翔馬と義心
翔馬は、人として育てられた、半神だった。
偶然会った龍の宮の妃、維月に話してもらい、いろいろあったが、龍の王の計らいで、神の世界を知る機会をもらった。
これから一人で生活しなければならないと思っていた翔馬にとって、それはとてもありがたいことであった。
で、あるが、その世界は簡単なものではなかった。
今まで人の世界しか知らずに生きて来た翔馬にとって、そこは完全な異世界であるのと同時に、新たな人間関係を形成して行かねばならぬ、苦難の道であった。
母の行方は知れず、その気に混じる虎の気で、神達には虎とわかるものの、自分がどこの虎の子であるのかも説明することが出来ない翔馬には、ただ遠巻きに見ている神達の視線が痛かった。
龍族の軍神である義心は、翔馬に詳しく神の世界のことを教えてくれていた。
翔馬にとって、唯一義心だけが、気軽に話せる者になっていた。しばらくは、龍の宮の傍にある東屋を与えられ、そこに住むことを許された。
そしてそこに居る間に、神の世界に慣れるよう、義心に言われていた。
今日も、宮へ上がることが許されていない翔馬の元へ、義心がやって来た。こうして毎日、決まった時間になると、義心は来てくれるのだ。
「翔馬よ、本日の講義は、己の力を己で知ることにしようと思っておるのだが。」
義心は言って、部屋の中には入らず、庭先に立ち止まった。
翔馬は困ったように眉を寄せた。
「ですが義心様、私は半神で、これまで人より身体能力が優れていること以外、際立って変わった力を使えた例はございません。」
義心は頷いた。
「それは、主が使い方を知らぬだけよ。主ぐらいの気であるなら、何か力を使えてもおかしくはないはず。まずは気の使い方であるな。いや、気の認識からか。」
義心は考えて、己の気を知るにはどうすればいいのか考えた。自分達は生まれた時からそれを、まるで呼吸でもするかのように知っていたので、それを教えるにはどうすればよいのか、見当が付かない。黙っていると、翔馬が言った。
「…そう言えば、この間、王が私を吹き飛ばされた時に思ったのですが、あれが気でしょうか?」
義心は頷いた。
「そうだ。王の気はすさまじく強く、我らでも全開にしているお姿を見たことは、未だかつてない。あれでもご本人は、気を使っているなど認識されていないレベルであるのよ。ゆえに、主など一溜りもない。今後一切、王に逆らうことはあってはならぬぞ。」
翔馬は頷きながら、考える顔をした。
「…あれが気であるなら、私は使ったことがあるように思います。一度車に轢かれそうになったことがありまして、その時に無意識に、あの重たい鉄の塊を、私からあちらへ押そうと必死になったのですが…出来るはずもないのに、気が付くと車は横転して私を避けておりました。」
義心はホッとしたような顔をした。
「おそらく、それが気であるな。一度その時のように、これを動かしてみよ。」
義心は手の平を返して、何かを持つように上に向ける。すると、そこには浮かぶ玉のようなものが現れて、実体化した。それを翔馬の前方10メートルほどの所に浮かべる。
翔馬は、それを押そうと考えた。すると、額の辺りから何かの風のようなものが流れたように思い、玉はあちらに向かって数メートル動いた。義心は満足げに頷いた。
「それが気であるのよ。なかなかに、普通の神並には気を持っておるではないか。」
翔馬は微笑んだ。
「本当ですか?よかった…私は神でも人でも中途半端で、とても悩んでおりましたので…。」
義心は気の毒そうに目を細めた。
「さもあろうな。我ら軍神ほどでは無いにしろ、それだけ気があれば、普通の神の世界ではなんの問題もない。安心するがよい。」
そこまで話していると、義心と同じような甲冑を付けた神が、急いで飛んで来たのが見えた。軍神なのだと翔馬は瞬時に思った。その神は、義心の傍に膝を付いて言った。
「義心様、王がお帰りとの知らせ、急ぎお知らせに参りましてございまする。」
義心は表情を変えた。
「して、維月様は?」
相手は頭を下げたまま答えた。
「共にお連れになってお帰りになられるそうでございます。」
義心はホッとしたように頷くと、翔馬を見た。
「我は、宮へ急ぎ帰らねばならぬ。主は、気の使い方を、次に我が来るまでに己でやってみよ。」
翔馬は頭を下げた。
「はい。ありがとうございました。」
義心は軽く返礼すると、ものすごいスピードで飛び去った。龍族にとっての王とは、なんと絶対的な存在なのだろう。いや、力社会の神の世界は、その頂点に立つ王に逆らうことは、まさに死に直結することなのだ。
翔馬はため息をついた。そのすさまじい力に誰もがひれ伏すという、龍族の王。
見た目は恐ろしくもなく、ただただ威厳を感じるのみであったが、気を感じるようになれば、それほどに恐ろしく見えるのだろうか。翔馬には見当もつかなかった。
しかし、維月はとてもその妃という感じではなかった。人であった為か、とっつきにくさの欠片もなく、話していると気持ちが和んで、神の世界も悪くはないと思えたほどだ。
それが、あの王の妃であったとは…。
翔馬は、もう一度維月と話してみたかったが、それをあの王が許してくれるとは、到底思えなかった。自分に下心は無く、ただ、人の世界と神の世界の違いを、面白おかしく茶でも飲みながら話してみたいと思うだけであるのだが…。
翔馬はその疎外感を、維月と共有したいと思っていただけなのだ。
しかし、維月は王の妃になったぐらいなのだから、見かけによらず、神の世界にも慣れ親しんでいるのかもしれない。
翔馬は離れた龍の宮を見上げ、そんなことを考えていた。
「ああ、義心。」
義心は、呼び止める声に振り返った。そして驚いた。王の妃ではないか!
慌てて膝を付いて頭を下げた義心は、王が何か不審に思わないか、気が気でなかった。しかし、ここは回廊のど真ん中、回りにたくさんの龍が居る。まず大丈夫だろう。
相手はそんなことには気が付かないかのように、義心に言った。
「探していたのよ。わざわざ呼び出してまでは、忙しいだろうし悪くって…。」
義心は頭を下げたまま、答えた。
「いつなりとお呼び頂ければ、参上いたしまするが。」
維月は首を振った。
「それはわかっているけど、私が呼ぶと、どんなに忙しくても来なきゃならなくなるでしょう?私、そういうの嫌なのよね。それに、そんなにかしこまらなくてもいいのよ。私は王族の生まれでもないのだから。」
義心はその姿勢を崩さなかった。
「いえ、王の妃であられるのですから…。」
維月はため息をつくと、言った。
「では、せめて顔を上げなさい。私たち人の間では、相手の目を見ないで話すなんて、とても失礼なことなのよ。私はそこで育ったの。維心様にも、それは申し上げました。ですので、それであなたが咎められることはないわ。」
義心は渋々顔を上げた。こんなに間近で維月を見るのは初めてであったが、思っていたよりずっと小さく、また美しかった。義心はそう思った自分に驚き、思わず咳払いした。維月はにっこりと笑い、言った。
「まあ義心、こんなに近くで見るのは初めてだこと。でも、私が話したかったのはこのことではないの。」と少し眉を寄せた。「あの、維心様が来られた時に会った、虎の半神の翔馬殿のことなのだけど。」
義心はハラハラした。もし、今から会わせろとか言われたらどうすればよいのだろう。
「我が、世話をしております。」
義心は慎重に答えた。
「そうよね。気になっていたのだけど、元気にしている?」
維月は気遣っているだけのようだ。義心は頷いた。
「はい。神の世界は複雑であるので、簡単には一人立ちは出来ないかと思いまするが。」
維月は笑った。
「そう、よかったこと。あなたが見てくれているなら安心ね。維心様に訊こうにも、あの時のことを話すと、また怒り出すのでないかと思うと、言い出せなくて。落ち着く場所が見つからなかったら、蒼に頼んでもいいかと思っているのよ。人の気持ちは、私達でないと、きっとわからないので。だからまた、それをあなたから伝えてあげてね。…まあ、あなたは維心様のご命令でないと、動けないと思うけれど…。」
義心は再び頭を下げた。
「はっ!」
これ以上は王の勘気を被る可能性があるし、自分もなぜだか胸が騒ぐ。義心は切り上げようと思ったのだ。
維月はそれを察して苦笑しながらも、言った。
「下がっていいわ。」
そう言わないと、立ち去れないのだ。義心はもう一度頭を下げると、立ち上がって下がって行った。
それを見送っていると、維心が後ろから声を掛けて来た。
「…我に訊けば良いではないか。怒りはせぬ。」
維月はびっくりして振り返った。
「まあ維心様!居間にいらしたのではありませんの?」
「…そうであるが」維心は言いにくそうに言った。「主の傍に男の気がしたので…どうしたのであろうかと…。」
維月はため息をついて苦笑した。ほんとにもう、維心様は…。
「そんなことを申しておりましたら、この宮の半数以上が男性でありますのに。それに、私もいろいろと話さなければならないことがございます。維心様はそれでなくてもお忙しいのに、私の聞くことにまで、いちいち調べてはいられないでしょう。直接聞いた方が早いと思ったのですわ。」
維心は不満そうだったが、頷いて維月の手を取った。
「居間へ戻ろうぞ。しかし、これからは我に訊くと良い。あまり近くで…その、姿を見せるのは、好ましくないゆえ。」
維心は言葉を探しているようだったが、要はこんなに近くで姿を見せるなということらしい。維月は顔を背けた。
「私、神の女ほどに美しくもありませぬ。姿ぐらい見せたって、誰もそれでどうのありませぬ。維心様だって、初対面で私の事を、求められた訳ではございませんでしょう。」
手を取られて居間の方へ向かいながらも、維心の方を見ない。維心は維月の顔を覗き込んだ。
「維月、主は我が妃なのだ。王妃は普通、奥から滅多に出て来ないものであるのに、主は宮の中を自由に歩き回って良いのだから、せめて話す時ぐらい、我が居る時にしてもらいたいのだ。」
維月は眉を寄せていたが、頷いた。
「では、そのように。」
維心はホッとしたが、維月を見た時の、義心の気の変化が見えていただけに、落ち着かなかった。維月は美しいが、確かに美しいだけなら、神の女の方が、もっと見目の麗しい者もいる。しかし、維月の気は、なぜか我らに強い印象を与えるのだ。それゆえに隠しておきたいのに。
維心は密かにため息をついた。しかし、我の妃に手を出せる者など、我が宮には居らぬ。絶対にそれだけは許さぬゆえに。
次の日、義心は翔馬と気のことについていろいろとシュミレーションをした後、ふと思い出して、言った。
「そう言えば翔馬よ、維月様より、主のことを聞かれた。」
翔馬は目を輝かせた。
「ああ、覚えていてくださったのですか?それで、なんと?」
義心はその反応に驚いたが、答えた。
「ご子息の蒼殿に、主の身の振り方を頼んでも良いとのことであった。人であった者同士であるのでと。」
翔馬は嬉しそうに笑った。
「人の世がわかるかたに身の振り方をご相談できるのでしたら、私も心強い限りでございます。そのように、お伝え頂いてよろしいでしょうか?」
義心は眉を寄せた。伝えるということは、また王妃に会わねばならない。気は進まなかったが、義心は頷いた。
「では、そのように伝える。が、決めるは王であるのでな。我には何とも言えぬ。」
翔馬が頭を下げたのを見た義心は、その東屋を後にした。
義心はどうしたものか、考えた。やはり王に言うべきなのか。しかし、王にはなんのことなのかわからぬかもしれない。しかし、王妃にこちらから話し掛けることは、禁じられていた。
義心の視線の先に、維月が中庭で侍女達と話しているのが見えた。今は一人ではない。これなら大丈夫だろうか…。
義心は、その姿を見て、やはり胸が騒いだ。昨日間近で見るまでは、このようなことはなかったのに。美しさは驚くほどではないのに、この受ける感じはなんなのだろう…。
義心はしばらくそこに佇んで、侍女達と笑いあう維月を、我知らず眺めていた。
しばらく後、我に返った義心は、そんな自分に驚き、慌てて踵を返してその場を去った。こんなことをしていて、王が見たらなんと言おう。翔馬からの言づけも忘れ、義心は部屋へ逃げ帰った。
義心はまだ400歳にもなっていなかった。しかし生まれた時から気が強く、軍神になるべく育てられた。今では王には遠く及ばないものの、宮では誰より強い気を持っていると言われていた。
軍務に明け暮れるのは、嫌いではなかった。妻がどうのとうるさく言うものも義心には居らず、のびのびと働いて来たので、今さら何も考えては居なかった。王ですらずっと独り身であったのだから…。義心はそう思っていたのだった。
気を取り直して、義心は維心の居間へ向かった。そこなら王も居る。王に話せば維月に伝わり、何の問題もないだろう。
意を決して居間へ入ると、頭を下げる前に、入り口横の厨子に何かを片付けていた維月が振り返った。
「まあ義心!」
義心はびっくりして慌てて下を向いて膝をついた。維心が奥の定位置に腰掛けて、こちらを見ているのがわかる。
「失礼を…!」
義心は膝をついたまま固まった。まさかこんなに端近に維月が居るとは思いもしなかったのだ。
「維月」維心が手を差し出して維月を傍へ呼んだ。「良い。何の用ぞ。」
維月が維心の傍に着くまで、義心はそのままでいて、立ち上がって維心の方へ歩み寄った。
「王、あの半神のことについて、ご報告に上がりました。」
維心は頷いた。
「申せ。」
義心は、妃を間近で見てはいけない決まりと、前回維月に言われた目を見て話せとのこととの間で迷った。しかし、今は維心の前でのこと。下を向いたまま言った。
「はい。翔馬と申す半神は、維月様からの、蒼様への取り次ぎの件につきまして、人の世を知るものに導いてもらうことを望んでおる旨、お伝えくださいとの事でございまする。」
維心は維月から聞いているのだろう。驚いた様子もなく、頷いた。
「では、我からそのように蒼へ申し伝える。」
維月が言った。
「私からの方がよいのでは?維心様お忙しいでしょう。この週末にでも、あちらへ参って…。」
維心は眉を寄せた。
「我が蒼を呼ぶゆえ、良い。維月、主はしばらくこの宮に居ったほうが良いと思うのだが…。」
維月はちょっとムッとした顔をしたが、頷いた。
「そうですわね。たくさん仕事が残ってございますものね。」と義心を見た。「それでは、翔馬殿に伝えてくれるかしら?義心。」
義心は迷った。今度こそ維月に話し掛けられている。でも、王の前でその妃を見るなどと…。維月はため息をついた。
「私はこの間、あなたになんと言ったか覚えている?」
義心は観念した。顔を上げて維月の目を見た。
「はい、仰せの通りに、維月様。」
維月は微笑んだ。維心が即、言った。
「下がってよい。」
義心は頭を下げてから立ち上がると、急いで居間を離れた。
それを見送った、維心が維月を振り返った。
「維月。主が人であったのはわかっておるし、我はそれを尊重しようと思っておる。しかし、我は我が妃を他の者に間近で見られるのは慣れておらぬ。」
維月は維心を見て、顔をしかめた。
「…では、維心様が見ていらっしゃらない所で、目を合わせて話せばよろしいですか?でも…宴席などでは、挨拶に来る方たちは、私を間近で見られまするのに。」
維心は首を振った。
「それとこれとは訳が違うのだ。宴席に来る客人は、毎日会う訳ではなかろう。義心など同じ宮の中に居るのに、話すたびに主を見るのだぞ。それに…向こうもそんなことには慣れておらぬゆえ、困っておるのではないかと思う。」
維月は下を向いた。
「皆が皆、私を見て顔を逸らすなんて…私はとても寂しゅうございまする。人の世では、それは関わりたくないという意思表示のようなもの。それでなくても、私は龍ではありませぬのに。」
維月はそのまま黙った。
維心はどうすれなよいものか、悩んだ。義心の気の波動は、本人もおそらく気付いておるであろうが、維月を見た時に跳ね上がる。あれは我と同じだ。このままでは、あやつもつらくなるであろう。維月にそれを言うべきか否か、迷っていたのだ。
「…我の侍女達では、ダメであるのか?もし望むのなら、もっと増やしてやっても良いぞ。主の話し相手用に、準備をしても良い。」
維月は、維心の目を見た。
「…いえ…もう、よろしいです。」
なんだか元気がなく、しょんぼりとしている。怒っている風ではなかったが、維心にはその方が心に迫るものがあった。肩を抱いたが、おとなしくしている。困った維心は、そのまま抱きしめて言った。
「主を縛るつもりはないのだ。我は…宮の決まりの中で長く生きて来たので、どうしてもこの感覚が抜けぬのよ。それは我が龍達も同じだ。ゆえに…主にその気はなくとも、相手が目を合わせることで好意を持ってしまわぬとも限らぬのよ。先々困った輩が現れぬためにも、主には堪えてもらわなければならぬと思うておる。」
維月は頷いた。しかし顔は上げなかった。
困った維心は言った。
「…では、週末に我が月の宮へ連れて参ろう。我と共に、蒼に話しに行こうぞ。」
「…まことでございますか?」維月は顔を上げた。「では、その時に共に人の世の店に出掛けませぬか?維心様と行きたい所がございます。」
維心は驚いたが、勢いで頷いた。
「…わかった。」
維月は喜んで維心に抱きついた。
機嫌が直ったのはよかったが、維心はため息をついた。




