13 獅子の影
「もうっ!エルフィーナが無事で本当に良かったぁ」
王都での散策、そして誘拐未遂――波乱の一日から一夜が明けた朝。
別邸には朝早くからカタリナが駆けつけ、エレナの無事を心から喜んでいた。
昨日の快晴が嘘のように、今日は土砂降りの雨。
室内にいても、雨粒が窓をたたく音。それから、時折とどろく雷鳴が地鳴りのように屋敷を震わした。
「ごめんね、心配かけて……」
ベッドの上から、エレナは力なく声を返した。
昨夜半過ぎから高熱が続き、顔も真っ赤なままだ。
今朝、駆けつけた公爵家付きの医師は、精神的ショックによる魔力の異常放出と診断を下した。
昨夜、今後の対応を話し合っていた最中、アシュレイはエレナの顔色が異常に赤いことに気づいた。
彼女がそのまま倒れてしまってからは、ひとときも離れず、ずっと傍で看病を続けている。
「今日、王都を発つ予定だったけど……まさか、そんな状態で帰るなんて言わないでしょうね?」
カタリナが念を押すように言うと、エレナはさすがに苦笑を漏らした。
「言わないってば。悪いけど、もう二、三日くらい、滞在を伸ばさせてもらってもいい?
この調子じゃ、今日明日で元気になるなんて無理そうだし……それに、外もこの天気だもの。」
「二、三日なんて遠慮しないで、十日くらいいなさいな。どうせ、あっちに急ぎの用事も約束もないんでしょう?
うちの閣下に会いたくないなら――ふふ、彼が帰国する前に発てばいいだけの話よ。」
「帰国なさるまで――」
「あと、十二日ね」
カタリナは悪戯っぽく片目をつぶると、ベッドの端に軽やかに腰を下ろした。
「昨夜、アゼール伯爵のタウンハウスに、シュテーベル伯爵夫妻がいらしたそうよ。
もちろん昨日の一件の謝罪に、ってことだったんだけど――」
カタリナはエレナの様子を横目で見ながら続ける。
「でもね、アゼール伯爵夫妻はエルフィーナが王都入りしてることすらご存じなくて、もう大混乱。
今朝になって、シュテーベル夫妻が私のところにも来たの。どうしても貴女に直接謝りたいって。」
「……あの方たちに、謝ってほしかったわけじゃないのよ……」
エレナの胸の奥に、静かにやるせなさが広がっていく。
婚約を破棄されたあの時も、同じだった。
常識人である夫妻は、息子の非礼を心底恥じて、何度も頭を下げてくれた。
家長としての謝罪であることは、わかっている。わかってはいるけれど――
――マーティンの親ってだけで、あの方たちが悪いわけじゃない。
それなのに、本人からの謝罪もないまま、ご両親にだけ頭を下げられても……こっちだって、どうしていいかわからなくなるじゃない……
エレナの心情を察しながら、カタリナもため息まじりに声を漏らす。
「そうなのよね……。
あんなドラ息子の“製造元”でも、一応は由緒ある伯爵家。
それであんな風に頭を下げられたら、エルフィーナとしては――全部、呑み込むしかなくなる。」
「……今回は、婚約破棄の時とはわけが違う。」
アシュレイが、忌々しげに低く付け加える。
「起訴の取り下げに、慰謝料の減額、さらには口止めまで――よくもまあ、あれだけ図々しく並べられたものだ。」
「シュテーベル伯が、そんなことを……?」
驚いたように問いかけるエレナに、カタリナとアシュレイはそろって苦い表情を浮かべた。
「ええ。ここ二年で、マーティンの放蕩ぶりがさらに悪化して、家の財政は火の車だとか。
例の“紳士クラブ”が斡旋している、怪しい会員制の物品販売にも手を出して……かなり深刻な状況らしいわ。」
「……マーティンと婚約していた頃は、とてもよくしていただいたから……なんだか、信じられないわ。」
「ええ、まさに“貧すれば鈍す”ってやつね。
たとえ以前の彼らが親切で、誠実な人だったとしても――今もそうだと信じるのは、あなたのためにならないわ。」
「時には、冷徹に切り捨てることも必要だ。……まあ、君には難しいだろうが」
アシュレイが、横からそっと言葉を挟む。
いざとなれば自分が出る――そんな意志が、その目にはっきりと宿っていた。
黙り込んだまま、思案に沈むエレナを見つめていたカタリナは、そっとベッドから立ち上がった。
「シュテーベル夫妻には伝えておいたわ。
『あなた方にエルフィーナを会わせるつもりはないし、マーティン本人からの謝罪がない限り、意味はない』って――丁重に、ね。
アゼール伯爵夫妻は――、怒っていたし、心配していたわよ。」
「――まさか、うちの両親が、カタリナのところまで?」
「ええ、昨晩のうちにいらっしゃったわ。
貴女に会いたがっていたから、回復した頃にここへお招きするとお伝えしておいたの。」
「もう――、私が森へ帰ってたら、どうするつもりだったの?」
「帰らせるつもりなんて、最初からなかったわ。
実はね、すっごく面白い素材を手に入れたの。それだけはどうしても、あなたと直接共有したかったのよ。」
カタリナは、まるで少女のような仕草でくるりと身を翻すと、扉の方へと歩き出した。
「だからね、早く元気になってちょうだい?
アシュレイさん、引き続きエルフィーナを、よろしくね?」
ヒラヒラと手を振りながら、エレナの返事も待たず、カタリナは颯爽と部屋をあとにした。
「本当にカタリナには――敵わないなぁ……」
エレナは掛布を胸元まで引き上げながら、眠気に身を委ねるようにつぶやいた。
「あの義姉上には、うちの男どもは誰一人として頭が上がらない。前公爵の父も、兄上たちも……もちろん、俺も。」
真面目な顔で言うアシュレイに、エレナはくすくすと笑い出した。
「私も敵いませんよ。でも――あれが、彼女の素敵なところなんですよね。
公爵閣下は、あの奔放さを気に入って求婚なさったんでしょう?」
「ああ……義姉上と付き合う前も、付き合い始めてからも、もう目も当てられないくらいひどかった。」
アシュレイは、懐かしそうに笑みを浮かべながら言った。
そして、エレナの額に乗せていた濡れタオルを取り、氷水で冷やしてからそっと載せ直す。
「さあ、たくさん話して疲れただろう。もう一眠りして、早く元気になってくれ。」
半ば目を閉じ、再び眠りの世界へと沈みかけているエレナに、アシュレイはそっと微笑んだ。
エレナは、きっかり二日半寝込んだ末、ようやく回復した。
体調の回復と足並みを揃えるように、天気も晴れ間を見せた三日目の午後――
訪ねてきたアゼール伯爵夫妻に、まずはこっぴどく小言を浴びることとなった。
特に伯爵夫人は、目に見えて心を痛めていた。
昨日届いたファリド・ザフラーンからの求婚状は、以前にも増して具体的で、
「迎えに行く日付」まで記されていたという。
このまま王都に留まり、カタリナの庇護を受けるよう、伯爵夫人は繰り返しエレナを説得した。
エレナは、迷っていた。
ザフラーンは、かつてにも増してエルフィーナへの執着を強め、ついに“迎えに行く日”まで指定してきた。
母の言うように、公爵夫人――カタリナのもとでその日をやり過ごすのが最善なのか。
それとも、ザフラーンが“雨森の魔女”に手紙を寄越すことも、訪れることもなかったことから、
まだ彼にエルフィーナ=魔女エレナだとは知られていない可能性に賭け、
森へ戻り、再び隠遁生活に身を置くのが賢明なのか――。
エレナの両親が帰った後、見計らったようにカタリナが姿を現した。
看病疲れの色が濃いアシュレイに気づくと、「おつかれさま。そろそろ少し休んでらして?」と甘い声で微笑み、
「乙女の話をするから、騎士殿はご退場願いますわね?」と、さらりと自室へ追いやった。
「七日後、だったわね?
ザフラーンのハーレムに入ったら、二度と屋敷の外には出られない。
実家への帰省はもちろん許されず、万が一外に出る必要がある時は、専用の輿に閉じ込められて、部屋から部屋へと“運ばれる”だけ。
外の景色すら、二度と目にすることはできなくなるって――。
七日間で覚悟を決めろ、と。
……ここは、あいつの母国じゃないのよ?
私たちが、そんなやり方を受け入れられるわけ、ないじゃない。」
カタリナの声は静かだったが、握りしめた拳がわずかに震えていた。
「カタリナ……あの手紙、読んだの?」
エレナが驚いたように尋ねると、カタリナは深くうなずいた。
「ええ。アゼール伯爵に見せてもらったわ。
半年前から、昨日届いたあの手紙まで、全部。
……あいつは、獣人みたいね。
自分が貴女の“運命の番”だって言ってる。
でもそのくせ、これまでの夫人や妾との関係を清算する気はなくて――
ハーレムの中で、他の女たちと“寵”を競え、なんて……寝言みたいなことを書いていたの。」
「はぁ? 意味がわからない。
“運命の番”って、そういうものじゃないでしょう?」
エレナが心底呆れた声を返すと、カタリナはますます深刻そうに眉をひそめた。
「あいつは危険よ。森へ帰るなんて、絶対にだめ。
本音を言えば、公爵家の本邸に引き取って、うちの騎士隊に守らせたいくらいだわ。」
カタリナが言うと、エレナは首を横に振る。
「大げさよ。ここだって十分だわ。」
「そう……かしら?
まあ、とにかく森には帰らないでね?
そういえば――良い暇つぶしを用意しておいたのよ。
この前、“面白いものを見つけた”って言ったの、覚えてる?」
明るい声でそう言いながら、カタリナは傍らから、宝石ルースが収められた大ぶりで艶のある木箱を取り出し、エレナの前に置いた。
「ふふふ、これが何かわかる?
エルフィーナだって、初めて見るんじゃないかしら!」
得意げな笑みを浮かべながら、カタリナがゆっくりと、勿体ぶるように蓋を開ける。
中には、淡い色合いの宝石質の魔石が、ふたつずつペアになって、いくつも整然と並べられていた。




