793.憂鬱な朝に
自然と覚めた目が、薄暗い室内にぼんやりと広がる見慣れた天井を映し出した。
何でこんな、日が顔を出し始めたような時間に起きようと、思ったんだっけ?
あぁ、そうだ。
昨夜、ミュール様とテラさんに北の山での出来事を話をした後、ミュール様からお願い事を受けたんだった。
「≪癒しの水≫」
左手に生み出した癒しの水を顔に押し当て、ぼんやりした意識に目覚めを促す。
顔全体に張り付いた水から、ヒンヤリが伝わり、心地良い。
そのまま呼吸を止め、癒しの水が肌に吸収されるのを、暫し待つ。
あぁ、折角来てくれるシャーリーに、悪い事をしてしまうな……まぁ、今朝のシャーリーは、テラさんに独占してもらうとしよう……良し。
さてと、行くとしますか。
大きく朝の空気を吸い、寝台から起き上がり、最低限の身だしなみを整える……最低限で、良いのか?
モンスター討伐や、誰かに何か用件を聞きに行く場合は、それで構わないが、今回は少し毛色が違う頼み事だ……さて、どうしよう?
今、着ている普段着を見下ろし、考える。
どうせなら、見栄え一つでも、喜んでもらえた方が、良いか。
どうやらあの子は、俺の事を少し勘違いしている節がある……。
まるで、伝説に謳われる英雄であるかのように。
だが、それを望むならば、少しぐらい格好つけても良いだろう。
アムやガル兄が格好つけたら、それはそれは様になるんだろうけどな……。
俺では、道化にしかならない。
あの子が喜ぶなら、それでも良いか。
問題は何を着るかだ……選択肢など、殆どなかった。
服なんて、着回す普段着以外、ろくに持ってないからな……そうだ。
まだ買ってから一度も着ていない服が、たしかここに……。
覚醒を促す穏やかな揺れ。少し高く、落ち着いた心地よい声。
優しさと穏やかな日差しに包まれた朝である筈なのに、目を覚ました少年の心は少しの憂鬱を抱いていた。
少年が瀟洒な天蓋から視線を横へ向けると、そこには年の頃二十程の淑やかな女性が、寝台の横で、姿勢正しく立っていた。
彼女は、恭しく頭を下げる。いつもの様に。
「おはようございます。トーマス様」
「おはようサーヤ、良い朝だね」
「はい、トーマス様。旅には、良い日和かと」
差し込む朝日に手庇を作りながら、上体を起こし、トーマスは思う。
ようやく使用人の姿ではない、洋袴のサーヤに慣れた所なのにな、と。
「嗚呼、もう、今日なんだね」
「はい。出立は朝食後に」
「……そうだね。何時までも、ここにはいられない」
寝具から抜け出したトーマスは、その八歳という小さな体をサーヤへ預けた。
寝汗を吸った寝巻きが、するりと少年の肌から離れて行く。
王都での使用人達に囲まれた生活と違い、着替え一つにも時間が掛かる。
だが、全てを一人でこなしてくれるサーヤの事をトーマスは有難く思っていた。
父に願い、人員を最小限にして貰ったのは良かったと、トーマスは自身の着替えを任せながら、心の中で頷く。
八歳の少年にとって、親の付き添わぬこの旅行は、小さな冒険であった。
姉の様であり、師であり、大切なメリィ姉様。
ちょっと口煩いけど、最も信頼の置けるバッツ。
優しい使用人サーヤに、実直な専属護衛のランス。
本当はもっと多くの人達が、自分やメリィ姉様を守り、支える為に動いている事を、トーマスは知っていた。
それでも、トーマス少年の小さな冒険の尊さは、変わらない。
たとえ、王族の務めとして動かねばならない事の方が、多かったとしても。
(楽しかったなぁ……)
だが、冒険には終わりがある。
着替えが終わり、旅には向かぬであろう少々絢爛な上衣を纏ったトーマスは、大きく深呼吸をし、気を引き締めた。
「ありがとう、サーヤ。もうメリィ姉様は起きているかな?」
「はい既に。メリィディーア様は現在、食堂にて大切な語らいをなさっています」
サーヤも変な言い回しをするなぁ。
そうトーマスは思いながらも、扉を開いたサーヤに合わせ、寝室を後にする。
他者にとっては長く、トーマスにとっては短い廊下を歩く。
行けば終わる。だが、行かねばならぬ。
僅かに歩みの遅いトーマスの後ろを歩くサーヤは、何も言わない。
一歩、一歩、食堂へと進んでしまうトーマスの耳に、優雅な笑い声が聞こえた。
楽しそうな、メリィディーアの声が。
話し相手は、誰だろう?
トーマスは、考えるも、分からない。
護衛騎士隊隊長のクラウスさんだろうか?
それとも、メリィ姉様を射止めようと画策する何処ぞの貴族の息子だろうか?
後者ならば邪魔をしてやろう。
子供心と小さな嫉妬心に火が付いたトーマスは、その歩みを速めた。
サーヤは僅かに口元を緩めながらも、何も言わず、少年の後ろを歩く。
歩みを速めたトーマスは、食堂の直前で足をゆっくりと忍ばせ、そっと食堂の中を覗き込んだ。
瞬間、トーマスは後ろへ下がり、顔を引っ込める。
その動きを予測していたかのように、トーマスをサーヤが受け止めていた。
トーマスは自分を受け止めたサーヤへ向き直り、自身の口元に人差し指を当て、サーヤへも沈黙を保つ事を望んだ。
トーマスの目に、柔らかく弧を描くサーヤの目が、ハッキリと映る。
その目を見て、トーマスは確信した。
サーヤは知っていたのだと。
先程見た光景が嘘ではない事を確信する為に、トーマスはもう一度、食堂の中を覗き込んだ。
広く空間の空いた食堂。
飾り立てられた室内の真ん中には、長い、長い卓が一つ。
その卓の端で、二人は語らっていた。
一人は、輝く緑の髪が美しい、ハイディルム公爵家の令嬢、メリィディーア。
髪色に似た緑色の瞳が、まるで宝石のように朝日を反射している様にトーマスには見えた。
スッと通った鼻筋も細く流れる顎も、今日も変わらず綺麗だなと、思いながらもトーマスは、そのメリィディーアの表情に不思議な感覚を抱く。
その謎を、トーマスは即座に解き明かした。
普段から柔らかく感じている口元が、より、柔らかく、喜びを雄弁に表しているのだと。
トーマスは微笑むメリィディーアを見て、大きく頷いた。
そして、トーマスの視線は、メリィディーアの後ろに立つ輝く全身鎧の男性、護衛騎士隊隊長クラウスの渋い顔――には向かず、メリィディーアの語らう相手へと向いた。
彼女の正面に座る男性は、トーマスからは斜め後ろからの姿しか見えない。
だが、それが誰か分からぬほど、トーマスは愚鈍ではなかった。
あの金の髪を、見間違えたりはしない。
城で会った時や、この町で会った時のような庶民的な普段着ではなく、式典の時に見た、赤い装いでもない。
白を基調とした服は、細く、その青年の体に合っていた。
普段、自分が着ている服には劣るものの、良い仕立てのものであるとトーマスは気付く。小さなパーティーならば、あれで十分だろうと思う程に。
それが王城内ですら庶民的な普段着で歩く青年の、精一杯の着飾りであると知ったトーマスは、そっと顔を引っ込める事にした。
(メリィ姉様とマルクさんの邪魔は、しないでおこう)
再びサーヤを見上げたトーマスは、今度は両手を前に出し、サーヤのお腹を押す様に前進を始めた。
トーマスの動きに合わせ、下がるサーヤの口元は、感情を押し殺す様に硬く端で結ばれていた。そうしなければ、何かが零れ出しそうなほどに。
二人の談話を邪魔せぬ様に動くトーマスの背後で、声がした。
「逃げるなら、もっとお静かに」
驚きと共に、トーマスがピクリと跳ねる。
振り返ったトーマスを待ち受けていたのは、自身を射抜く鋭い目であった。
モンスターを目だけで射殺すと噂されるのも無理はない、尖った眼光。
だが、トーマスは知っている。
その内側が、優しさに満ちている事に。
「気付いていたんですね、マルクさん」
「はい。最初から」
そして、目と目を合わせるトーマスの視線が、ゆっくりと目の高さまで下りた。
真っ直ぐ前を向くトーマスの目に、屈んだマルクの表情が広がる。
「おはようございます、トーマス様」
「はい! おはようございます」
ほんの僅かに口角を上げた、柔和な笑み。
それだけで、トーマスの小さな憂鬱は、溶けて行く。
トーマスの前に、そっと手が差し伸べられた。
「さぁ、一緒に朝食を」
「あの……僕はお邪魔では……」
「あはは。私は、トーマス様の見送りに来たんですよ」
「僕の?」
「はい」
態とらしく笑うマルクの顔を見て、トーマスは思う。
そんな嘘をつく人じゃない、と。
トーマスは弾む心を抑えながら、マルクの手を取った。
「行きましょう、マルクさん」
「はい――おっと」
そしてトーマスは、マルクを引っ張る様に食堂へと進む。
そこには、三つの笑みがあった。
メリィ姉様の為じゃなく、自分の為に来てくれた。そう喜ぶ少年の笑みが。
はしゃぐ心を隠せぬトーマスを見て、嬉しそうに口元を緩めるサーヤの笑みが。
そして、少年に手を引かれ、食堂へと戻る青年の、小さな微笑みが。




