第139話:【139日目】平穏な朝のコーヒーと、魔王城の引きこもり
聖王国のブラックギルド連合を合法的かつ完全に逆買収し、周辺地域すべての100%ホワイト化を成し遂げてから一夜明けた、139日目の朝。
ホワイト株式会社の本社ビル最上階。代表取締役執務室から見える景色は、澄み切った秋の光に包まれていた。
整然と並ぶ魔導タワーマンション、自律飛行するドローン輸送網、書籍に出社する社員たちの晴れやかな笑顔。完璧なガバナンスと圧倒的な幸福。
俺――タクトは、全面ガラス張りのウィンドーからその穏やかな景色を眺め、深く息を吐いた。
「周辺エリアの完全ホワイト化か。前世のデスマーチから考えれば、奇跡のような平穏だな」
「タクト様、おはようございます。今朝も各支店の稼働状況、すべてオングリーンで順調ですわ」
秘書のシルフィが、最高に輝く笑顔で書類を差し出す。
隣町ログウッド、鉱山都市アイアンロック、穀物都市グリーンヘイヴン、そして港湾都市ブルーポート。それぞれの支店は完全にネットワーク化され、お互いのリソースを補い合いながら爆発的な相乗効果を生んでいた。組織のスケーラビリティは完璧に担保されている。
だが、プロジェクトマネージャー(PM)としての俺のルーティンは変わらない。俺はリビングに置かれた、クリスタルUIが美しく脈動するカレンダーの前に立った。
魔王復活という最終納期まで、残された時間はあとわずか。俺は指先を滑らかに滑らせ、残り「226日」の魔導シートをゆっくりとめくった。
残り226日 → 225日
シートから溢れ出した白銀の粒子が、部屋の中に心地よい香ばしい香りを漂わせながら収束し、代表取締役執務室のテーブルの上に、一台の洗練されたクリスタル製の器具を具現化させた。
SSRアイテム【魔導・極上焙煎珈琲機】
『※世界樹の果実から抽出した魔導豆を使用し、飲む者の脳細胞を活性化させ、一時的にタスク処理能力を50%向上させる極上の珈琲を全自動で抽出するデバイス。使用するたびに、周囲に強力な精神リラックス効果のある香りをデプロイします』
「キタ……。日常を彩る、最高のリフレッシュインフラだ」
「まあ! 素晴らしい香りですわ、タクト様! さっそくお淹れしますね」
シルフィが嬉しそうに器具を操作すると、執務室の中に、前世の高級カフェすら足元に及ばない芳醇なコーヒーの香りが広がっていった。
「タクト。その高貴な香りは、かつての私の役員室で飲んでいた、一杯十万ゴールドの珈琲すら泥水に思わせるな」
モップを持った大柄な男が、丁寧な動作で床を掃きながら静かに微笑んだ。見習い清掃員の黒崎だ。彼は自分がピカピカに磨き上げた床に傷一つつけないよう、細心の注意を払いながら、プロの清掃員としての所作を身につけつつあった。
「ふふ、黒崎。このコーヒーは、そんな使い捨ての贅沢とは違う。飲む者全員のウェルビーイングを高めるための、健全な投資だよ」
「……耳が痛いな。だが、確かに今のこの平穏な空間で飲む一杯は、何物にも代えがたい価値がある」
黒崎はそう言うと、いつの間にかコタツの中から首だけ出していた最高財務責任者のグレイシアと並び、シルフィから配られた小さなカップを受け取った。
「はぁ……。温かくて、脳の芯までとろけそうですわ。コタツの中から一歩も出たくありませんわね……」
グレイシアが猫のように目を細める。
ネクロディアやシオン、ザンギュラといった幹部たちも集まり、全員が穏やかな朝のひとときを共有していた。完璧なホワイト企業の、あまりにも平和で、あまりにも愛おしい「日常」がそこにはあった。
――しかし、その頃。
ホワイト経済圏の最北端、深い闇の結界に包まれた「エリア・ダーク」の深部。かつて世界を恐怖させた「魔王城」の玉座の間では、全く異なる絶望の「デスマーチ」が繰り広げられていた。
「ええい! なぜ誰も動かんのだ! 魔導Wi-Fiの速度が遅いぞ! 早く帯域を拡張しろ!」
「ひ、ひぃぃっ! 代行様、すでに魔王様が眠りについてから、システム保守予算はゼロ。我々は三日三晩不眠不休で魔力回路を手作業で繋ぎ止めているのです!」
頭上に真っ赤な「業務過多(ストレス120%)」のアラートを浮かべたゾンビ兵たちが、泣きながら魔法陣の修復に追われていた。
魔王軍の幹部(四天王)たちが次々とホワイト株式会社へ転職した結果、魔王城の現場は完全に崩壊し、無能な幹部代行たちによる不条理な残業と、力任せのハラスメントが常態化していたのだ。
そして、その玉座のすぐ裏手にある、ゲーム筐体とポテトチップスの袋が散乱した、薄暗い「引きこもり部屋」。
そこには、シルクの高級パジャマを身にまとい、だらしなくソファに寝転がってゲーム機を操作する一人の美少年がいた。
彼こそが、眠れる魔王の唯一の血族であり、世界で最も働くことを嫌うニートの息子――リオンだった。
「あー、うざ。代行たちの怒鳴り声がゲームの音を邪魔するんだけど。……っていうか、何これ?」
リオンが気怠げに網膜のインフォメーション画面を開くと、そこには魔王城の境界線までじわじわと迫りつつある、ホワイト株式会社の「通信包囲網」のニュースが表示されていた。
ゴールドリアの逆買収、グリーンヘイヴンの大豊作、ブルーポートの人材解放。ホワイト株式会社が周辺地域を100%ホワイト化し、今やこの魔王城を「丸ごとリノベーション(買収)」しようとしているという衝撃のロードマップ。
「……は? ホワイト企業? 誰もが笑顔で働く……? 朝5時に起きて、モップを持って、スライムに怒られながらピカピカにトイレを掃除する……?」
リオンは、ニュースに映る「見習い清掃員・黒崎(元ブラックCEO)」の必死なモップがけの姿を見て、全身に猛烈な鳥肌を立てた。
「嘘だろ……。あいつら、俺を『オンボーディング(雇用)』するつもりか!? この俺を、あの神聖にして不可侵のニートである俺を、朝早く起こして働かせる気だ! 最悪だ! 暴力だ! 拷問だろそんなの!」
リオンにとって、労働とは死よりも恐ろしい「絶対悪」だった。このままホワイト株式会社に買収されれば、自分のぐうたらな引きこもりライフは、あの冷徹なPMの手によって強制的に「定時退社(定時就労)」させられてしまう。
「絶対に働きたくない! ホワイト企業の侵略なんて、俺が直々にシャットダウンしてやる!」
リオンはソファから飛び起き、拳を握りしめた。
だが、彼には戦うための武力も、軍隊を率いるカリスマもない。あるのは、魔王の息子としての特権である、空間を歪めて転移する隠密パッシブスキル『虚空歩行』だけだ。
「……そうだ。噂によれば、あのホワイト社長の強さの根源は、毎朝めくる『日めくりカレンダー』にある。あれさえ奪えば……俺のために、一生ポテチとゲームを供給してくれる、最強の全自動ぐうたら執事(ドロップ人材)を引き当てられるはずだ!」
働きたくないという我欲が、ニートの少年にかつてない行動力を与えた。
「よーし、そうと決まればプロジェクト開始だ。絶対にモップは握らない!」
リオンはパジャマのまま、空間の裂け目へと身を躍らせた。
*
ホワイト株式会社、代表取締役執務室。
「タクト様。今回のコーヒー豆の調達コストですが、グリーンヘイヴン支店の流通ルートを乗せることで、さらに15%のコストカットが可能ですわ」
グレイシアがコタツから身を乗り出し、淹れたてのコーヒーを口に含みながら、完璧な財務諸表のホログラムを提示していた。
「素晴らしいな。これなら、全社員への『朝のコーヒー無料支給』を来週からデプロイできる」
俺たちが、温かいコーヒーの香りに包まれ、完全に油断していたその一瞬の隙だった。
ピキィン……!
執務室の中央の空間が、ガラスが割れるように不自然に歪んだ。
「――もらったぁぁぁっ!!」
歪んだ空間から、パジャマ姿の少年が弾丸のように飛び出してきた。その手は、俺のデスクの横、クリスタルカレンダーの台座へとまっすぐに伸びる。
「なっ……不審者!? ザンギュラ、防衛システムを!」
「しまっ……!?」
ザンギュラが盾を構えようとしたが、少年の『虚空歩行』による速度は、通常の物理法則を完全に無視していた。少年の指先が、カレンダーを固定する魔力のロックを一瞬でハッキング(すり抜け)する。
パリンッ! と小さな電子音が響き、台座に固定されていたクリスタルカレンダーが、少年の腕の中へと収まった。
「ハハハ! これで俺の勝ちだ、ホワイト株式会社! 働いたら負けなんだよ!」
「なっ……! お前は、一体誰だ!?」
俺が驚愕して叫んだその時、背後でザンギュラが目玉が飛び出さんばかりに絶叫した。
「り、リオン様……!? 魔王様の、あの引きこもりの御子……!?」
「え……? こいつが、魔王の息子か!?」
俺が息を呑む中、リオンはカレンダーを小脇に抱え、俺たちを見下ろして不敵にべーっと舌を出した。
「じゃあな! 俺は魔王城で、一生ぐうたらさせてもらうぞ!」
少年がパチリと指を鳴らした瞬間、空間が再び歪み、彼の姿はカレンダーと共に跡形もなく消え去ってしまった。
「タクト様、カレンダーが……奪われました……!」
シルフィが青ざめた顔で叫ぶ。
執務室に残されたのは、薫り高いエスプレッソの香りと、物語最大のターニングポイントの予感だけだった。
*
魔王城の薄暗い引きこもり部屋。
空間の裂け目から転がり出たリオンは、強奪したクリスタルカレンダーを大事そうに抱え、勝利の雄叫びを上げた。
「ハハハ! 大成功だ! これで俺の勝ちだ、ホワイト株式会社! 働いたら負けなんだよ!」
リオンは汚いソファの上にカレンダーを置き、さっそく「最強の全自動ぐうたら執事」を召喚すべく、シートへと手を伸ばした。
「よーし、さっそくめくって――」
だが、その瞬間。カレンダーのクリスタルUIが不吉な赤色にチカチカと点滅し、エラー音が響き渡った。
『エラー:本日のドロップ(めくり)は完了しています(1日1回制限)』
「……は? なにこれ、動かないんだけど!?」
リオンがいくらシートをスワイプしようとしても、カレンダーは強力な魔力ロックがかかったように、ビクとも動かない。
「ちぇっ、タクトの奴、今日はもうめくっちまった後かよ! 1日1回しかめくれない仕様なのか……。融通が利かないシステムだな!」
リオンはポテトチップスをかじりながら、ソファに寝転んで不満げにカレンダーを睨みつけた。
「まあいい。なら、日付が変わった瞬間に、俺が最初の1枚をめくってやる!」
絶対に働きたくないというニートの執念が、少年を深夜までのウズウズした徹夜待ちへと駆り立てる。
「見てろよタクト。日付が変わった瞬間に、俺のために一生ポテチとゲームを運んでくれる最強のぐうたら執事をドロップしてやるからな……!」
魔王城の薄暗い自室で、リオンは青白く脈動するクリスタルパネルを睨みつけ、ウズウズしながら日付が変わる瞬間を待ち続けるのだった。
(残り225日。明日は何が出る?)
【人物紹介】
■ タクト(代表取締役兼PM)
状況:周辺の完全ホワイト化を達成し、平和な日常のコーヒータイムを楽しんでいた最中、魔王の息子リオンによってクリスタルカレンダーを強奪されるという、プロジェクト史上最大のインシデント(仕様変更)に直面する。
■ シルフィ(社長秘書)
状況:社長と共においしいコーヒーを楽しんでいたが、目の前でカレンダーを強奪され、激しい怒りと焦りを感じている。
■ グレイシア(CFO)
状況:コタツの中から、リオンの侵入経路を財務監査ログ的に追跡中。カレンダーが失われたことによる、無形資産の損失評価額を計算し、眉をひそめている。
■ リオン(魔王の息子/引きこもりニート)
状況:ホワイト企業の「買収」の波に震え上がり、朝早く起こされてモップを握らされる妄想に恐怖。働きたくない一心でカレンダーを強奪し、自室に逃げ帰った。
■ 黒崎(見習い清掃員)
状況:本社の床を磨きつつ、侵入したリオンに警告しようとしたが、あと一歩及ばず。リオンの「働いたら負け」というぐうたらな執念に、かつての自分とは違う奇妙な不穏さを感じ取っている。




