31.バーにて
夜。
学院の一角にある職員用の小さな酒場は、静かだった。
木造のカウンターに、柔らかい灯り。
学生は立ち入り禁止だが、教員はよく使う場所らしい。
「ここ来るの初めてかも」
チヒロが言うと、隣でルミナがグラスを回した。
「私もそこまで頻繁じゃないよ。飲み会好きなタイプに見える?」
「見えないな」
「でしょ」
即答に、ルミナは小さく笑った。
最初の一杯は、少し重い沈黙だった。
ただ、気まずいというよりは、落ち着いた静けさに近い。
学院の喧騒とは違う時間。
「……今日さ」
ルミナが先に口を開いた。
「授業、見に来てたでしょ」
「気づいてたか」
「そりゃね」
グラスを軽く持ち上げる。
「ちょっとだけ緊張した」
「意外だな」
「そう?」
ルミナは肩をすくめた。
「“見られてる方がうまくやろうとする癖”あるから」
「それ、教師としては致命的じゃないか」
「まあね」
あっさり認める。
少しだけ間が空く。
チヒロはグラスを見つめながら言った。
「でも、いい授業だった」
「ほんと?」
「ああ。理論じゃなくて、ちゃんと“人の動き”になってた」
ルミナは一瞬だけ黙った。
そして、少し視線を逸らす。
「……それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「じゃあ受け取っとく」
短い返事だったが、どこか軽かった。
外では風が揺れている。
窓の外の月は、ここでも二つあった。
「先生さ」
ルミナが少しだけ声を落とす。
「たまに思うんだけど」
「うん」
「なんでそんなに、“ちゃんと理解しよう”ってするの?」
チヒロは少し考えた。
「……職業病みたいなものだと思う」
「心理学者の?」
「いや」
グラスを軽く置く。
「多分、“分からないまま終わるのが怖い”んだと思う」
ルミナは少しだけ目を細めた。
「それ、結構しんどくない?」
「しんどいな」
「だよね」
沈黙。
でも不思議と居心地は悪くない。
ルミナは少しだけ笑って言った。
「でもさ、それって悪くないと思うよ」
「そうか?」
「うん。少なくとも、放置はしないでしょ」
「……それは、そうだな」
グラスが二杯目に進む。
ルミナは少しだけ頬を赤くしていたが、口調は変わらない。
「先生ってさ」
「ん?」
「怖い時でも前出るタイプだよね」
「いや、そんなことは」
「ある」
即答だった。
「昨日もそうだったし」
チヒロは少し黙る。
「……あれは、やらないとまずいと思っただけだ」
「そういうのを“前出る”って言うんだよ」
ルミナは笑った。
「まあ、嫌いじゃないけど」
ふと、静かになる。
店の奥では他の教員たちが笑っている声が遠くにある。
その中で、ルミナが少しだけ視線を落とした。
「先生さ」
「うん」
「私ら、たぶん変な仕事してるよね」
「変な仕事だな」
「人の感情どうこうって」
「うん」
「正解とかないし」
「ないな」
ルミナは少しだけグラスを見つめる。
「でもさ」
小さく続ける。
「ちゃんとやってると思うよ」
チヒロは一瞬だけ言葉を失った。
「……それは、君も?」
「私も」
あっさり言う。
「意外とね」
沈黙のあと、ルミナが軽く伸びをした。
「そろそろ帰る?」
「ああ」
チヒロも立ち上がる。
店を出ると、夜風が少し冷たかった。
学院の灯りが遠くに見える。
二人並んで歩く。
いつもの距離より、少しだけ近い。
「先生さ」
ルミナが歩きながら言う。
「明日もちゃんと授業やるの?」
「もちろん」
「そっか」
短い返事。
それから、少し間を置いて。
「じゃあ私も見に行くわ」
「監視か?」
「チェック」
軽く笑う。
学院の門が見えてくる。
ルミナはそこで立ち止まった。
「じゃ、ここで」
「ああ」
一拍。
言葉が続きそうで、続かない。
ルミナは少しだけ視線を逸らしてから言った。
「……先生ってさ」
「うん」
「思ったより普通だね」
「それは褒めてるのか?」
「さあね」
軽く手を振る。
「おつかれ」
「ああ、おつかれ」
ルミナの背中が暗闇に消えていく。
チヒロはしばらくそのまま立っていた。
胸の奥に、説明しづらい温度が残っていた。
悪くはない。
むしろ、少しだけ落ち着かない。




