79・地の底より出でしモノ(第三者視点)
残酷な表現があります。
ゴボ、ゴボボ、ゴッ……。
なにかがぬかるみをかき分け、沈みそうになりながらも足掻き、のたうち、悶え、岸辺に指先を引っかけて這い上がってきたような。
肺腑に溜まった泥を、鬱屈と共に吐き出したような。
不吉な音と、人間の本能的な危機感をねっとりと撫で上げられる馴染んだ感覚に、ジークフリートは反射的に叫ぶ。
「足元に気をつけろ!」
ゴボボ、……ゴォォッ……!
今までとは比べ物にならない震動と、すさまじい轟音が鼓膜をつんざいた。
また地震が起きたのだと、ジークフリートと部下たち以外の誰もが焦っただろう。
だが次の瞬間、ホールの床のあちこちに亀裂が走り、割れた床の破片が吹き飛ばされた。床よりもさらに下、頑丈な皇宮の基礎も岩盤も突き破り、噴き上げた黒い泥の奔流によって。
同時にたちこめた濃厚な匂いを潮の匂いだと即座に理解できたのは、ジークフリート含む対魔騎士団の騎士たちを除けば、海に近い領地を持つ者くらいだっただろう。
「ぎゃあああっ!?」
不運にも割れた床の真上にへたり込んでいた青年貴族が、黒い泥に噴き上げられ、天井に跳ね返って勢いよく落下した。ぐしゃ、と嫌な音をたてて床に叩きつけられた後、ありえない方向にねじ曲がった四肢を何度かけいれんさせ、動かなくなる。
「きゃ、……っ……」
近くで目撃してしまった若い令嬢は、悲鳴を上げる前にからめとられた。床が割れ、ぽっかりと空いた穴からあふれ続ける黒泥に――そこから湧き出た異形に。
ぼきぃっ。
黒泥をぼとぼとと撒き散らしながら令嬢の首に食らいつき、骨ごともぎ取ったのは羊……に、見えた。泥まみれの毛皮に混じり、鱗がびっしり生え、後ろ足だけで直立していなければ。
血まみれの口から、ぎざぎざの牙が覗いていなければ。真っ赤な目が凶悪な光を宿していなければ。
全身から悪意と殺気を発散していなければ。
「嫌っ……」
「……!」
すぐそばで絶叫しかけた貴婦人にジークフリートは素早く接近し、当て身を食らわせた。意識を失い、くずおれる貴婦人を素早く寄ってきた部下に任せる。
無抵抗の女性に拳を振るうなど騎士として許されないが、今回ばかりは仕方ない。
やつらが女性や子ども……無力でやわらかな肉の主が上げる高い声を聞き分け、最優先で襲ってくるのは経験上わかっている。
だが、ジークフリートとて万能ではない。警告を発する前に、今や会場のいたるところに湧いた穴から次々と異形の生き物が這い出し、貴族たちに襲いかかっていく。
羊、馬、熊、狼、犬、猿……姿は様々だが、いずれも鱗を生やし、真っ赤な目をぎらつかせている。
前肢だけで直立するモノ、後ろ足だけで駆けるモノ、口から伸びた大蛇のような舌で跳ねるモノ。いずれも本能的な嫌悪を煽るまがまがしい姿に、そこかしこから悲鳴が上がる。
「な、なんだアレは!?」
「化け物っ……」
「なぜ、あんなモノが皇宮に……!」
(アレらがなにか、わからぬとは)
混乱する貴族たちに、ジークフリートは笑いたくなった。ここにいるのは帝都周辺に領地を持ち、生まれてからほぼすべての日々を安全な帝都で過ごしてきた貴族たちなのだ。
かつては自分もそうだった。
ただ貴族に生まれただけで、己は特別なのだと驕っていた。なにも知らずに。
だが、今ならわかる。
「魔沼が湧いた! これから魔獣の大群が湧き続けるぞ!」
ジークフリートが警告を発するや、会場をどよめきが揺らした。
「魔沼だと!?」
「ここは帝都、しかも皇宮だぞ。なぜ魔獣など!」
「ガートルード皇妃もいらっしゃるというのに……!」
貴族たちがわめく間にも、黒泥……魔獣を生み出す凝った魔力の泥からは絶え間なく異形の化け物が這い出してくる。逃げまどう者は男も女も、老いも若きも、身分の高い者も低い者も等しく標的にされる。
魔獣にとって人間は、動く餌に過ぎないから。
「ギャアアア!」
「ひっ……、く、来るな、来る……、あぁぁぁっ!」
たしなみとして武術を学んではいても、実戦経験のない貴族はあっという間に捕らわれ、生きたままむさぼり喰われていった。
血肉を、骨を咀嚼するおぞましい音に震え上がる者はいない。そんな余裕は誰にもない。
「貴婦人がたを守れ!」
ジークフリートの命令に従い、対魔騎士たちは貴婦人たちを囲む円陣を作る。事前に女性を集めておいたのは幸運だった。最小限の人員で守ることができる。
「我らも続け!」
続いてリュディガーが号令し、近衛騎士たちが加わった。魔獣討伐の経験はなくとも、対人戦に長けた彼らはじゅうぶん戦力になる。
これで女性の方は心配あるまい。
問題は――。
「おいっ! なぜ儂らを守らんのだ!?」
「そうだ! 我らは帝国の藩屏たる貴族だぞ。我らを守ることこそ騎士の義務ではないか!」
「さっさと我らを守り、安全な場所へ逃がせ!」
騎士の円陣の内側へ殺到しようとする男性貴族たちである。
もちろん己や己の妻子は我が手で守ろうとする男もあまた存在し、護身用の短剣で勇ましく戦っている。しかし我を守れとがなりたてる腑抜けも、同じくらい存在するのだ。嘆かわしいことに。
「ジークフリートよ、彼らも守ってやれ。いずれ私の支えとなってくれる者たちだぞ」
ジークフリートの陰からブライトクロイツ公爵が命じる。若かりしころは文武両道をうたわれた皇子だったはずだが、過ぎた野望と年月は公爵から勇気と武力を奪い去り、代わりに保身と惰弱という名のぜい肉をつけてしまったようだ。
確かにここで命を救われれば、彼らはブライトクロイツ公爵を熱烈に支持してくれるだろうが。
「無理です」
ジークフリートは断言した。飛びかかってくる犬の魔獣を予備用の片手剣で斬り捨てながら。
「無理だと?」
「魔沼が発生したのは、おそらくここだけではありません。皇宮のいたるところに発生し、魔獣を生み出し続けているでしょう」
しかもいったん発生した魔沼からは、最低でも数時間は魔獣が出現し続ける。数日間出現が続いたケースもある。
一度収まればしばらくは沈黙するが、その期間もまちまちだ。数ヶ月沈黙することもあれば、翌日復活することもある。
「すなわち、今の皇宮に『安全な場所』などありません。強いて言うなら対魔と近衛の両騎士団が揃ったここが最も安全かと」
もちろん近衛以外の騎士団も皇宮警備に当たっているが、魔獣討伐の経験のない彼らがどの程度戦えるかはわからない。さすがに皇帝一家の住まう奥の宮殿は無事だと思うが……。
「な……っ、なぜ、なぜそんなことになるのだ! 皇妃の破邪の力は失われたというのか!?」
ブライトクロイツ公爵の疑問は、この場に居合わせた全員の疑問でもあっただろう。
不入の地の魔獣どもを軒並み消滅させ、欠陥品とまでさげすまれたヴォルフラムに健康を取り戻させたガートルードの強力な破邪の力。神使さえ従える彼女が在る限り、少なくとも皇宮に魔沼が発生するなどありえないはずなのに。
ジークフリートは首を振った。
「……皇妃殿下のお力は健在です。もし万が一お力が失われたのなら、まっさきにヴォルフラム殿下が影響を受けられたでしょう」
ヴォルフラムが以前とは見違えるほど回復し、ガートルードとダンスまで踊った姿はみなが目撃している。瘴気に侵された身体では、ああはいくまい。
「う……っ、な、ならばなぜ、なぜこの皇宮に魔沼が発生する!?」
その答えを、ジークフリートはすでに予想していた。
「簡単です。……魔沼は今突然発生したのではなく、ずっと前から皇宮の地下深くに存在したのですよ」




