涙はどこからでるのか
私にとって涙はどうにもならない感情に心を占拠され自分が制御下ではなくなってしまった時に溢れるものだ
だが、悲しい時や嬉しい時など自分の感情に従って流せる人もいる。もしかしたらそういう人が過半数なのかもしれない。
そういう人を見た時はなぜか微かな嫉妬と過剰なほどの尊敬の感情がわく。泣く理由など自分が決めることができ、自由にしていいはずなのに。
人は意識的にも無意識的にも「こうあるべき」と考えてしまう。私が「涙を流すのは感情に従っているべき」と考えてしまうように。
自分の小さな世間で生きている人は私だけでは無いはずだ。私は今までの人生で得た経験や知識をもとに「常識だと思われるもの」を構築し、自分が大衆と同じであることを主張することで自分の居場所を作っている。
SNSやテレビ、新聞などの情報媒体が出てしまったことで小さな世間が広まってしまった。「こうあるべき」が様々な分野で広まってしまった。私のような人に流されやすく劣等感がある人間には耐えきれない世界になりつつある。
どうすればよいのだろうか。
私はどうすれば自分を確立することができるのか。
自分が正しいなんて到底思えない。私は大衆の中の一人でいたい。
誰かに「大衆に馴染んでいるか不安だ」「私はまともになりたい」と吐露してしまったことがある。
そう言われたら優しい人は「そんなことないよ、そう悩んでいるからまともな人なんじゃないかな」と言ってくれる。
私が言わせたのだろう。
誰だって大衆に馴染んでいるか不安なはずだ。
きっとそうだ。
そうじゃないと私は潰れてしまう。
私だけが大衆に馴染もうとしているのであれば私だけが異常者であることの証左になってしまう。
おそらく私が人を尊敬しているように、その人も誰かを尊敬しているはずだ。
他人の感情は見えないし、本音を話しているかも分からない。だからこそ生きている全員が憶測で考えざるを得ない。
分からないからと言って理解しようとする姿勢を崩す理由にはならないが。
人と話せば話すほど自分が未熟であり、長所などないように思える。
いい人と関わると「私がこの人と関わるのは分不相応だ」とどうしても思ってしまう。この魅力的で心地いい人は私と関わるよりも有意義なことに時間を使うべきだと思ってしまう。
相手の感情を考慮していないのに。
私は失礼だ。自分の感情に振り回され他人の感情には見向きもできていない。
私には何があるのだろう
自分のことはどうやっても見ることができないじゃないか
目は前についてるのだから
私には何ができるのだろう
自分が見えない人にできることとできないことの判断が出来るわけないじゃないか
手は動かすことができるけど、役には立てる自信がない
こんな私がいることを知って欲しい
読んだあなたもこう思ってるなら嬉しい
私は孤独な異常者なのではないか、そう思ってしまったなら私がいる。
私と共に孤独を感じよう。理解などできないのだから孤独であることを話そう。楽しいはずだ。
臆病な人間に他者を受け入れる余白があるだろうか、責任感がある人間がこのような文章を書くだろうか、私はそうは思わない。
感想は受け付けることができない。
感想を受け付けることができる時はここに私はいない。
感想を受け付けることができるということは、臆病でなくなった証なのだから。
自分で自分を認めることができた時、私はこの文章をどう感じるのだろうか。




