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魔女は雨の森の中――恋はもうこりごり。それでも魔石に願いは込める  作者: じょーもん


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12/24

12 騎士が駆けるとき

「は? マーティン? なんであんたが――」


 エレナは音を立てて椅子を蹴るように立ち上がった。視線の先にいるのは、かつての婚約者。けれど今の彼は、以前にもまして、嫌な空気を纏っている。


「エルフィーナ。……すっかり落ちぶれたな」

 マーティンは鼻先で笑う。

「町娘の格好なんかして、喋り方まで卑しくなって。“社交界の白百合”も聞いて呆れるよ」


 冷たい視線がエレナを値踏みする。


「ザフラーン様がご所望でなければ――君なんか、見るのも嫌だ」


 ザフラーンという名には、エレナにも聞き覚えがあった。

 婚約破棄直後から、何人目かの妾にやら、何番目かの妻にと、しつこく申し入れてきた大商人の名だ。


「――あの件、あんたが絡んでたの!?」


 エレナの声が震える。あの屈辱的な縁談に、目の前の男が関係していたとは、吐き気がこみあげる。


 マーティンは軽く肩をすくめた。


「穢れた身体で婚約破棄された君に、嫁ぎ先なんてあると思ってるのかい?

 ザフラーン様が“ありがたくも”第四夫人に迎えてくださるというのに。

 何が不満なの? 君に、選べる権利があるとでも?」


「私は……穢されてなんか、いない!

 あんたが変な噂を吹聴するせいで、どれだけ迷惑してるか、わかってるの!?」


 エレナは怒りに震える身体をどうにか支えながら、叫んだ。

 声はわずかに掠れていたが、その目にははっきりと怒りと恐怖が宿っていた。


「まあいい。ザフラーン様にはもう話を通してある」


 マーティンは冷笑を浮かべ、ツカツカと歩み寄る。


「さあ、ついてくるんだ」


 彼の手が伸びる。次の瞬間、エレナの二の腕が乱暴に掴まれた。


「やめて! 嫌よ、行かないわ!」


 エレナは必死で近くのテーブルにしがみついた。

 けれど、マーティンに続いていた男たち――無言の取り巻きたちが次々と手を伸ばし、椅子ごと、身体ごと引き剥がそうとする。


「やだ! 誰か、助けて……助けて、アシュレイさん!」


 エレナの叫びが店内に響いた。

 その声は、奥の帳場で店主と話していたアシュレイの耳に、はっきりと届いた。


 彼は驚いて振り返り、すぐさま店の中へ戻ろうとする――

 だが、腕をぐっと掴まれる。


「……やめときなさい」


 店主の声は低く、重い。


「悪いことは言わん。あの女に目をつけたのは、ファリド・ザフラーンだ。

 連れにきたのは、あのマーティン坊っちゃん。貴族さまの息子だよ。

 平民のわしらじゃ、どうにもならん」


 親切そうな表情を浮かべる店主に、アシュレイは一瞥もくれなかった。

 掴まれた手を静かに、しかし迷いなく振り払う。


「問題ない。残念ながら、私も貴族だ。それに――まだ騎士団長の肩書きも残っている」


 低く鋭い声が、店内の空気を一変させた。


 言い捨てると同時に、アシュレイは迷いなく店内へと踏み込む。


 視線の先では、エレナが必死でテーブルにしがみつきながら、男たちの手から逃れようとしていた。

 三人がかりとはいえ、彼女を傷つけまいとする無理な力加減のせいで、男たちはもたついている。


「貴様ら――何をしている。エレナから手を離せ」


 その言葉と同時に、アシュレイは一歩踏み出し、最も近くにいた男の腹へ鋭く拳を叩き込んだ。


「ぐっ……!」


 うめき声とともに、男はその場に崩れ落ちる。

 正確に急所を突かれた一撃だった。


「貴様、“紳士クラブ”に楯突く気かッ!?」


 怒声を上げたもう一人がエレナから手を放ち、アシュレイに向かって拳を振るう。

 だが――


 その一撃が届くより先に、アシュレイの体はひらりと身を翻していた。


 すれ違いざま、手刀が正確に男の首筋を打つ。


「……っ!」


 男は短く息を呑むと、そのまま崩れ落ちるように昏倒した。



 次々に味方を失ったマーティンは、呆然と立ち尽くした。

 エレナを掴んでいた指から、力がふっと抜ける。


 その隙を逃さず、エレナはアシュレイの背後へと飛び込むようにして身を寄せた。


「誰だっ! 僕は伯爵家の者だぞ!? 貴族に歯向かう気か!?」


 半ば腰が引けながらも、マーティンは声を張り上げる。

 だが――アシュレイは冷たい目で一瞥しただけだった。


「だから、何だ?」


 その声音は、刀身のように鋭かった。


「私はグランディス公爵家の三男。

 そして、エレナは――我が家の客人として、正式に王都に招いている」


 その一言で、マーティンの顔が強ばった。言葉にならない呻きが喉奥でくすぶり、足が自然と後ずさる。


 ――と、その時。


 店の入り口がバン、と音を立てて開いた。

 重たい空気を切り裂いて、制服を着た三人の騎士が店内になだれ込む。


「そこまでだ! アシュレイ団長、ご無事ですか!」


 鋭い声とともに、瞬く間に場が制圧されていく。


 エレナは呆然と、状況の変化を理解しきれずに目を白黒させた。

 その肩を、アシュレイの片腕がそっと抱き寄せる。


「安心しろ。彼らは味方だ。――魔法で救援信号を送っていた」


 その声には、どこか安堵がにじんでいた。



「くそっ、僕は元婚約者を迎えに来ただけだぞ! なんで騎士団なんかに連行されなきゃいけないんだ!」


 マーティンは、騎士たちに両腕を押さえられながら、ぎゃあぎゃあと喚いていた。

 だが、その声も遠ざかるにつれ、店内にはようやく静けさが戻る。


 エレナは、深く息を吐いた。

 気づけば、エレナの手も足も小刻みに震えていた。

 緊張で張りつめていた体が、急に限界を迎えたように、痛みとともにがたがたと軋む。


「……っ」


 泣くまいと唇を噛む彼女のそばに、アシュレイが静かに歩み寄る。


 そして、何も言わず、自分のジャケットを脱ぐと――

 ふわりと、エレナの頭から被せる。


 視界が薄暗くなる。

 その向こうで、アシュレイの低く優しい声が響いた。


「……泣いていい。

 誰にも、見えないようにしてあるから」


 エレナはジャケットの襟をぎゅっとつかみ、自分を抱きしめるように、そっと床へしゃがみ込んだ。

 ジャケットの内側からは、涙を押し殺すようなかすれた息遣いが、微かに漏れていた。



「……騎士団長様とは知らず、申し訳ありませんでした」


 おずおずと、店の奥から店主が姿を現した。

 先ほどアシュレイの行く手を遮った、あの老人だった。


 アシュレイは、ちらりとだけ鋭い目を向けた。

 だがすぐに視線を外し、ため息をつく。


「……脅されたのだろう?」


 低く、けれど責めることのない声だった。


「捜査には協力してもらうが――何か困ったことがあれば、グランディス公爵家を頼るといい。当主には話を通しておく」


 老店主は目を丸くして、頭を深く下げた。

 店内には、エレナのしゃくりあげる微かな息遣いと、外の風の音だけが残っていた。




 それからしばらくして、迎えの馬車に揺られていた。

 涙もなんとか引っ込み、エレナはアシュレイの隣に座っている。

 肩や二の腕が触れ合っていて――それだけでも、なんだか落ち着いた。


「あの人……前はもう少しまともだったんです。

 成人したころから、悪い仲間ができたみたいで……今は“紳士クラブ”っていう怪しい社交会に入り浸ってるって、カタリナが教えてくれました」


「ファリド・ザフラーン。名に覚えは?」


「婚約破棄の直後から、しつこく求婚してきてる人です。

 若くして財を成した大商人ということ以上は……あまり知らなくて。

 出身国では、複数の妻や妾を持つのが普通みたいで、最初は“十番目の妾に”って」


「話にならないな」


 アシュレイは、隠すことなく怒りを声音ににじませた。


「ええ、私個人としても、伯爵家としても、とうてい受け入れられるものではありませんので、丁重にお断りしているのですが……毎月毎月、飽きもせずに手紙をよこします。

 今は、かなり待遇が改善されて、第四夫人にって。」


「まさか、受けるつもりは――ないよな?」


 エレナは、思わず笑ってしまいそうになった。

 その問いが、どれほど真剣で、どれほど愚かで、そして――どれほど嬉しかったか。


「もちろん」


 あまりに簡潔なエレナの答えに、なんだかおかしくなって、二人で同時に吹き出した。


「でも、アシュレイさん、私に嘘つきましたよね」


「ん?」


 なんだ?とエレナの方に視線を向けると、彼女はそっと身体を乗り出し、のぞき込むようにしてきた。


「後遺症で戦えないなんて、嘘。すっごく強かったじゃないですか。

 ほら、二人目の男の人なんて、一撃で沈めてましたし――」


「ああ、それは、コツがあるんだ。力じゃなくて、技で落とす」


 アシュレイは、軽く手刀を振るような仕草を見せて、にやりと笑った。


「後遺症があって力が出なくても、ある程度は戦える。

 ……それに、あんな、みじんも鍛えていないヤツらに後れを取るほど、なまっちゃいないさ」


「私は――その“鍛えていないヤツ”に、手も足も出ませんでしたけど」


「それは仕方ない。……むしろ、よく抵抗してくれた。その分、俺が守るから……」


 アシュレイは言い淀み、一瞬手を彷徨わせた後、そっとエレナの肩に回して、自分の方へ引き寄せた。


「すぐに助けに行けず、申し訳なかった」


「大丈夫です。間に合いましたから……それだけで、十分です」


 傾きかけた午後の陽射しの中、馬車は軽やかな音を立てながら、カタリナの別邸へと向かっていた。

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