぶやいた時、幾つもの兵器が檮杌の身体を貫いた。意識を檮杌に乗っ取られているとはいえ、その肉体は拓飛のものである。愛する男の身体が傷つけられる様など直視できず、凰華は思わず眼を逸らした。
動きの止まった檮杌に西王母が語り掛けた。
「どうじゃ檮杌よ、大人しく討たれるならば苦しませずに————」
「……つまらねえ…………」
「何……?」
訊き返した西王母に、檮杌がギラリと赤眼を向けた。
「つまらねえってんだよ。遠間からちょこちょこ針でブッ刺したところで、俺にしたら蚊が刺したようなモンだ」
檮杌はペッと口中の血を吐き出すと、両腕を身体の前で交差させた。
「————いかんッ! 伏せよ、凰華‼︎」
次の瞬間、眩い光に眼がくらんだ凰華は何かが身体を抱きかかえるのを感じた。
————どのくらい時間が経っただろうか、ゆっくりと眼を開けた凰華は絶句した。
「————なに、これ……!」
薄紅色の氣に包まれていた広間は消え去り、それどころか宮殿そのものが跡形もなく瓦解していた。
一体なにが起こったのか理解できず呆気に取られていた凰華の耳に、ボタボタと水が落ちる音が聞こえてきた。音のする方へ顔を向けた凰華は再び絶句した。
「無事かえ、凰華……」
「————‼︎」
西王母の身体が宙に浮き、裳裾から流れ落ちる夥しい鮮血が地面に大きな血溜まりを作っていた。
「そ、そんな……西王母さま……!」
「騒ぐでない、かすり傷じゃ……」
「でも、でも……脚が……‼︎」
西王母は振り返って、涙を浮かべる凰華の頭を優しく撫でた。
「妾のために泣いてくれるか。良い子じゃ……」
泣きじゃくる幼子をあやす母親のような眼に再び殺気が宿ると同時に、前方から凶々しい声が聞こえてきた。
「……悪いなあ、月娥。なかなか力加減が難しくてよお」
薄紅色の霧が晴れ、姿を現したのは紛れもなく檮杌である。
「ホホ、饕餮の力は吸収せなんだはずじゃが、随分と逞しゅうなったようじゃのう、檮杌や?」
様子を探るように西王母が問い掛けると、檮杌は自らの胸を叩いた。
「こいつぁ最高だぜ! このガキの鍛え上げられた肉体と、強さへの飽くなき渇望が俺の魂と混ざり合って、かつてねえほど滾ってやがる‼︎」
檮杌の赤眼はより一層輝きを増し、その声は歓喜と興奮で震えていた。
「……やれやれ、成虎よ。そなたの育てた虎子を仕留めるには、脚が何本あろうとも足りそうにないぞえ……!」
ひとりごちる西王母の頬に冷や汗が流れ落ちた。




