祥順先生と補習する寛茂
「今日は何の件だか分かりますか?」
「えっと、今日提出した書類って事だから……」
寛茂はちらりと、笑みを張り付かせた祥順を見てから考え込む。今日提出した書類は旅費精算だけではないのだろうか。浩和は二人の様子を気にしながら自分の旅費精算書を作り始めた。
浩和の動きが気になったのか、寛茂は彼の手の動きを追いかけるようにして視線を動かした。領収書が見えたのだろう。寛茂は思いついた、とでも言うかのように顔を上げる。
「あ、旅費精算!」
「あたりです。
で、こちらがその精算書です」
祥順は出来の悪い生徒をしかるような、変に抑揚を押さえた声を出しながらテーブルに彼の旅費精算書を広げる。浩和はその旅費精算書を盗み見た。これはすごい。浩和は自分の表情筋がひきつったのを感じた。
あちこちに赤線が引かれている。波線が引かれていたり、丸で囲まれていたりしている。
自分のものかは別として、学生時代に誰しも一度は見た事があるだろう“赤い答案用紙”のようであった。
「うわぁ……」
絶望と溜息が同時に寛茂の口から吐き出される。
「うわぁじゃありません」
祥順は溜息を吐いた。寛茂は小さな声で再び謝罪を口にする。祥順は本当に落ち込んだ様子の彼を見て口元を緩めた。
「私が一つずつ質問や指摘をしますから、ミスを潰していきましょう。
一緒にやればミスの理由も分かりますよ。多分」
祥順の言葉にぺこぺこと頭を下げ、寛茂は背筋を伸ばした。彼は旅費精算書のデータを開き、修正準備をする。浩和はそんな二人の様子を気にしながらも自分のものを入力していく。
「はい、まずはここ。
そもそも表計算ソフトで起動したファイルの計算式が間違っています」
「ええ」
早くもうんざりとした表情を寛茂は浮かべた。
「あなたの間違えだらけになっている数字を足すと――こう。
でも……」
祥順は素早く電卓を叩くとその計算結果を寛茂に見せた。寛茂は納得がいかないという表情で電卓と旅費精算書を交互に見た。
「何度も計算したんですが、あなたの旅費精算にある、合計欄と数字が違うんです。
つまり、足し算の式がおかしいという事です。
後でまた混乱する原因になりそうなので、先に直してしまいましょう」
寛茂の持っているマウスに祥順の手が伸びる。反射的に自分の手をマウスから離しつつ、寛茂は口をとがらせて小言を呟く。
「俺、計算式はいじってないです」
「その部分を変えていなくても、他の部分を変更する事で範囲の指定がおかしくなったんだと思いますよ」
反抗されるのは想定内だったようだ。祥順はやんわりと彼の言葉を肯定しつつ、原因となるであろう部分をマウスカーソルで示した。
「ここに行を追加したりしませんでした?」
「あ」
「最終行の関数が、増えた分までは計算するようになっていなかったようですね。
雛形を改造している節があったので、それが原因かと考えたんですが」
「……すみません、やりました」
寛茂はうなだれた。浩和は日にちごとに分けた領収証を確認している。二人のやり取りを聞いているせいで、口元は少しだけ弧を描いていた。
「雛形は変えない方がいいですよ。
そうすれば余計なミスをしなくて済みますしね」
「はい。で、これはどうすれば直せます?」
「ああ、簡単ですよ。
元の雛形に戻すか、計算範囲を指定し直せば良いんです。
今回は元の雛形に戻させていただきますね」
祥順はそう話している間に増えていた行数を減らし、元の雛形に修正した。寛茂の方はそれを瞬きしながら見つめていた。まるで目の前で魔法が使われたかのようである。
「さ。正しい書類を作成する土台はできました。
一つずつ確認していきますよ!」
「は、はいっ」
寛茂は面倒見の良い、素敵な先生を得たようだ。だが、この速度では時間いっぱいかかるだろうな、と他人事のように鼻で笑い、浩和は自分の作業に集中したのだった。
終業時間を迎えた浩和はまだぶつぶつとやっている二人を残してミーティングスペースを出た。紗彩に電話をかける為である。彼女の方が、終業時間が早い。移動中や残業中でなければ出るだろう。
浩和の読み通り、紗彩は三回目のコール後に出た。雑踏の中にいるのか、周囲のざわついた音が聞こえてくる。
「はい」
「あ、紗彩?
浩和だけど」
「何々、電話でお返事?」
「そう」
浩和のあっさりとした答えに紗彩は笑う。浩和はメールの質問に関する返事を全て行い、今日あった出来事を話し始めた。
付き合っていた頃も仕事が終わって合流すると、その日の出来事を互いに話していた。そんなノリだった。
「何それ、浩和ってばすごく愛されてるじゃない」
紗彩がそう言ったのは朝のコーヒー差し入れの件である。愛されているかは別として、互いの距離は縮んでいるなという実感はあった。
「そう?
でもありがたかったな」
「朝からコーヒーの差し入れなんて普通なら思い浮かばないし、そもそも出勤のチェックなんてしないんじゃないの?」
「でも、彼は総務部だから。日課だと思うよ」
紗彩が浩和の幸せを考えているのは分かる。だから、親しい人間の影を見つけたらこうして身を乗り出してくるのだ。
「いーや、違うわ」
「またまた。
君がそうなったからといって、俺もそうだと?」
誰かとくっついて欲しいのだろう。ただ、自分と同じように幸せになって欲しい。それが彼女の気遣いだとは分かっているが、少しだけきつい言い方になってしまう。
「そ、そこまでは言ってないわ」
少しだけひるんだかのような声色を出す紗彩だったが、浩和が言い過ぎたと言う前に口を開く。それは、前向きに余計なお世話という言葉だった。
「カジ君に会わせてよ。
そうしたら、本当の所、どうなのか見極めてあげる」
「どうしてそうなるんだ……」
浩和は頭を抱えたくなった。
2023.10.8 誤字修正




