29.翌朝の落ち着き
翌朝。
学院の中庭は、昨夜の騒動が嘘のように静かだった。
結界の修復もひとまず終わり、空に浮かんでいた黒い魔法陣の痕跡は薄く消えている。
「……嵐の後って感じだな」
チヒロが呟くと、隣から即座に声が返ってきた。
「まだ終わってないけどね」
ルミナだった。
いつものように腕を組み、少し眠たそうな目をしている。
だが足取りはしっかりしていた。
「結社の魔法、完全には消えてない。学院のどこかに“残滓”がある」
「残滓?」
「感情のクセみたいなもん。しばらくは生徒、変な反応しやすいと思う」
チヒロは頷く。
「……やっぱり心理的後遺症か」
「そうそう。先生の専門じゃん」
「専門って言われても、便利屋じゃないんだけどな……」
「今さら?」
ルミナは歩きながら笑った。
その笑い方は軽いが、目はしっかり周囲を観察している。
完全に“現場の目”だった。
食堂に入ると、空気が少し変だった。
生徒たちの会話が妙に小さい。
視線が落ち着かない。
誰かと目が合うと、すぐ逸れる。
「……まだ引きずってるな」
チヒロが言うと、ルミナはトレーを取りながら頷いた。
「そりゃそうでしょ。昨日あれだけ“否定の声”浴びたんだし」
「否定の声?」
「“お前は嫌われてる”とか“価値がない”とか、あれ全部でしょ」
ルミナはスープを受け取りながら、さらっと言う。
「普通にトラウマコースだよ」
チヒロは少し黙る。
「……あれを放置すると?」
「最悪、“会話しない方が安全”って学習する」
「それはまずいな」
「うん、かなりまずい」
ルミナは椅子に座り、スプーンを回した。
「だから昨日先生がやった“安心の再構築”は正解」
「でも一人じゃ限界がある」
「だから私らがいるんでしょ」
その言い方は、少しだけ乱暴で、でも自然だった。
食事中、近くのテーブルから声が聞こえる。
「なあ、昨日の授業さ……」
「正直ちょっと怖かったよな」
「でもさ、斉藤先生の言ったこと、少し分かる気もする」
チヒロは耳を傾ける。
ルミナは横目でそれを見ていた。
「ほら」
「?」
「ちゃんと効いてる」
「……まだ半分くらいだと思うけど」
「半分でも十分」
ルミナはスープを飲みながら言った。
「全部治すのは無理。現場ってそういうもん」
その言葉は妙に現実的だった。
だが不思議と、チヒロは少しだけ救われた気がした。
昼休み前。
廊下を歩いていると、ルミナが急に立ち止まった。
「先生」
「ん?」
「昨日さ」
彼女は少しだけ視線を外しながら続ける。
「空に向かって“逃げたら駄目”って言ってたじゃん」
「ああ」
「正直、ちょっと無茶だと思った」
「だろうな」
「でも」
ルミナはそこで一度言葉を切った。
それから、いつも通りの顔に戻る。
「……まあ、悪くなかった」
「それは評価として微妙だな」
「褒めてる」
「そうか」
短い沈黙。
廊下の窓から光が差し込む。
風が一瞬だけ通り抜けた。
「先生さ」
ルミナが歩き出しながら言う。
「理論で人を助けようとしてるけど」
「うん」
「たまに、自分の方が一番危なっかしいよね」
「……それは否定できない」
「でしょ」
ルミナは軽く笑った。
「だから放っとけないんだよ」
「え?」
「いや別に深い意味じゃないけど」
そう言って、先に廊下を曲がっていく。
振り返りもせずに。
「授業、遅れないでよ先生」
「ああ、分かってる」
チヒロはその背中を見送る。
少しだけ、胸の奥が落ち着かない。
だが悪い気分ではなかった。
(そしてその頃)
学院のどこか。
ひび割れた結界の奥で、微かな黒い感情がまだ脈打っていた。
それに気づいている者は、まだ誰もいない。




