魔女新生
「瞳を穿たれた一角獣よ、お前はこの現世において再び生を受けることを欲し、心臓を捧げてこれを承諾するか?」
汚泥に沈むその最中、耳に届いた何者かの声にエルトリンデは己の耳を疑った。今の今までエルトリンデの懇願する声は無視され続けていたのに、エルトリンデの心が折れかけていたその時に限って呼び掛けられるなど都合が良すぎるのではないか?
ならば、この朗々とした男の声は、終わりの間際に聞こえた幻聴に過ぎないのか?
(だけど……、だけど、もし本当に応えてくれるというのなら……!)
恐らくこれが最期の機会、これを逃せばもう意志が保たない。希望など与えてなるものかと泥中に引きずり込もうとしてくる暗黒を振払い、エルトリンデは力を振り絞って叫びを上げる。
「承諾する!!」
纏わりつく暗闇が一層濃さを増して、エルトリンデを沈めてやろうと牙を剥く。
エルトリンデが盲目でなければその目には暗闇に浮かび上がる無数の亡者、意志を失って汚泥の一部と成り果てた者たちの姿が見えていたことだろう。
必死に抗いながらエルトリンデは垂らされた可能性の糸に縋り付く。こんなところで消えるわけにはいかない。
(早く…! 早く応えて……!)
「ならばよろしい。だが、お前達に与えられるのは人としての生ではない。女神とその信奉者達、その全てを敵に回す邪悪な魔女としての生だ。
心するがいい。人が、世界が、光の中に生きる全ての者達が、魔女の心臓を食い破らんと一丸となってその牙を向けてくるであろう。立ち向かう覚悟はありや?」
これより訪れる苦難への確認の問い。契約を持ちかけてきた男の試すような物言いにエルトリンデは憤慨する。
「巫山戯るなぁっ!!!!」
怒号と共にエルトリンデに纏わり付いていた暗黒が消し飛ばされる。
魔女だと?
結構なことではないか。元よりエルトリンデは全てを敵に回して葬り去るつもりなのだ。むしろこちらから奴らの脳裏に魔女の名を刻みつけてくれよう。
魔女が女神の威光に恐怖するのではない。女神の御下で生きる者たちにこそ魔女の怒りを恐怖として与えてやる。
エルトリンデはもう恐れない。例え、征く道に立ちはだかる邪魔者がいようとも、これから築き上げる屍山血河の中に打ち捨ててくれよう。
さあ、だから早く!!
「……っ! 素晴らしいっ!なればこそ俺も期待に応えるに否はない」
望んだ答えを得たと男は喜気を溢した。
復活、……いや
魔女新生の時、ここに来たれり。
語り部の男によって終末喜劇の開演の合図が鳴らされる。
悪魔の指先が、運命の歯車を廻しだす。
『ここに契約は成った』
絶対者の作り出した道を通してエルトリンデの魂、一角獣の剥落魂が現界に顕現する。
これこそは悪魔の臍下にて魂縛を解き放ち、現世に舞い戻りし真なる魔女の証明。
なれば次に必要なのは、その魔女の魂を振るうに相応しい器である肉体。
魔女の使い魔たる剥落魂の力を十全のものとして扱う為には、元となる亡骸に多少なりとも手を加えなければならない。
現世にてエルトリンデを蘇らせようと外法を発動させた、男の両の眼が亡者たちによって抉られた。
その瞬間……
「がっ!!ああああああああああああああああああああああっ!!」
エルトリンデの存在しないはずの瞳に激痛が走る。
光の槍で両目を穿たれた時とは比べ物にならないほどの痛みがエルトリンデを襲った。
『餞別をくれてやろう』
狭い穴の入り口に、巨大な岩塊を無理やり詰め込もうとするが如く、超存在の御力の一端を内包した義眼が押し込まれる。
この義眼は悪魔からすれば、愛し子へのささやかな贈り物に過ぎない。
しかし、人の身にとっては過ぎた代物である。
例えるならば、小さな恒星だ。
この悪魔の義眼はただそこに在るだけでエルトリンデの身を焼き、苛む無情の星に他ならない。
エルトリンデの体が耐えられないとばかりに崩壊を始める。
そして同時に、丁度いい機会だとばかりに、悪魔の御業による肉体の再構築が始まった。
「ぐっ…!がああああああああああああああああああっ!!」
実に単純明快な解決方法である。
エルトリンデの体が義眼の力に耐えられないというのなら、耐えられるように根こそぎ作り変えてしまえばいい。
もう死んでいるにもかかわらず、いっそ死んだ方が幸せだと思えるほどの痛みが、両目から体中に広がる。
破壊と新生がエルトリンデの肉体で繰り返される。
細胞から遺伝子の一片に至るまで全てが壊し尽くされて、以前より強靭な物へと次々に取り替えられていく。
手足が千切れて弾け飛んだと思えば、すぐに新たな手足が生える。
新しく生み出された臓器に押し出されるようにして、古い臓器が溶解されて血混じりの黒い液体となって口から流れ落ちていく。
愉悦を溢しながら見つめる悪魔の視線の先で、生まれ変わりのプロセスと呼ぶには乱暴に過ぎる工程はなおも終わらない。
(まだ…! まだ、私には為すべきことがある……!)
しかし、ここで消えるわけにはいかない。
まだ、何も始まってすらいないのだ。
エルトリンデは吹き飛びそうになる意志を必死にかき集めて、崩壊と新生の責苦に耐え続けた。
いつしかエルトリンデを襲う体の痛みは消えていた。皮膚の表面からは蒸気が立ち昇り、急速に熱気が排出されていく。
肉体の再構築が完了した。
元々は肩ほどの長さしかなかった赤毛の髪が、生え変わるように長く伸びて黒と赤の斑に染まり、エルトリンデの生まれたばかりの姿を覆い隠している。
はらりと長髪の隙間から覗く、エルトリンデの胸の中央には赤い刻印が淡く光を放っている。
心臓の位置に刻まれたこの刻印は契約の証であり、エルトリンデが人の身を完全に捨て去って魔女として生まれ変わったことを意味する。いつの間にか生身の心臓の代わりに埋め込まれていた魔晶製の心臓が、真紅に輝くその身を震わせた。
心臓が脈を打ち始める。
最初は静かに、しかし段々と力強く鼓動の主張が激しくなっていく。
「…………」
ゆっくりと得たばかりの新しい両目が見開かれた。
右に浮かぶは2つに別れた赤い瞳、左に浮かぶは縦に割れた金色の瞳。
それぞれの瞳が像を結ぶ。
「ふふっ、悪趣味ね……」
エルトリンデの目の前には巨大な門があった。
悪魔の義眼に初めて映し出されたその門は、暗闇に在ってその存在感を遺憾無く振りまいている。
聖者と魔女、2つに分かたれた戦場と、それを天上より睥睨する女神と悪魔による至上の盤上遊戯。
エルトリンデが目を見開いた瞬間に、この場に現れたのだろうか?
いいや違う。
門は今までこの場所で、待ちわびるかのようにエルトリンデを見下ろしていた。
盲目であったとはいえ、これほどの存在に気づかずにいた自身には呆れる他ない、とエルトリンデは含み笑いをもらす。
エルトリンデには分かる。この門は誰の前にも現れる。
いや、むしろ誰の前にも常に存在している、といったほうが正しいだろうか。
「あなたは、ここでずっと私を待っていたのね」
要は波長の問題なのだ。戦いへの参加を決めたその時にこそ、門は初めてその姿を現すのである。
「だとしたら、随分と長いこと待たせてしまったわね」
エルトリンデは門扉に手を掛ける。全く抵抗無く開く。
向こう側には闇があった。
黒より暗い、暗澹たる未来への道先に、エルトリンデは躊躇すること無く足を踏み出す。
友というほどに好いてはいないが、元より暗闇には慣れているのだ。
これからエルトリンデが世界に引き起こす災いを考えれば、この暗闇はむしろ祝福でさえある。
現世への道筋は既に示されている。悪魔によって先立って現世に引き上げられた自身の剥落魂を感じる方向へと、エルトリンデはただひたすらに歩いていけばいい。
現世に魔女が解き放たれた。
全体重かけて門を開いたシュラが非力に感じる。




