番外小話 ハルちゃん初めての夏
「……?」
何故か急に目が覚めてベッドの横にあるベビーベッドに目をやると寝ている筈のハルちゃんの姿が見えない。それに隣で寝ている筈の嗣治さんの姿も。
「もうそんな時間……?」
時計を見ると五時。もう外は明るくなってきていてたまにバイクの走る音がしたりしている。最近はこの時間までハルちゃんも静かに眠ってくれていることが多かったのにどうしたんだろう。そんなことを思いながらべッドから降りて部屋を出ると、リビングのソファで嗣治さんが寝ているのが見えた。そしてそのお腹の上でしっかりと嗣治さんの腕に抱かれてうつ伏せになって寝ているハルちゃんの姿も。
「なんだかラッコみたい」
嗣治さんのTシャツをしっかり握って寝ているハルちゃんが可愛くて写メしようかなって思ったけどシャッター音で目が覚めちゃったら可哀想だからそっとしておくことにして、そっとキッチンに行くとポットにお水を入れてからスイッチを入れた。ここしばらく夜中に起きてミルクを飲むことが少なくなってきていたから気付かなかっただけで昨日は違ったのかな。だけど哺乳瓶を使った形跡もないしどうして二人してあんなところで寝ているんだろ……。
新聞を取りに下まで降りて戻ってくると嗣治さんがモゾモゾと動いている。そろそろ同じ姿勢で寝ているのが辛くなってきたみたい。そりゃ幾ら座り心地が良いとは言っても所詮はベッドじゃなくソファだもん、当然だよね。しかもハルちゃんを抱いたままだったし。
「……モモ、起きてたのか」
覗き込むと嗣治さんがちょっとだけ顔をしかめながら目をあけた。
「うん、新聞とってきた。ハルちゃん、おろそうか」
「目を覚まさないと良いんだが」
「どっちにしろあとちょっとでミルク飲みたいって目を覚ます時間だし」
そう言ってそっとハルちゃんを抱き上げる。こういう時でも目を覚まさずにスヤスヤ寝たままなのがわが子ながら凄いなって思うのよね。お義母さんがハルちゃんは意外と大物よねって関心するぐらい色んなことに動じない。ただお腹が空いた時とかオムツが濡れて気持ちが悪い時の主張は物凄いんだけど、お義母さん曰く嗣治さんが赤ちゃんの時がそうだったらしくて、もしかしたらそういうところはパパ似なのかも。
「ねえ、どうしてそんなところで寝てたの?」
ベビーベッドに寝かせてまだ目を覚ます気配が無いことを確かめてからリビングに戻ると、そこで立ち上がって体をのばしている嗣治さんに尋ねた。
「三時頃だっか一度だけハルが目を覚ましてさ。泣き出したらモモが起きると思って本格的にぐずりだす前に移動したんだ」
「別に構わないのに。そんなことしたら嗣治さんが寝不足になっちゃうでしょ?」
「しばらく抱いてたら直ぐに大人しく寝たから問題ない。俺もそのまま寝ちまったわけだし」
「起きたら二人ともいないし、こっちに出てきたらラッコの親子みたいになってるビックリしたよ。嗣治さん、まだ時間あるからベッドで寝てきたら?」
「んー……どうするかな」
そう言いながら嗣治さんは私の手を掴んで引っ張ってきた。そのまま腕に中に閉じ込められて、何?と見上げると悪戯っぽい顔をしてこっちを見下ろしている。
「ハルも寝てることだし、こういうの久し振りだなと思って」
「え、もう少し寝た方がいいよ。嗣治さんが寝るなら私も一緒に寝ちゃう」
ポットのスイッチを入れて新聞を取りには出たけど眠たくない訳じゃないし、もう少し寝てても良いよって言われたら喜んで寝ちゃうんだけどなって呟いたら嗣治さんが軽く溜め息をついて笑みを浮かべた。
「仕方がないな。分かった、じゃあ今回は特別に許してやる」
「許すって……」
ブツブツ言いながら寝室に戻って嗣治さんと一緒にベッドに寝っ転がる。幸いなことにハルちゃんはまだ静かに寝てるしもう少し普段の寝不足を取り戻せそう。そんな訳でハルちゃんが目覚まし時計代わりの声をあげるまでの一時間、嗣治さんに抱かれて二度寝をすることになった。
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「おはよう、桃香ちゃん、ハルちゃん」
日課になった午前中のお散歩の帰りに桜木茶舗の前を通りかかると、桜子さんがいつものようにお店の暖簾を出しているところだった。
「おはようございます、桜子さん」
「今日も朝から暑いわね。中で涼んでいきなさい。冷たいお茶、用意してあるわよ」
「ありがとうございます」
桜木茶舗さんの間口は広くてベビーカーでも普通に出入りが出来るぐらいある。中に入ったところに木製のベンチが置いてあって、普段は御隠居さんと常連客さんや御近所の人達がお喋りをするのに使っているんだけどこの時間は私とハルちゃんの専用の休憩場所になっていた。
「こんなに美味しいお茶を赤ちゃんの時から飲んでいたら普通のお茶、飲まなくなっちゃうかも」
ハルちゃん用にと薄めたお番茶を持ってきていた予備の哺乳瓶に入れてもらいながら何気なく呟くと桜子さんが可笑しそうに笑った。
「うちのお番茶だって普通よ」
「そんなことないですよ。だって現に私がそうなんだもの」
この町に来てから何気なくここでお茶を買い始めた私。今じゃここのお茶じゃなきゃ物足りないって感じるようになっているんだから間違いないと思う。ハルちゃんがこのお店の常連さんの仲間入りをする日も遠くない気がするんだけどな。
「おはよう、桃香ちゃん」
お茶をいただいていると奥から御隠居さんが出てきた。
「おはようございます」
御隠居さんは私の横に座るとベビーカーのハルちゃんの顔を覗き込んで頭を撫でながら「春香ちゃんもおはよう」と声をかけてくれた。それから桜子さんから哺乳瓶を受け取った御隠居さんがハルちゃんにお茶を飲ませてくれるのがいつものお決まり。最初は嫌がるんじゃないかなって心配していたんだけど、そこはハルちゃんが大らかなのか御隠居さんが凄いのか、初対面の時から気が合ったみたいで御隠居さんと御機嫌なままでお茶を飲ませてもらう関係になっていた。そして桜子さんと私はそれを眺めながら世間話をするというのがこのお散歩の締めくくりというわけ。
「しかし桃香ちゃんもすっかりお母さんの顔になったね」
ハルちゃんにお茶を飲ませてくれていた御隠居さんが私の方を見て微笑むと、桜子さんもそうよねと相槌を打つ。
「そうですか? 私は相変わらずな気がしてあまり実感がないんですけど」
確かに生活パターンはハルちゃんが中心になったから随分と変わったけれどそれ以外はあまり大差ない気がするんだよね。たとえば嗣治さんとのやり取りとかは今まで通りでやっぱり食生活ではモモは仕事をしてなくても相変わらずだって言われるしちゃんと食べないとハルにも影響が出るだろって叱られてるし。
「大丈夫だよ、桃香ちゃんはちゃんとお母さんをしているよ。ねえ、桜子さん」
「ええ。私が長男を産んだ時よりずっとしっかりお母さんしてるわ」
それはさすがに褒め過ぎだと思う。だって桜子さん、絶対に最初から良いお母さんだったに違いないんだもん。
「だと良いんですけど」
本当のところを言うと自分がちゃんとお母さんをできるか心配だったんだ。だって私には生まれた時からお父さんお母さんがいなくてその存在を知らずにここまで来ちゃったから、どういうのが良いお母さんなのかさっぱりなんだもの。そう言う意味では嗣治さんはちゃんとお父さんしてるなーって感心しちゃうんだよね。女子力高すぎてたまに私の分までお母さんもしてる?って思ったりする時もあるけど。
「赤ちゃんが四ヶ月ならお母さんも四ヶ月だよ、桃香ちゃん。最初から百点満点のお母さんなんていないんだから焦らず赤ちゃんと一緒に自分も成長しているんだというゆったりとした気持ちでいけばいい」
「そうそう。分からないことがあれば千堂の御両親やお義姉さんに聞けば良いんだし、聞きにくいことがあれば私達にでも相談すれば良いのよ? 分からないことを聞くことは何も恥ずかしいことじゃないんだから」
桜子さんはこんな風にお散歩で立ち寄って世間話をする時もさり気無く困っていることや悩んでることは無い?って尋ねてきてくれる。そりゃ千堂のお母さんやお義姉さんに聞けば良いんだろうけど、そうしょっちゅう電話するわけにもいかないから世間話の中であれこれ相談させてもらえるのは有り難いことだった。あまりそのことを話すと千堂の御両親に悪いから内緒よっていつも言われてるんだけどね。
御隠居さんと桜子さんに見送られながらお店を出ると目の前を青い塊が駅の方角に向けて駆け抜けていった。頭のてっぺんの飾りの色からして二号君なんだろうけど、こんな時間から何処へ行くんだろう。
「夏休みはキーボ君も大忙しだね」
ちょっと先で何かに躓いて転びそうになっている後ろ姿を眺めながら御隠居さんが愉快そうに笑った。あの不慣れな動きからして中に入っているのは恭一君ではないみたいだけど、たまに誰が入っているのか分からない二号君は本当に色々な意味で謎が多い存在だよね。
もうすぐ桜川の花火大会。今年は千堂家の皆を呼んで我が家のベランダから見物しようって話になっているからハルちゃんの生まれて初めての花火見物は賑やかなことになりそう。




