84・公爵と皇后の密約(第三者視点)
ヴォルフラムとリュディガーが退室したことに、ブライトクロイツ公爵は気づいていないわけではなかった。二人よりも優先しなければならないことがあっただけだ。
「アンドレアス様!」
「アンドレアス様、……アンドレアス様!」
ブライトクロイツ公爵とコンスタンツェが、昏睡するアンドレアスにすがりつく。ただし呼びかけているのは同じ肉体であっても、同じ人物ではない。
ブライトクロイツ公爵は、初代皇帝アンドレアスに。
コンスタンツェは己の夫、第六代皇帝アンドレアスに。
(ええい、どうなっておるのだ!?)
ブライトクロイツ公爵は焦っていた。
公爵の計画では、今ごろこの身は公爵ではなく皇帝と呼ばれていたのだ。獅子の短剣を授かり、皇帝殺害の大罪人たるモルガンを処刑し、その功をもって焦がれ続けた至高の座を得ていたはずだった。
アンドレアスにはヴォルフラムという皇子がいるが、まだ三歳。これからシルヴァーナ王国との戦が始まるという緊急事態に、健康に不安のある幼君を戴くわけにはいかない。
ヴォルフラムを除けば、先帝の兄であるブライトクロイツ公爵が帝位継承権者の筆頭だ。ジークフリートという優秀な後継ぎもすでにいる。誰もブライトクロイツ公爵の帝位継承に反対すまい。したとしても、ねじ伏せられる。
しかし完璧だったはずの公爵の計略は、たった一人の少女によって暗礁に乗り上げてしまっている。
皇妃ガートルード。女神の愛し子であり、神使を従える彼女を皇太子に指名したジークフリートの妃に据え、女神の権威という鉄壁の守りを手に入れる。
ガートルードはそのために必要不可欠な駒だった。……そう、駒に過ぎなかったのだ。だがその駒が生け贄を連れ去り、さらに魔沼と魔獣の群れの発生という危難まで立て続けに起きてしまった。
今やガートルードは、ブライトクロイツ公爵が皇帝の座を維持するため必要不可欠の駒になりつつあるというのに。
魔沼がなぜ発生したのか、いつまで魔獣が生まれ続けるのか。はっきりした理由はまだわからない。ジークフリートはなにやら推察しているようだが、今の公爵にじっくり検討している余裕などなかった。
今後も湧き続ける魔獣を制御するには、女神の愛し子にして神使を従えるガートルードを手元に置かなければならない。
ガートルードがその神威で魔獣を寄せつけずにいる間に、ジークフリート率いる対魔騎士団が魔獣どもを討伐するのだ。そうすれば貴族も民もブライトクロイツ公爵に感謝し、この方こそ皇帝にふさわしいと熱狂的に支持するにちがいないのだから。
だが忌々しいことに、ガートルードには聖ブリュンヒルデがある。あの生意気な少女に命令できるのは皇帝その人だけだ。代理人では足りない。
ならば、皇帝そのものになってしまえばいい。いや、なるしかない。
そう判断したブライトクロイツ公爵はジークフリートとリュディガーを護衛に駆り出し、奥の宮殿までたどり着いたのだ。リュディガーはあからさまに不満そうだったが、同じく魔獣が出現しているはずの奥の宮殿と皇帝一家の安否が気にかかったのだろう。文句は言わず、同行してくれた。
ここまでの道のりはひどいものだった。ジークフリートの推察通り地面のあちこちに魔沼が湧き、魔獣が我が物顔でのさばり、不運にも行き合わせてしまった使用人や役人たちを捕らえては貪り食っていた。
彼らをいちいち助けるジークフリートとリュディガーにはいらいらしたが、彼らにへそを曲げられては公爵の命が危うくなってしまう。仕方なく堪え、やっとここまで来たというのに。
「アンドレアス様、私です! クラウスめが参りましたぞ!」
何度公爵が呼びかけても、アンドレアスはぴくりとも動かない。ゆっくり胸が上下していなければ、死んでしまったと思うところだ。
(くそっ……!)
初代皇帝のころから皇宮の地下に存在していたという魔沼、頻発する地震。
今まで伏せられていた事実を問いただす前に、ブライトクロイツ公爵は初代皇帝の口から『ブライトクロイツ公爵クラウスに帝位を譲る』と証言させなければならなかった。皇太子が定められていない今、アンドレアス亡き後の皇帝はアンドレアスの指名で決まるのだから。
だがこのありさまでは、証言など不可能だ。
今さらながら、使用人どもを助けていたリュディガーとジークフリートに苛立ちを覚えてしまう。公爵たちが到着した時、初代皇帝にはまだ意識があり、リュディガーになにやら話すだけの力があった。もっと早くたどり着けていれば、皇后や皇子の面前で、帝位を譲ると証言させられたのだ。
皇后と皇子が証人なら、誰もブライトクロイツ公爵の即位に反論などできない。華々しい即位式は後回しにせざるを得ないが、とにかく皇帝にさえなってしまえば、リュディガーに命じガートルードを捕獲できる。
しかし、これでは――溜め息をつきかけた時、公爵の脳内に閃きが走る。
(証言させられないのなら、証言したことにしてしまえばいいではないか!)
「……皇后陛下」
ブライトクロイツ公爵はコンスタンツェの耳元でささやいた。
「どうでしょう。ほんの一時、皇帝陛下が意識を取り戻され、この私を次の皇帝に指名された。……そのように証言してくださいませんかな」
びく、とコンスタンツェの肩が震えた。白絹の手袋を嵌めたままの指が、きゅっとアンドレアスにかけられた毛布を握る。
「これは皇后陛下、貴方にもヴォルフラム殿下にも利のあること。どのみち皇帝陛下がみまかられたなら新たな皇帝を立てねばなりませぬが、今の状況では、ヴォルフラム殿下を新たな皇帝に望む者はほとんどおらぬでしょう」
「……」
「しかし新たな皇帝を選ぶため、争う余裕は我らにはございませぬ。ゆえに皇后陛下にお願いするのです。皇后陛下が私の願いを聞き届けてくだされば、帝位は円滑に受け継がれ、忌まわしい魔獣どもに帝国貴族一丸となって対抗できる。むろんヴォルフラム殿下もむげには扱いませぬ。皇太子にはジークフリートを立てますが、ヴォルフラム殿下にはジークフリートの養子になって頂きましょう」
ブライトクロイツ公爵は、立て板に水とばかりにまくしたてる。
これは決してコンスタンツェにとっても悪い話ではないはずだ。魔獣が跋扈するこの状況で、皇帝唯一の皇子とはいえヴォルフラムを皇帝に推すのは恩を受けたアッヘンヴァル侯爵家くらいだろう。
幼帝が成長するまで皇后を摂政に立てる、という手もなくはないが、コンスタンツェは摂政に立つにはなにもかも不足している。身分も人望も後ろ楯も政治的な知見も。
ならばおとなしくブライトクロイツ公爵に恩を売っておき、己とヴォルフラムの身の保証を得るべきだ。
従順に降るというのなら、ブライトクロイツ公爵とて鬼ではないのだ。悪いようにはしない。ジークフリートの次の皇太子には最終的にはガートルードに産ませた子を立てるつもりだが、ヴォルフラムには適当な爵位と捨て扶持を与え、母親共々『病死』するまでは面倒も見てやろうではないか。
まともな頭があれば頷くはずだ。
だがこの皇后はまともではない。潜ませた草の報告によれば、アンドレアスに夢中で周囲がまるで見えていないそうだ。夫の身体がまだ生きている今、夫の死後など考えられないかもしれない。
ましてやかつての主であり、エリーゼの父であり、ずっと敵対してきたブライトクロイツ公爵相手には。
そう簡単には受け入れられないだろうと覚悟していた。
「……条件を、呑んでくださるのならば」
だからゆらりと顔を上げたコンスタンツェがまっすぐ視線を向けてきた時は、驚き……それ以上におののいたのだ。
「ガートルード……あの忌まわしいあばずれを捕まえ、私の前に引きずってきてくださるのならば、貴方の申し出を、受けましょう」
瞋恚と嫉妬の混ざり合った、魔沼よりもおどろおどろしくよどんだ双眸に。




