20 奪われた片割れ
アシュレイは地面に這いつくばり、連れ去られていくエレナの背を、ただ目で追うことしかできなかった。
「アシュレイさん! 分かたれた片割れを……紫の輝きを思い出して!」
彼女の声が、はっきりと耳を打つ。
おぞましい。
愛する者を入れるなど到底考えられない、無機質で――もはや温度すら感じさせない――漆黒の箱。
その中へ、彼女は押し込められてゆく。
「いやっ、助けて、アシュレ――」
箱に詰められる直前、彼女の体がよじれ、悲鳴が漏れた。
それは確かに、アシュレイの耳に届いた。だが。
蹴られた腹は激しく痛み、踏みつけられた手は、骨が砕けたかのように動かない。
追いすがるどころか、今の彼にできるのは、息をすることすら辛く、ただの無力に這いつくばるのみだった。
輿は、屈強な男たち四人に担がれ、陽の光の下、堂々と運び去られていった。
ファリド一味は、人目をはばかる様子もなく、公爵家の庭先を踏み荒らしながら去ってゆく。
最後に、ファリド・ザフラーンが振り返った。
射す陽の下で、その金の双眸は、眩しげに細められていた――が、その内側に宿るものは、圧倒的な優越と、興奮の火だった。
それは、勝者の愉悦だった。
地に伏したアシュレイを、まるで戦利品でも眺めるかのように見下ろして。
その視線が触れただけで、アシュレイの胸は、ひどく汚された気がした。
あの箱の中にいる彼女を守れなかったという事実が、体の痛みよりも重くのしかかる。
――くそ……ダメだ。
絶望するのは、まだ早い。
考えろ。今、考えなければ――本当に、彼女を失ってしまう。
アシュレイは、彼らの姿が完全に視界から消えるまで、じっと地面に横たわっていた。
そして、見えなくなった瞬間、痛む身体を無理に動かし、ゆっくりと体の向きを変える。
「アシュレイ様、ご無事ですか!?」
前庭には、すでに多くの騎士や門番が倒れていた。
急所を突かれ、意識を失っている者。悶絶し、動けずにいる者。
だがその中で、わずかに動ける者たちが、血の気の引いた顔でアシュレイに駆け寄ってきた。
「……情けないが……あまり大丈夫ではない。
侍医を、公爵家の侍医を呼んでくれ。それと、騎士団にも救援を要請してほしい。
動ける者は、屋敷の中の状況を確認し、意識を失っている者や、怪我人の介抱を頼む。」
「アシュレイ様は――」
「……もう少しだけ、このまま……。しばらくすれば、動ける。」
かすれた声で命じ、アシュレイは仰向けになろうとした――が。
腹の奥に鋭い痛みが走り、反射的に体を丸める。
まるで、芋虫のように、力なく。
「すぐに医者を呼びます! どうか、それまで耐えてください!」
集まっていた数名の騎士が、顔をこわばらせながらも素早く役割を分担し、四方へ散っていった。
独りになったアシュレイは、痛む腹と手を庇いながら、ゆっくりと息を吐いた。
――アシュレイさん! 分かたれた片割れを! 紫の輝きを思い出して!
エレナの声が、頭の中で何度も反響する。
そのたび、悔しさでこわばる筋肉に痛みが走る。それでも、彼は目を閉じたまま、静かに思考を巡らせる。
……分かたれた、片割れ。
紫の輝き――。
「……分かたれた片割れ……紫……」
囁くように口にしたその言葉が、舌の上で意味を持ちはじめた瞬間、彼の意識が一点に結びつく。
――双晶魔石のブレスレット。
腹の痛みすら忘れるほどに、胸の奥がざわめいた。
痛む手とは反対側――左腕をそっと持ち上げる。
黒革のベルトの上に、プラチナの座金に収まった魔石が、静かに光っていた。
今朝までは、確かに明るい紫だった。
アメジストのような、澄んだ色。どこか、自分の瞳にも似ていた。
けれど今、そこにあるのは――
熟れた果実のような赤紫。甘やかな色。まるで赤ワインのようだ。
しかも、見ている間にも、その色は深く深く、どこまでも濃く色づいて行った。
……色が変わっている。
アシュレイは、変化した魔石の色に目を凝らす。
深い赤紫――今朝とはまったく違う。
なぜだ?
何が、これに作用した?
『想いを確かめ合って、その証として、持ち続ける魔石なんだって』
ふと、エレナの言葉が頭をよぎる。
――これは、まだ“繋がっている”ということか?
もし、そうなら――今、彼女は。
アシュレイは、痛みに耐えながら、左手を強く握りしめた。
この魔石が繋がっているなら、伝えられる。まだ――手はある。
「アシュレイ様っ!」
門扉の方から、慌ただしい足音とともに、門番のひとりが駆け寄ってくる。
屋敷内は魔法の結界に守られているため、門外に出て騎士団と公爵家に緊急連絡を送っていたらしい。
その顔には、焦りと申し訳なさが混ざっていた。
「救援は……?」
アシュレイのかすれた問いに、門番は深くうなずいた。
「第四騎士団と、公爵家の騎士隊が動いております。カタリナ様も直々にお出ましを――」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、石畳の振動が伝わってきた。
屋敷の門の向こうから、騎馬の蹄音と、鎧のきらめきが押し寄せてくる。
やがて、王都を警邏していた第四騎士団が通りに到着し、
ほどなくして、公爵家の旗を掲げた騎士たちと、カタリナの姿も現れた。
別邸の前庭は、たちまち騒然とした空気に包まれる。
指示を飛ばす声、傷者を運ぶ声、名乗りを上げる騎士たちの足音が交錯する。
公爵家の侍医はアシュレイを見つけるなり、真っ先に駆け寄った。
彼のシャツをはだけさせ、負傷の状態を素早く確認する。
カタリナは自ら連れてきた騎士たちに指示を出しながら、アシュレイのもとへ駆け寄った。
治療を受ける彼の傍らに膝をつき、低く問いただす。
「何かあったの? エルフィーナはどうしたの?」
「――エレナが……奪われた。ファリド・ザフラーンだ。奴が……迎えに来た。」
痛みがいくらか落ち着いたアシュレイは、侍医に支えられながら、視線を合わせることなく答えた。
「迎えに来たって……予告の日は明日でしょう? それに、予告状は彼女の実家に届いていたはずよ?」
「……なんでも、都合が悪くなったらしい。」
アシュレイは、カタリナの後ろに控えていた騎士団長へ視線を向ける。
「ダニエル第四騎士団長。ファリド・ザフラーンに対する強制捜査、行ったのか?」
声をかけられた男は、ゆっくりと一歩前に出て、重々しくうなずいた。
「奴の裏の顔は、以前から問題視されていた。
昨夜、貴殿の情報とマーティンの証言をもとに、主要な拠点──倉庫、賭場、表向きの店舗などはすべて同時に押さえた。
長年の捜査で洗い出していたものも含め、ほぼ壊滅状態だ。」
「……ヤツの身柄は?」
アシュレイが唸るように問うと、団長は悔しげに顎を引いた。
「あいにく、“本邸”には手が出せなかった。
あそこは一応、外交特権を盾に“ダルク=ファジル王国領”を主張していてな。
強制捜査には、王命か外務局の承認が必要なんだ。」
「つまり、ぬくぬくとそこに隠れてるってこと?」
カタリナが、悔しげに目を細める。
「ダルク=ファジル王国か……厄介な相手だな。」
アシュレイが低く呟くと、ダニエルも眉間にしわを寄せてうなずいた。
「ああ。拉致されたのは、アゼール伯爵令嬢で間違いないな?
違法活動の数々、公爵家の別邸への襲撃、そして貴族令嬢の拉致――
ここまでの罪状が揃えば、もはやファリドにこの国での居場所はない。
国外逃亡……ダルク=ファジル王国への出奔も、十分視野に入れるべきだ。」
ダニエルは言い切ると、間を置かずに続けた。
「今回の捜査で、これだけの違法性が明らかになった以上、我が国も、ダルク=ファジル王国も、もはや黙認できまい。
奴の身柄が拘束されるのも、時間の問題だろう。」
「それじゃ遅いのよ!」
カタリナの声が、鋭く場を裂いた。
「エルフィーナはどうなるの!?
――国境を! ダルク=ファジル王国との国境を封鎖して!!」
叫ぶように――ではなく、叫ばずにはいられなかった。
彼女の瞳には、怒りと焦燥が入り混じっていた。
だが、ダニエルの表情は暗いままだった。
「……グランディス公爵夫人。申し訳ないが、完全封鎖は即座にはできない。
検問の強化はすでに通達済みだが、それ以上の対応は――現時点では無理だ。」
「そう……それでも、何もないよりはましね。」
カタリナはすぐに切り替え、アシュレイへと顔を向ける。
「さあ、アシュレイ。追いかけましょう。
検問で足止めを喰らえば――まだ、間に合うはずよ。」
「ああ、行こう。」
「なりません!」
治療に当たっていた侍医が、思わず声を張り上げた。
「アシュレイ様は、深刻な怪我を負っています。
特に右手は、骨折がいくつも見受けられる。
今は安静が第一です。国境までの遠駆けなど、到底許可できません!」
アシュレイは、苦しげに息を吐いた。
「……すまない。でも、今はどうしても行かねばならないんだ。
痛み止めでも麻酔でも、ありったけ使ってくれ。
今、動かなければ――
あとで、後悔で死んでしまう……」
静かに、けれど力強く訴えるその瞳を、侍医は黙って見返した。
やがて、重々しいため息が漏れる。
「……今回だけですよ」
観念したようにそう言って、彼はアシュレイの腕に薬を打ち始めた。




