80・櫻井さん(第三者視点)
破邪の力――シルヴァーナの直系王女が持つ力とは、魔獣や魔獣の呼気から生じる瘴気といった邪悪なるものを『寄せつけない力』だ。『滅する力』ではない。
七百年の昔、シルヴァーナ王国の祖となった『始まりの乙女』は女神シルヴァーナの加護を受け、王国の大地から魔獣を一掃したという。その後、乙女から女神の血を受け継いだ王女たちにより魔獣は王国に一歩たりとも立ち入れなくなり、シルヴァーナ王国は魔獣の危機を免れた大陸唯一の国となったのだが。
「『始まりの乙女』は魔獣を一掃した。そう、女神の加護……破邪の力は、最初からそこにはびこる魔獣を退散させることはできなかった。『始まりの乙女』といえども、まずは実力で魔獣を殲滅する必要があった」
「あ……」
ブライトクロイツ公爵の表情が強ばった。ジークフリートの推測の帰結が見えてきたのだろう。
決して知能が低いわけではないのだ。ただ救いようがないほど野心が強く愚かなだけで。
「ゆえに私は考えました。皇宮の地下にははるか昔から……おそらくは宮殿が完成する前から、魔沼が湧いていた。なんらかの力によってずっと封じられていたそれが、今、あふれ出したのだと」
元々存在していたものに、ガートルードの破邪の力は作用しなかった。むろん湧き出た魔獣はガートルードには近づけないし、近づこうとした時点であの神使が消滅させるだろうが。
「宮殿が……完成する前から……?」
ブライトクロイツ公爵の顔から血の気が引いていく。その脳裏をよぎるのは、初代皇帝だろう。この地に皇宮を建設すると決めたのは初代皇帝だ。魔沼の存在を把握していなかったはずがない。
だが初代皇帝は今回の策略を実行するに当たり、魔沼の存在についてブライトクロイツ公爵にはいっさい伝えなかった。
さすがの初代皇帝もこのタイミングで魔沼が出現することまでは見通せなかったのか。それとも――。
「……今は、推論に時を費やすべきではありません」
背後から飛びかかってきた馬の魔獣を振り返りもせず片手剣で斬り捨て、ジークフリートは父公爵たちを見回す。
「今はただ生き延びることだけに集中しなければ。……貴殿らも帝国貴族なら、己が身は己自身で守られよ。魔獣にとって人間は身分も血筋も関係なく、単なる餌ゆえ」
守れ、逃がせとわめいていた貴族たちがひゅっと首をすくめた。
奥の宮殿の二階にあるヴォルフラムの部屋には、まだ魔獣は押し寄せてきていなかった。中の宮殿から上がる悲鳴も、ここまでは届かない。
だがソファで休むヴォルフラムは、なにか大事が起きたと即座に感じ取った。心臓の奥の骨とも腫瘍ともつかぬ硬い感触が、かつてないほど大きく拍動したから。
「く……」
「ヴォルフラム様?」
かすかなうめきを漏らしたとたん、控えていたヨナタンが心配そうに覗き込んでくる。奥の宮殿で留守番をしていた彼は、ヴォルフラムが顔面蒼白になって戻り、モルガンの一件を聞かされてからというもの、ましになりつつあったはずの心配性が完全復活してしまった。
「やはり寝台で休まれた方がいいのではありませんか? 今、治癒魔法使いも呼んで参りますので」
「いや、いい。横になってしまってはいざという時動けないし、治癒魔法使いは皇帝陛下の治療に専念して欲しい」
どのみち使いすぎた魔力は自然に回復するのを待つしかないが、この身体は幸いにも回復が早いようで、気分もだいぶ楽になってきた。
ヴォルフラムが首を振ると、ヨナタンはやりきれなさそうに拳を握った。
「……なぜ、シルヴァーナの使者がそんな暴挙に出たのでしょう。皇妃殿下に対する仕打ちに憤るのは当然ですが、なにも皇后陛下のお命を狙わなくとも……それもヴォルフラム様の目の前で……」
「まだそうと決まったわけではない、と言ったはずだぞ。先に襲いかかってきたのは皇后陛下で、自分は身を守るために風魔法を発動させただけだとブラックモア卿は証言したのだから」
前世の職業柄、嘘にはさんざん鍛えられている。
あの時のモルガンは茫然自失として、明らかに様子がおかしかったが、偽りを述べているようには見えなかった。
しかし。
「身を守るために放った魔法で、なぜ皇帝陛下があれほどのお怪我を負われたのですか? 殺意があったとしか思えません。それに、ブラックモア卿は凶器も所持していたそうではないですか」
状況はモルガンにとって徹底的に不利だ。誰もがヨナタンと同じように考え、モルガンを皇帝殺害をもくろんだ大罪人だと決めつけている。
ヴォルフラムと――彼女以外は。
(……櫻井さん、だ)
彼女は。……ガートルードは。
ヴォルフラムの、神部薫の知る櫻井佳那とは似ても似つかない。けれどそれはヴォルフラムだって同じだ。前世の同僚や知人が今のヴォルフラムを見たとして、神部薫だとは誰も思わないだろう。
少女をかばい、交通事故で死んだ神部薫が異世界の皇子に転生したように。
他人のため尽くし続けて死んだ櫻井佳那が、異世界の王女に生まれ変わった。そんな奇跡が起きたって不思議ではない。いや、奇跡くらい起きるべきだ。……報われるべきだ。彼女は。佳那は。
それにそう考えれば、すべて納得がいくのだ。
六歳とは思えぬあの落ち着きも、聡明さも、傲慢な神使を従えたカリスマも……他人のために自分を犠牲にする気高い心も。
それに。
『汚くない……わけではありませんが、誰のお腹の中にだって入っているものでしょう。栄養になってくれるのに、汚いなんて思いませんよ』
かつての佳那と同じ言葉を、ガートルードは口にした。
見知った人間は誰もおらず、瘴気にむしばまれた幼い身体に放り込まれたヴォルフラムをつなぎとめてくれたのは、あの記憶だった。
ヴォルフラムと佳那以外、知るはずのない言葉。慈愛に満ちた眼差し。
……彼女だ、と直感した。確かめたかった。本人に。
でもその前に、こんなことになってしまった。
佳那は、ガートルードは、自国の貴族とはいえ、なんの理由もなくかばい立てするような女性ではない。
ちゃんとあるのだ。彼女にしか見えていない理由が……モルガンが無実だと信じる根拠が。
ガートルードに確かめたい。彼女が佳那なのかどうかも含め、すべてを聞き出したい。
だが、ガートルードは狼蜘蛛に変化したレシェフモートと共にモルガンを連れ去ってしまった。行き先はおそらく皇妃の宮殿だろう。
ヴォルフラムがおもむいたところで、神使が会わせてくれるとは思えない。皇后コンスタンツェであろうとブライトクロイツ公爵であろうと、ガートルードは聖ブリュンヒルデ勲章の特権を振りかざせば門前払いすることができる。
彼女に命令できるのは皇帝だけだ。
しかしその皇帝は瀕死の床にある。
(……皇帝は……たぶん、長くないだろう)
力及ばず、何人もの患者を見送った前世の経験がそう告げている。
前世の医療がそうであったように、この世界の治癒魔法とて万能ではない。天才的な治癒魔法使いなら切断された腕を完全につなげることも可能だろうが、すでに失った血や患者の受けたダメージまでは癒せない。
今のヴォルフラムの魔力と技術では、止血が精いっぱいだった。
甚大な損傷を受けた臓器の治癒は叶わなかった。肝臓、腎臓、心臓、肺……どれも致命傷を負ったはずだ。ヴォルフラムの止血も治癒魔法使いの治療も、もはや延命処置にしかなるまい。
今生の父、アンドレアスに対し、親子らしい情愛を覚えたことはなかった。前世で父親というものに嫌な記憶しかないせいかもしれないが、息子のために他国の幼い王女を平然と犠牲にする姿勢には嫌悪しか感じられなかった。
その『父』が死にゆこうとしている。
かすかな虚ろを胸の奥に見つけ、たじろいだ時、扉が激しく叩かれた。




