上編
「ねえ、生きていて辛くないの?」
突然の彼女からの質問に僕は答える。
「辛くないわけがないじゃないか。生きていくことは辛いことに耐えながら毎日を過ごしていかないといけないんだから」
いつ自動車が飛び出して来て轢かれるかもしれない、いつ乗っている電車が横転してしまうかもしれない、いつ通り魔に襲われて刺されてしまうかもしれない。
歩けば歩くだけ死が近づいてくる世界なんだから、いつ唐突に訪れるかもわからない最後の瞬間に怯えていて何がいけない? 必死に抗おうとする姿の何がおかしいんだろう。
「ふ~ん、そう」
僕の言葉に彼女は素っ気なく返してまだ続ける。
「それって本当に生きているって言うのかな。息し続けている意味ってあるのかな。どうせいずれは消える命なのに」
心の底から純粋にそう思っている彼女に僕はなんて言葉を掛ければいいのかわからないけれど、ここで何も反応をしなかったら、僕がこうして生き続けていることが否定されてしまうようで、頑張って口を開く。
「それでもこの身体がある限りは、死から逃げて、息をし続けて、身体を動かし続けないといけないと思うんだ。だって僕たちは死なない為に生き続けているんだから」
「本当、あなたっておかしな考え方をするのね」
「君にだけには言われたくないよ」
僕は生き物として当然の選択をしているつもりなのに、僕の考えを純粋に理解できないで疑問符を投げかけてくる彼女が不思議で仕方がなかった。
「どうせいずれは灰となって消え去るだけの命なのに、そんなに苦しい思いをしてまでどうして君は生き続けたいの?」
「だったら僕からも訊かせてもらうけれど、君はなんで生き続けているんだい?」
ちゃんと身体を持って言葉を交わしているんだから、僕も彼女今という時間の中で、苦しみに晒されながら生き続けているはずなのに。
「もう、半分はもう死んでいるような人間だってことは君も知っているでしょ?」
学校の制服の袖を捲って彼女が白い肌を見せてくる。
そこには、幾つもの小さく膨れ上がった線が定規の目盛みたいに並んでいた。
彼女に何度か見せられたことがあるけれど、この傷跡は何回みても目を背けてしまう。
「少しでも死に近づこうとはするけれど、結局いつも死にきれないでいるのね」
「……また傷跡が増えた?」
一瞬しか見ていられなかったけれど、それでも新しい傷跡が目にはっきりと移り込んでしまった。
「えっと、君がそういうってことはきっと増えたのでしょうね。あまり意識しないからわからないけれど」
「やめられないの?」
「うん、やめられないの」
「どうして?」
「それは多分、私が生ける屍みたいな物だからなのだと思うの。身体はこの世界に留まっているけれど、心はもうここでは無い何処かに居て、腕に傷を増やした時だけ、この身体がちゃんとした人間になれるから、かな」
「そんなの、おかしいよ」
「おかしくはないよ。本質的には君の言う、生きている辛さと同じなのだと思うの。傷を負った僅かな間だけは、私は私と言う人間でいられるの。ただそれだけのことよ」
「……でも」
納得なんて一切できなかった。辛い思いを背負っても生き続けるのではなくて、自らに消えない傷を付け続けることで生き続けるなんて、ただ辛いだけではなくて、無意味に苦しいだけじゃないか。
「仕方がないことなの。君には君の背負うべき生き方があるように、これが私の背負うべき生き方だから。こうしていないと私は生きていることすら忘れて、ただの屍になってしまうから」
とてもではないけれど、やはり理解できそうにない。
生き物である以上はどんな理由があろうと生きる為に行動し続けなくちゃならないのに。僕だってただ苦しいだけと思うことがあっても、それでも生きているから死なないようにしているのに。
おかしいのは僕なのか、彼女なのか一体どっちなんだろう?
考えるまでもなく、おかしいのは彼女の方だ。
自ら死に近づくなんて、そんなのおかしいに決まっている。
それなのに、彼女の言葉を完全に否定することのできない僕がいて、とてももどかしい。
「君はちゃんと生きているよ。こうして触ることができるんだから」
数多くの傷跡が刻まれている彼女の腕を掴んで見せる。
掌に収まる彼女の腕は簡単に折れてしまいそうな程に華奢だと言うのに、触れている肌の感触は、普通とは違う凹凸や柔らかさがあった。
触れた瞬間に、心の中に不安がよぎった。
初めてこうして触れた彼女の腕から、死を感じ取ってしまった。
彼女の言葉を否定しようとして掴んだ腕だったのに、この腕からは僕が必死になって避け続けている死の気配を感じ取って、すぐさま離してしまった。
「そうでしょ?」
悲しげな微笑みを向けられて、僕はただ俯く。
「……でも、……でも!」
彼女の言葉を認めてしまったら、僕の考えの方が異端なものになってしまうのが怖くて、必死に言葉を探すけれど、見つけられそうにはなかった。
「私はもう半分は死んでいるの。この傷跡は私がこの世界に居続ける為に支払わなくちゃならない代償であり、あり続けるための依り代なの」
死の可能性に怯えるのではなくて、死の苦しみに晒されながら生き続ける彼女が、本当に生きているのか死んでいるのかわからなくなり始めた。
僕の掌には先ほど触れた彼女の温もりと感触がはっきりと残っているけれど、これも時間が経てばいずれ消えてしまう。その消失はまるで彼女がこの世界から消えていなくなってしまうこと表しているような気がして、怖くて感触が残る手を見つめ握りしめる。
西日が差し始め、柔らかい茜色に染まり始めてきた一面、優しく頬を撫でていく風を感じて、更に掌を強く握る。
屋上でそよぐこんな風にも彼女は搔き消されてしまうのではないかと、それほどまでに彼女をここに留めているモノの存在はか細いように思えて、俯く。
「だから私は生ける屍なの。たぶんこの生き方は変わることはないでしょうね」
遂に僕は何も答えられなかった。
グラウンドから遠く聴こえていた喧騒も次第に静かな物へと変わり、最終下校時刻を告げるチャイムが響いた。
俯きかけていた顔を上げて彼女をみつめると、微笑み返してくれた。
「帰らない?」
遠くに見える山裾は濃い影を孕み、空の反対側からは夜が迫っていた。
「残念だけれど、今日は用事があって一緒には行けないの」
「そうなんだ」
「ええ」
今日の話題といい、彼女にしては珍しいことが続く日だなと思いながら、別れの挨拶を交わす。
「それじゃあ、また」
「ええ、また会いましょう」
彼女に背を向け、僕は屋上を後にした。
翌日、彼女が自殺したことを知らされた




