【第20話】砕かれた薔薇
【重要な注意】
この話には、集団いじめ、精神的崩壊の描写が含まれます。
特に精神的負担が大きい内容ですので、苦手な方は読み飛ばすことをお勧めします。
『どうも思ってない』
予想通りだ。ああ、そうだろうな。分かっていた。最初から、そんなことは――
だが。
ふと、紙の下の方に、何か違和感を覚えた。視線を落とす。
そこにあったのは――
いや、『あった』のではない。『あったはずのもの』が、無残に破壊されていた。
伝説の薔薇。
僕が、命がけで崖を登り手に入れた、あの薔薇。
挿し木から丁寧に育て、最も美しい一輪を選び、そっと、そっと押し花にした、あの薔薇。
それが。
ぐちゃぐちゃだった。
まるで、靴底で、故意に何度も何度も、ねじり潰されたかのように。
花びらは原型を留めず、金色の縁取りは泥のように黒ずみ、茎の数々の亀裂は、僕の心の傷を映しているようだった。
ゴミだ。ゴミとして、返されてきた。
僕の、全てが。
その瞬間、心の奥底から、どうしようもないほどの深い悲しみが、とめどなく溢れ出した。
まるで、僕の最も大切な、最後の何かが、音を立てて砕け散り、そして汚物のように踏みにじられたようだった。
◇ ◇ ◇
次の授業は、今日、卒業を迎える僕たちが、魔狼を倒し、後輩たちに今までの経験の成果を見せるという、重要なものだった。
だが、そんなことはもう、どうでもよかった。
頭が真っ白になり、何も考えられない。
ただ、その場に自分の足で辿り着くことだけで、僕は精一杯だった。
そして、なぜか、頭が真っ白になった僕が、この試練の最初に選ばれてしまった。
「では、魔狼との戦いを始める」
オベロン先生の声が聞こえた。
全勇者学校の学生が見守る中、僕は未だに、あのぐしゃぐしゃになった伝説の薔薇が脳裏に焼き付いて離れず、ただただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
魔狼からの鋭い爪の連撃が次々と襲いかかる。爪が迫る。
僕の腕が上がる。短剣が、何かを受け止めた気がする。
ガキン、という音。
しかし、それが何の音なのか、理解できなかった。
次の攻撃。体が動く。しかし、方向がめちゃくちゃだ。
左から来る爪を、右に避けようとする。間に合わない。
肩が裂ける。
また何かが起きた。僕は動いている。短剣を振っている。
体は次々と打ちのめされ、皮膚が裂ける鈍い音が響く。だが、不思議と痛みはなかった。なぜなら、心の絶望が、肉体の感覚全てを麻痺させていたからだ。
これまでの人生で味わった、父と母を失った悲しみ、聖騎士団候補とバレてからの陰湿ないじめ、ユラを殺された時の底知れない怒りや憎しみ、ロニアの裏切り。
それら全ての負の感情が、今、僕の精神を激しく押し潰していく。
そして、その頂点にあったのは、好きで、好きで仕方がなかったミラサへの、どうしようもない憎悪だった。
(好きな人を嫌いになることなんてありえない。愛が憎しみに変わるなんて、ありえない)
僕は、ずっとそう思っていたはずなのに。
だが、その信念は、この瞬間、音を立てて崩れ去った。
「好き」が「嫌い」に変わる。
もう、どうでもよかった。
こんな理不尽な世界も、僕を苦しめる全ての人々も、皆消え去ればいい。
そう、心の底から願った。
僕は、これまでの人生で味わった全ての苦痛を、その場で嘔吐するかのように、全学年生徒の目の前で、喉を裂くような大声で泣き叫び、目からはとめどなく涙が溢れ流れた。
その時、顔の周りを小さな虫が飛び回っていることに気づいた。
涙で濡れた顔に、虫が寄ってくる。
僕は、もう抵抗する気力もなく、ただ虚ろな目で虫を見つめた。
「何をやっている! 戦え!」
オベロン先生の声が、響いた。
「たかが魔狼ごときに、何泣いている!! 見損なったぞ! 中止だ、中止! 俺に恥をかかせるなっ!!」
「うわ、マジ引くんだけど。何、あの先輩……超~気持ち悪いんだけど……」
「やっぱりな。チビだから弱いんじゃね?」
「情けない男ね。魔狼相手に、あれでも今日、卒業できるの?……本当に信じられないわ」
「ねぇ、見て! あんな男もいるのね……ああいう弱い男に騙されないようにしないと。むしろいい反面教師ね」
この隙を逃すまいと、バルストの憎たらしい声が響き渡った。
「ほら見ろ! ひっひっひ、この役立たずの恥さらしが!」
「責任取ってよ! どうしてくれるのよ! この最悪の空気!」
「本当に辞めてよね! こっちが恥ずかしいわ!」
「責任をとれ!」
「で・て・け! で・て・け! で・て・け!」
周囲から、声が上がり始めた。
「出てけ! 出てけ! 出てけ! 出てけ! 出てけ! 出てけ!」
俺の心は、音を立てて砕け散っていた。
俺の精神は、もう限界だった。
この沸き立つ憎悪と、全てを支配する虚無感こそが、俺がこの数年間味わってきた地獄を生き抜く、唯一の糧だった。
バスティオは、俺の異様な雰囲気に気づいたのか、いつもならすぐに声をかけてくるはずなのに、口を開きかけたまま、俺の目に宿る深い憎悪に怯むように、言葉を飲み込んでいるように見えた。
◇ ◇ ◇
卒業式が終わり家に帰った後、俺は鏡を見ながら自分自身に問いかけた。
俺以外の人間は、皆、敵だ。
この腐った世界で、愛も友情も、全ては虚像だ。
バスティオだってそうだ。なぜ、あいつだけが常に優しかった?
いつも俺を心配しているように見せかけて、その実、きっと裏では、俺がどこまで堕ちるかを心待ちにしているに違いない。
いつか、俺を裏切る隙を、ずっと狙っているに違いない。
リフィエもそうだ。
伝説の薔薇……あの花言葉を教え、俺にミラサへの告白を焚きつけ、この屈辱にまみれる様を、裏でミラサと嗤っていたに違いない。
あのぐしゃぐしゃになった薔薇の押し花の光景が、再び脳裏を焼き尽くす。
この世は、俺以外の全てが敵だ。
敵だ。敵だ。敵だっ……!!
俺は荒い息を整え、壊れた心の中で、これからどうするかを真剣に考え始めた。
魔神を討伐し、魔物のいない世界を作る……
そんなものは、もうどうでもいい建前だ。
結局、この腐りきった人間社会がこのまま残るなら、何の意味がある?
いや、違う。
俺の真の目的は、この俺を汚物のように扱い、人格を踏みにじった、この腐りきった人類全てへの復讐だ。
魔神を倒せば、願いが三つ叶う……そう言い伝えられていた。
だが、そんな都合のいい話、本当に真実なのか?
保証はどこにもない。
しかし、この唯一の希望に賭ける価値はある。
もし嘘ならば、この俺が自らの手で、この世界(人類)に地獄を見せてやるまでだ。
願いは決まっている。
三つのうち、一つ目にして、俺の全てを懸ける願いだ。
俺が、この世の絶対神となること。
この願い一つで、俺の全てが叶う。復讐の炎に焼き尽くされた俺の心に、二つ目、三つ目の願いを無理に絞り出す必要など、どこにもなかった。
今すぐに魔神討伐に向かうのも良い。
だが、奴に殺される可能性もある。
だとするなら、この命が尽きる前に……
この復讐劇の幕が開く前に、死ぬ前に悔いのないように、『大人』が味わう快楽の全てを経験してから、向かってやる。
これは、この俺を虐げた世界に対し、俺が最後に己の意志で示す、ささやかな抵抗だ。
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【第20話 終わり】
次回:【第21話】虚無の駒
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ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次回もお楽しみください。




