deception ~欺瞞~
最近忙しくてあまり投稿できず、申し訳ありません……!
「それが聴こえるようになったのは、最近だ。二週間ほど前、だったと思う」テーブルに置かれたコーヒーに手を付けずに、シンは思いつめたように語りだす。「私はその時、頭の中に響いた声を確実に受け取ったんだ」
「はぁ、それは大事だ」砂海は自分のコーヒーを飲み干し、小さく唸った。焙煎された芳醇な香りと深い苦味が同時に喉を浸している。「マスター、コーヒーおかわり」
「真剣に聞いてくれる?」と言うシンの言葉に少し棘が含まれていたので、砂海は姿勢を正した。
「要するに、幻聴に悩まされてるってことだろ?」
敵対勢力との小競り合いという簡素な仕事を終えたとき、シンは何かを話そうとしていた。それを察した砂海は、近くにあった喫茶店を指差し、駆け込んだ。
穏やかな雰囲気の老紳士が営む小さな純喫茶は、彼ら二人の背景と釣り合わない。砂海は少し肩身の狭い思いを抱く。
そんな思いを振り払うように辺りを見渡すと、店内はそれなりに賑わっていた。客の中には幼さを残した少年の姿もあり、この喫茶店が幅広い客層に人気があることを砂海は理解した。
口のつけられていないコーヒーは、とうに冷めていた。溶けきった角砂糖がカップの底に沈んでいるのも気にせず、シンはひたすら心に溜まった感情を、呼吸も忘れて吐き出す。
「どうすれば正解なのかが分からないんだ。怖いんだよ、この声を聴くのが……」
「その声は、どういう事を囁くんだ?」
「私の深層心理や欲望を分析して、色々なアプローチを仕掛けてくる……。『私の言葉に従えば、お前の願いは叶う』って」シンは瞳の奥に焦りと恐怖を滲ませ、不安そうに言葉を紡ぐ。「何より怖いのは、その声を聴いた瞬間、私は何かから救われた気になるってことなんだ」
狼狽えるシンにコーヒーを勧め、砂海は悩む。どうしたら、彼の恐れを取り払うことができるだろう。シンが覚束無い手で持ち上げたカッブの波紋が収まった時、砂海は声を出していた。
「気張りすぎて疲れてるんじゃないか? 夢や野望を持つことはいい事だが、たまには休むべきだ」
「でも……」
「任せとけって、仕事は代わりにやっておくから!」交渉以外はな、と砂海が言うと、シンは虚ろに笑った。
咄嗟に口走った当たり障りのない答えだ、と砂海は思う。しかし、彼はそれほど状況を深刻に見てはいなかった。彼らの仕事は、肉体的にも精神的にも負担が大きい。知り合いの何人かは心を壊した者もいて、今回のシンの相談もそんな有象無象の一つだと楽観視していた。砂海は膝の上の紙ナプキンにシンの様子を走り書きすると、それを乱暴にポケットに押し込む。
「で、様子はどうだった?」
「いい店でしたよ、今度紹介しましょうか?」
「そういう事じゃねぇよ」
事務所の壁に掛けられたダーツ盤からダーツを回収しつつ、ヴェルディゴはぶっきらぼうに訂正する。名目上はオフィスとなっているビルの四階を拠点とし、彼らは裏路地を制圧せんと活動していた。
「ボス、報告書はここに提出すればいいですか?」
書類を受け取るヴェルディゴは、サングラスを外していた。肉食獣を思わせる獰猛な瞳が顕になり、掻き上げた茶髪の前髪がよく目立っている。
「幻覚、ねぇ。ラリってんじゃねぇの、アイツ」
ヴェルディゴはそう言って小さく笑ったが、砂海はそこに僅かに残る怒りを確かに感じていた。
ヴェルディゴ一家にとって、ドラッグの使用や売買は御法度だ。一年前に禁を犯した構成員が何者かの『勘当』を恐れて留置所に居ることを望んでから、組織内でその話題に触れるのはタブーとなったのである。
「野望を叶えてくれる神様なんて、拝金主義のロックスターと同じだよな。居るわけがない、という意味だが」
「その例えはどうにかならないんですか?」
「じゃあ、誠実な政治家でどうだ?」
砂海が何も言わず部屋から退出しようとした時、不意にヴェルディゴから質問が飛ぶ。
「砂海、お前はどう思うんだ?」
「アイツに内偵なんて出来るはずがありません。疑わしきは罰せずですよ、ボス」砂海が溜め息混じりに答えると、ヴェルディゴはニヤリと笑って、言った。
「そうか、調査に私情は挟まないでくれよ?」
この組織は、擬似家族という奇妙な繋がりがあった。構成員が頭領のことを『父』と呼ぶのは、そのような家族意識が明確に現れたものだ。ヴェルディゴも『バカ息子』たちを愛し、穏やかな慈悲を持って接していた。そんな閉じた関係性の行く末を、砂海は冷めた態度で観察している。
「砂海は良いよなー……親父に気に入られてるだろ?」
「シンも昔同じことを言ってたわ……。あのなぁ、上に気に入られて何になる? 銃弾が届かなくなるか?」
砂海は部屋を出て待ち受けていた同僚の言葉を受け流し、ポケットの中の鍵を掴む。
「おい、どこ行くんだよ!?」
「っせーな……。外回りだよ、外回り」
「さすがエリート様は意識が高くていらっしゃる。お前の密告屋みたいな仕事も気に入られるためにやってると思ってたよ、俺は」
耳鳴りがした。砂海は辺りを見回し、足早にその場を去る。彼は、とにかくその場を離れたかったのである。
スピードの代わりに環境性を犠牲にしたような性能の黒いバイクにエンジンを入れ、砂海は大きく首を振る。これは恭順じゃない、仕事だ。何を悩むことがある、頼まれた仕事を只こなしているだけだ。相棒を売ったわけがないし、アイツの幻視や態度に恐怖を覚えたことなど毛頭ない。他のことを考えるんだ。砂海の思考と心境が妥協点を見出し、このフラストレーションやストレスを淡々とぶつけられる相手として、街を駆け抜ける彼は道端を歩いている強面の男を標的に設定した。
「おい、お前……」
振り向き、こちらを怪訝そうに睨むオールバックの男の頬に平手を打つと、そのまま倒れた男の襟首を掴み、彼は詰問した。
「喧嘩しようぜ、龍醒会のチンピラ共!」
右手が感じる鈍い痛みに気づき、砂海は瓦礫の積まれた一角に腰を下ろす。金属バットを掴んだまま倒れた男たちを見下ろし、彼は煙草に火をつけた。ここが寂れた立体駐車場の一角であることは、その後すぐに気付いた。
無我夢中で目の前の敵を殴り、修羅のごとく増援を屠り続けた彼は、自らの割れた額に気づき、そこから流れた血を満足そうに拭った。やはり暴れた時が一番冷静になれる。自身の仕事である遊撃隊はやりがいのあるものだった。
「ヴェルディゴの子分……! 伯父貴がこの事を知ったらタダじゃ置かねぇぞ……!」意識が飛ぶ寸前の朦朧とした声を振り絞り、龍醒会の構成員はそう吐き捨てる。
「それもそうだな。……じゃあ、ここでの一件は誰にも知られなきゃ良いッ!」
砂海は男から金属バットを奪い、顔面に向けて振りかぶる。ボールを打つ音とは程遠い破壊音が寂れた駐車場に響き渡った。
「キミヒト……そこまでにしておけッ!」
見知った声を聞き、砂海は狙いを外す。
「お前、なんでここに……!?」
シンは小さく息を吐き、砂海に躙り寄る。いつもの冗談を言う時の顔ではなく、砂海はその表情に少し気圧された。
「やり過ぎなんだよ……! ここで殺したら、情報が聞き出せないだろう!?」
もう帰った方がいい、とシンは何度か繰り返す。砂海は先ほど交わした会話を思い出し、無理はしないように、と言ったが、シンはそれを一笑に付した。
「君は説得とか情報収集を一番苦手にしているタイプだろう……? これは私の仕事だ」
「せめてボディガードくらいは」
「ここまで手酷くやっといて、ボディガードをやる必要は?」
砂海は無言で首を降り、シンからタオルを受け取ると、微かな記憶を頼りにバイクを停めた場所まで歩く。大事なのはボディガードではなく、監視役だ。だが、砂海は相棒を信頼していた。それなら、ヴェルディゴへの報告内容を変えることも吝かではない、と彼は思った。
バイクに二度目のエンジンを入れた時、彼はシンが何故自身の居場所を知っているのかに疑問を抱く。ただ、もしかしたら喧嘩の最中に連絡を取ったのかもしれない。記憶はないが、十分ありうる話だ。それほど砂海王仁という男は、相棒を頼りにしていたのである。
マフィア、ウソツカナイ