74・転生ものぐさ皇妃、女王の使者をさらって逃げる
「なに、を……」
モルガンがのろのろとガートルードに目を向けた。信じられない、なにを考えているのか。非難の混じった眼差しに、ふふん、とガートルードは笑みを返す。
(やっと、まともにこっちを見たわね)
淑女としてうやうやしく扱われるより、こんな眼差しを向けられる方が痛快だなんて、自分もだいぶこの場の雰囲気に呑まれているのかもしれない。それともびくっとするモルガンが妙に可愛く見えてしまうせいか。
どちらでも、これからすべきことは変わらないけれど。
「な、な、なっ……、そのようなこと、アンドレアス様は……」
泡を食ったブライトクロイツ公爵はなにかを口走りかけ、ぶんぶんと首を振る。
「と、と、とにかく! まだ六歳であられる皇妃殿下と、帝位継承権を持ち、筆頭公爵の地位に在るこの私! どちらを優先すべきかなど、考えるまでもない。そうであろう!?」
公爵の呼びかけに対する貴族たちの反応は、大きく三つに分かれた。
一つは全面的に賛同する者。他国の貴族が皇帝を害したことに変わりはないのだから、同じく他国から輿入れしてきた皇妃の主張など容れるべきではないと考える者たちで、高位貴族が多い。
もう一つは反対する者。皇妃がいかに幼くとも、一方のみの言い分で沙汰を下すのは公平ではない、という主張はもっともであると考える者たちだ。こちらは中位から、比較的下位の貴族が多い。
今一つは中立。帝国貴族としては公爵の言い分に賛同するが、さりとて神使を従えた女神の愛し子に歯向かうのも恐ろしい。どちらにも良い顔をしたいし、恨まれたくない。そう考える者たちは階級を問わず、高位から下位まで幅広い。
いずれの派閥の者たちにも、共通する懸念は聖ブリュンヒルデ勲章だ。
この勲章の受勲者はかのブリュンヒルデ皇女を除けば、ガートルードしかいない。『前例』が遠い過去であり、当時を知る者もいないがゆえ、皇帝の殺害未遂という帝国を揺るがす一大事にもその特権の行使が許されるかどうか、判断しかねているのだ。
唯一、判断できるはずの皇帝アンドレアスはヴォルフラムの止血、そして治癒魔法使いによる治療で即死こそ免れたようだが、とても意志表示などできない。……できるようにならない可能性の方が、高いかもしれない。
最高意志決定者の、突然の欠落。
そこに乗じて、ブライトクロイツ公爵は己こそアンドレアスの後釜に収まろうとしているのだろう。
ならばガートルードだって乗じてやる。
「レシェ!」
「かしこまりました、我が女神」
応じる神使の声が魔力を帯び、異国情緒に満ちた衣装をまとう身体がみるみる膨れ上がった。
「うわあぁっ!」
「な、なんだ、これは……」
「身体が、……動かないっ……」
荒れ狂う魔力の奔流に押さえつけられ、床に押さえつけられる人間たちを嘲笑うように、現れたのは蜘蛛の脚を持つ巨大な狼だ。大きさは象ほどだが、会場の広さと動きやすさを考慮したゆえのサイズであり、その気になれば皇宮よりも巨大化できる。
北の王。
その名を知らぬ者でも、本能で悟っただろう。
彼の者に逆らってはならない。怒らせてはならない。
わずかでも機嫌を損ねれば、死神の鎌が振り下ろされる――。
ガートルードの身体を不可視の腕が抱き上げ、そっと狼の背中に乗せた。たった一歩でモルガンのもとまで移動した狼蜘蛛は、蜘蛛の脚でぞんざいにモルガンをつまみ上げ、ぽいっと背中に放る。
「ま、待て……」
「グォォォォォンッ!」
震えていたブライトクロイツ公爵がやっと絞り出した声は、狼蜘蛛の咆哮にかき消された。ヒィィッ、と悲鳴を上げる貴族たちには一瞥もくれず、狼蜘蛛は疾走する。
その先は壁だが、問題はなかった。狼蜘蛛を恐れるように、あるいは頭を垂れるかのように、壁がぼろぼろと崩壊したからだ。
開かれた大きな穴をくぐり抜ける直前、なにかに呼ばれたような気がして、ガートルードは振り向いた。目が合った瞬間、すがるようにゆがむヴォルフラムの翡翠の双眸に胸がずきんと痛む。
(ごめんなさい、ヴォルフラム皇子)
ヴォルフラムにしてみれば、父親を襲った犯人をガートルードが勲章を振りかざしながら連れ去るも同然なのだ。さぞ幻滅しただろう。でも今、事情を説明している余裕なんてない。
「待てっ……! お前にいなくなられては……!」
往生際悪く追いすがろうとするブライトクロイツ公爵を両側から制止したのは、リュディガーとジークフリートだった。なおも暴れていた公爵は、ジークフリートになにやら耳打ちされ、ぴたりとおとなしくなる。
(助けてくれたの?)
さっきもコンスタンツェからかばってくれたし、騎士団の貴婦人として忠誠を捧げられた身だが、実父と天秤にかければ実父を選ぶだろうと思っていたのに。
こちらを見上げるオパールの左目からは、いかなる感情も窺えない。だがなんとなく、『よくやった』と激励されているような……いやいや、どうして父親の邪魔をされて喜ぶ……?
わけがわからなかったが、今はここから脱出するのが最優先だ。
ガートルードは疾走する狼蜘蛛の背中から振り落とされないようふわふわの被毛をしっかり掴む……必要はなかった。背中周辺は魔力の網が張り巡らされ、身体がふんわりと支えられるおかげで、高級車さながらの乗り心地だったから。
「……ちょっと、なにをするの!?」
同じ恩恵を受けているはずのモルガンがのろのろと背中から降りようとしているのに気づき、ガートルードは慌ててその腕を引っ張った。
背中から倒れるようにしてやっと引き戻せば、モルガンは焦点の定まらない目を向ける。その手にはまだ、コンスタンツェに押しつけられたという短剣が握られていた。
「なぜ、私をかばったりなどなさったのですか?」
「は……?」
「殿下もご覧になったはずだ。私が皇帝を殺しかけたところを。……かばったりすれば、いずれ貴方も同罪に問われるかもしれないのに」
ガートルードは眉をひそめた。この男は今さらなにを言っているのか。
「最初に襲ってきたのは皇后陛下で、貴方は風の魔法で押し返そうとしただけなのでしょう? それがなぜか強力な攻撃魔法になって、短剣は皇后陛下に押しつけられて、そこへ皇帝陛下が駆け込んできたと、貴方が言ったんじゃない」
「そのようなこと」
く、とモルガンは美貌を皮肉にゆがめた。悪辣なのにどこか泣きそうにも見える、不思議な表情。
「信じたのは貴方くらいです。皆、私が皇后を殺すつもりだったにちがいないと思っていますよ」
「どうして、そんなこと」
「……貴方とて、そうなのではありませんか?」
藍色の双眸の奥に棘がちらつく。対峙する者も己も傷つける、被虐の棘が。
「どうして私を信じられるのですか? 会ったばかりの、ろくに素性も知らない男を」
「……、ブラックモア卿……」
「私はうすら汚い、卑劣な嘘つきかもしれないのに、どうして信じられるのです? ……信じて痛い目に遭うくらいなら、最初から突き出してしまえばいいでしょう?」
見惚れそうなほど美しく微笑むモルガンが、非の打ちどころのない大人の男が、ガートルードには前世の一番下の妹よりも幼い子どもに見えた。本当は信じて欲しいのに、お前なんて信じられないと突き放されるのが怖くて、自分から『どうせ信じないんだろう?』と強がる子ども。
ガートルードの返事を待たず、モルガンはまた狼蜘蛛の背中から降りようとする。
子どもならまた腕を引っ張って止める。でもモルガンは大人だ。なによりガートルードはむしょうにいらいらしている。身勝手ばかりほざく、この男に。
だから。
「……ふざけたことばかり言ってるんじゃないわよ、お馬鹿!」
「ふぎゃっ!?」
ガートルードは男の前に回り込み、腹を蹴倒してやったのだ。




