11 心の泡はしぼんでも
植物園の出入口はひとつだけ。
くるくると回る柵が、その内と外を区切るように設置されていた。
――ここは、三年前も、ちょっと苦手だったのよね。
入ってくる人とのタイミングや、アシュレイと離れないように気を配りながら、エレナは慎重に進む。
けれど、そちらに気を取られていたせいか――
「――っ」
彼女は不意に、アシュレイの背中にぶつかってしまった。
転びそうになったのを何とか踏みとどまり、顔を上げると――
アシュレイは前を向いたまま、ぴたりと動きを止めていた。まるで、時間が止まったかのように。
「どうしました? アシュレイさ――?」
エレナの声は途中で途切れた。アシュレイの視線の先に気づいたのだ。
淡い色のドレスに身を包み、日傘を差した貴婦人が、少し先に立っていた。
その目はまっすぐに、アシュレイを見ている。
次の瞬間、アシュレイはごく自然な仕草で歩みを再開した。
何事もなかったかのように、無表情で。
「……?」
ただならぬ気配に、エレナもそっと歩幅を合わせる。
そして、並んで貴婦人の脇をすり抜けようとしたその時――
「アシュレイ」
落ち着いた、けれどかすかに揺れる声が呼び止めた。
小さな声だったが、アシュレイの耳には、確かに届いた。
彼は一度だけ、低くつぶやく。
「……グランティーニ伯爵令嬢」
その言葉を、エレナははっきりと聞いていた。
アシュレイは、不自然なほど無表情で、歩みを止める。
まるで仮面をかぶったかのような、完璧すぎる無表情だった。
「……お元気そうね。」
彼女は日傘を少し上げて、アシュレイを見上げる。
アシュレイは、目を合わせているような、合わせていないような、微妙な視線のまま、答える。
「おかげさまで。」
彼女は、そんなアシュレイの顔を見て、それからエレナの方を一瞥する。
「フッ」
わずかに目が細められ、唇の端が片方だけピクリと動く。
はっきりと聞こえた彼女の鼻で笑う声。
エレナは、彼女の視線に、二年前の皆の視線が思い出され、胸を鷲掴みにされたような気持になった。
「――すっかりお元気になられましたのなら……今度一緒にお茶でもいかがですか?」
彼女の、桜貝のようなつやつやした唇が、にんまりと弧を描く。
値踏みして、蔑む視線……
エレナは、自分の気持ちが――角が立つほどふわりと泡立っていたはずなのに、
ひと混ぜでしゅんとしぼんでしまったメレンゲみたいに、力なく沈んでいくのを感じていた。
「お断りする。そのように誘われても困る。ベルジック卿に申し訳が立たない。」
「そんな、つれないことを――、古いよしみじゃないですか。」
「……断る。私は忙しい。迷惑だ。」
それは、一瞬にして空気を切り裂くような、鋭利な刃物の声音だった。
アシュレイは、それまでの無表情を一変させ――
背筋も凍るような冷たいまなざしで、グランティーニ伯爵令嬢を、はっきりと睨みつけた。
けれど、それはほんの一瞬のことだった。
すぐに何事もなかったかのように涼しい顔へと戻ると、彼はエレナのほうへ視線をやり、静かに腕を差し出した。
まるで、それが“当然のこと”であるかのように。
エレナは一瞬だけ戸惑った。
――町娘の扮装でエスコートなんかしたら目立ってしまう、と思ったのだ。けれど。
(……もう、いい)
そう思い直すと、おとなしく、アシュレイの腕に手を掛けた。
グランティーニ伯爵令嬢は、その腕と、アシュレイと、エレナをもう一度見た。
そして、今度こそ、隠していた嘲笑が顔ににじみ出て、わずかに口元を歪めながら――すれ違っていった。
「――エレナ、昼食にしようか……この近くになじみの店がある。」
アシュレイはまたいつもの穏やかな声で言った。
アシュレイがエレナを誘ったのは、町の軽食堂で、昼には遅い時間ではあったがまだ昼食を提供していた。
「昼から夜にかけて、オーダーストップがないから、王都の警邏をしていた頃に、よく世話になっていたんだ。」
通りの喧騒からは見えない、壁際の静かな席に腰を下ろすと、アシュレイがぽつりと言った。
「そうなんですね。店主にご挨拶とかしなくていいんですか?」
エレナが厨房を伺いながら言うと、アシュレイは首を横に振った。
「そんな間柄じゃない。」
やがて運ばれてきたランチプレートに取り掛かりつつ、アシュレイが口を開く。
「さっきはすまなかった。嫌な思いをさせてしまった……」
「……まあ、ちょっと……だいぶ……かなーり、嫌な気持ちにはなりましたけど……
アシュレイさんが謝ることはないですよ。」
エレナは、本日の日替わり定食、トマトソースのかかったチキンソテーを令嬢仕込みの優雅な手さばきで切り分けながら言う。
アシュレイもまた、チキンソテーにナイフを入れながら、ぼつぼつとつぶやき始めた。
「……あれは、グランティーニ伯爵令嬢……私の元婚約者だ。」
エレナは、聞いているのかいないのか、チキンソテーに視線を合わせたまま、黙々とナイフを動かす。
「私が戦地から帰還したのが、今から約一年前――、雌雄を決する最後の戦いで、私は大けがを負い、担架で運ばれて帰還した。
それから半年、ベッドでの生活を余儀なくされたのだが……
包帯だらけの私に恐れをなして病室に入れず、怪我の後遺症が決定的となった際に、伯爵を通じて婚約解消を申し出てきた。
今は……第二騎士団の副団長、ベルジック卿と付き合っているらしい。」
アシュレイは、ふと、ナイフとフォークを下ろすと、エレナを真正面に見据える。
「私とはもう、何の関係もない。」
エレナは、一口大よりもずいぶん小さく小さく切り刻んだ肉片を、口に押し込んだ。
十分咀嚼して飲み込むと、エレナは初めてアシュレイを見返す。
「ヒトの元婚約者を悪く言うのもなんですけど――、
嫌な感じの方でしたね……国の命で戦ってきたアシュレイさんを切り捨てるとか、信じられませんし、
あそこで見下す意味が分かりません。」
最後の一言を飲み込むようにして、またナイフを動かし、肉を口へと押し込んだ。
アシュレイは、また彼から視線を外して咀嚼している彼女を見つめた。
しばらく逡巡したあと、恐る恐る口を開く。
「……私は、君の護衛などと偉そうに言っているが――もう、騎士として剣を持つことは難しいんだ。
長時間、同じ姿勢を保つこともできないし、鍛錬では長剣をまともに振ることもできない。
とっさの踏み込みや、身をかわす反応も鈍くなった。……実戦はもちろん、警邏に出ることすら、もう危うい。」
エレナがちらりと視線を戻すと、アシュレイは食事の手を止め、テーブルの上で静かに手を組んでいた。
その視線は、まっすぐ自分の指先に落ちている。
「今は、まだ“療養中”という建前で、騎士団長の椅子に座らせてもらっているが……その期限も、もうすぐ切れる。
上からは、顧問か、実地から外れた事務職への異動を打診されている。」
「……その、気を悪くされたらすみません。
でも、アシュレイさんは……グランティーニ伯爵令嬢に、未練があるのかなって――」
エレナが鋭く切り込むと、アシュレイは驚いたように顔を上げた。
「まさか。
上司の縁で決まった婚約だった。
……あまり深く関わる前に出征して、それっきりだった。
今では――結婚してから幻滅されるより、よほど良かったと思ってる。」
「そうなんですね。婚約解消のくだりで、後遺症の話が出たので、もしかしたらって思っちゃったんです。」
エレナはナプキンで口元をぬぐいながら微笑んだ。
「騎士への未練は――彼女とは関係ない。
それに、護衛と言いながら、本当のところは君を守る力がないことは、申し訳なく思っている。」
「ん――それは気にしないでほしいですね。
男性が控えてる。それだけでも、嫌な思いをする可能性はぐっと減りますから。
助かっていますよ。
それに……家事も、してもらってますし。」
小さくつぶやくように言って、思わず視線を逸らす。
「……ありがとう、そう言ってもらえると、救われる。」
アシュレイは、少し恥ずかしそうに頬を染めるエレナをしばらく見つめた後、フッと表情を和らげた。
その笑みに、エレナの胸の奥が、ふわりとくすぐられるような気がした。
やがて食事が終わって、ささやかなデザートまで平らげると、給仕の従業員が二人のテーブルにやってくる。
「旦那様、少しよろしいでしょうか。シェフがどうしてもお話したいと……ええ、申し訳ありませんが、こちらまで。奥様はそのままでおくつろぎください。」
どこかわざとらしい誘いに、アシュレイもエレナも首をかしげるが、来なければ店から出さない、と言うような強い決意をにじませる従業員に、従うことにする。
アシュレイが物陰に誘い出されるや否や、ほかに客のいなかった店内に、
扉が荒々しく開かれ、数名の足音が乱暴に店内に踏み込んでくる。
エレナが振り返った瞬間、耳障りなほどに芝居がかった声が降ってきた。
「やぁ、エルフィーナ。元気になって、王都に出て来たって言うのに、僕に一言もないなんて、薄情じゃないかな?」
男たちの先頭で、芝居がかった仕草で、微笑を浮かべながら腕を広げたのは、マーティン・シュテーベル伯爵令息――エルフィーナの元婚約者で、婚約破棄の茶番劇を繰り広げた張本人だった。




