1.恋愛経験ゼロの恋愛講義
私の名前は斉藤ちひろである。
名前だけ聞けば、だいたいの人間は優しそうな女性を想像するらしい。
しかし実際の私は、身長百八十五センチ、ベンチプレス百四十キロ、肩幅だけで廊下を塞げそうな三十二歳の男で ある。
学生にはたまに、
「先生、ラグビー部でした?」
と聞かれるが、違う。
筋トレである。
話しかけづらい見た目を、さらに鍛え上げてどうするのかと昔の自分に言いたいが、筋肉は裏切らない。
少なくとも女子は裏切る以前に、私に近づかなかった。
……いや、違う。
近づかなかったのではない。
私が近づけなかったのである。
中高六年間は男子校。
大学では「心理学部なら女子が多い」という極めて不純かつ浅はかな理由で進学した。
結果として、確かに女子は多かった。
だが私は、女子を前にすると脳が停止した。
「お、おは、おはようございます」
これを言うだけで心拍数が百二十を超える。
ゼミで隣に女子が座った日は、ノートに書かれた内容が一文字も頭に入らなかった。
当然、彼女などできない。
しかし人生とは不思議なもので、恋愛には敗北し続けた私でも、研究だけはうまくいった。
アドラー心理学に関する論文が評価され、私は二十八歳という若さで私立の
成陵実践大学の助教になった。
専門はコミュニケーション心理学。
人との距離感。
承認欲求。
対人関係。
そして──恋愛心理学。
人生とは、時に残酷である。
「では、“単純接触効果”について説明します」
私は教壇に立ちながら言った。
六月の湿った空気が教室を包んでいる。
百人ほど入る講義室には、眠そうな学生、真面目にノートを取る学生、こっそりスマホを見る学生が混在していた。黒板には大きく、
『恋愛心理学 第七回 親密性の形成』
と書かれている。
「人は繰り返し接触する相手に対して好意を抱きやすくなります。これを単純接触効果と呼びます」
私は淡々と話す。
「また、自己開示によって心理的距離は縮まり──」
そこで、一人の女子学生が手を挙げた。
中央列。ショートボブで、やけに目力の強い学生。
宮下 葵
である。
「はい、宮下さん」
私が言うと、彼女は少し首を傾げた。
「先生って、本当に恋愛わかってるんですか?」
一瞬、教室が静まり返った。
後方の男子学生が「おお……」と小さく声を漏らす。
私は硬直した。
来た。
ついに来たのである。
この質問は、助教になってからずっと恐れていた。
なぜなら私は──。
「先生、なんか恋愛を“研究データ”としてしか見てない感じするんですよね」
宮下は続ける。
「理論はわかるけど、“実感”がないっていうか」
周囲の学生たちがざわつく。
「たしかに」
「先生、女子と話す時ちょっと不自然だしな」
「この前コンビニで女子学生に会った時、敬礼してたらしい」
やめろ。
それ以上はやめろ。
私は咳払いした。
「経験の有無と学問的理解は別問題です」
「でも恋愛って、理屈通りにいかなくないですか?」
宮下は真っ直ぐこちらを見る。
「好きになろうと思って好きになるわけじゃないし、なんか気づいたら目で追ってたりするし」
私は言葉に詰まった。
なぜなら、その感覚を私は知らない。
三十二年間、一度も知らない。
黒板に書かれた『親密性』という文字がやけに白く見える。
「……斉藤先生って、恋愛経験あるんですか?」
教室が静まり返る。
逃げ道はなかった。
私はゆっくり眼鏡を押し上げた。
「……ありません」
三秒後。
「えぇっ!?」
教室が爆発した。
「マジ!?」
「うそだろあの見た目で!?」
「筋肉あるのに!?」
うるさい。
筋肉と恋愛は関係ない。
むしろ筋肉しかなかった結果が今の私である。
私は必死に平静を装った。
「しかし、恋愛心理学は経験則ではなく──」
「じゃあ先生」
宮下が少し笑いながら言った。
「恋愛したことない人が教える恋愛心理学って、説得力あるんですか?」
教室が静まり返る。
私は答えられなかった。
胸の奥に、小さな痛みが刺さる。
だがその瞬間、不思議なことに思った。
もしかすると私は、今までずっと“恋愛を避けながら恋愛を研究していた”のではないか、と。
そして宮下葵という学生は、初めてその矛盾を真正面から突きつけてきた人間だった。




