75・転生ものぐさ皇妃はおみ足の女王になる
(あ、なんかやばいかも)
モルガンに潤んだ目で見上げられ、ガートルードは反射的にそう思った。
なんだろう、この感覚。大の大人を踏み倒して、ひどいことをしているはずなのに、ふだん理知的な表情を浮かべている美貌が乱れ、白い頬が上気していくさまを見下ろしていると、もっと乱れさせてやりたくなるような……泣かせてあげたくなるような……。
「おみ足……」
熱っぽい声が漏れ、ガートルードは我に返った。モルガンを踏みつけたままだった足を、ぐりぐりと腹にめり込ませる。これはあくまでモルガンに馬鹿な真似をさせないためであり、決して本意ではないと己に言い聞かせながら。
「なぜわたしが貴方を信じるのか。そんなこと、考えるまでもないでしょう」
踏みつけたまま、ガートルードは無駄に偉そうに胸を張る。
「貴方が『やっていない』と言っているからです」
「――――!」
本当は、他にも根拠はあるのだけれど、それがなくてもガートルードはモルガンの主張を信じただろう。
もしもモルガンが本当にコンスタンツェの殺害をもくろんだとして、あんなすぐに露見するような方法をとるとは思えない。この男が本気になれば己の関与はいっさい疑わせずコンスタンツェを死なせ、大混乱に陥る帝国貴族たちを嘲笑しながら見下ろしている。そう思えるから。
「けれどあの場にとどまり続ければ、ブライトクロイツ公爵はなにがなんでも貴方を捕らえたでしょう。ろくな取り調べも裁判も行われぬまま、処刑されてしまったかもしれない。……それは貴方も、察していたのではありませんか?」
ブライトクロイツ公爵は、とにかくモルガンこそ最大の悪人で罪人だと決めつけ、身柄を確保したがっていた。まるでなにかに急き立てられるかのように。
渦中にいたモルガンが、それを感じ取っていなかったはずがない。なのに自らのこのこと公爵のもとに出頭するのは、自殺行為に等しい。
生きようと思えば生きられる命を、むざむざと捨てるなんて。
「……死んでは、いけません」
「っ!」
ぽた、と頬を伝った涙がモルガンの礼装に落ちた。踏んだままだった足を引っ込め、残念そうな顔をするモルガンのかたわらに膝をつく。
「生きているのなら、生きられる限りあがき続けて」
あるいはそれは、前世の自分に……他人のために働き続けた末に死んでしまった、櫻井佳那にかけたい言葉だったのかもしれない。
前世の自分よりも、現世の自分よりもずっと大きな手を、ガートルードは両手で握り締める。
「わたしは貴方を信じているから、死んで欲しくない。生きていて欲しい。……それでは、駄目?」
「……あ、……」
「貴方の生きる理由には……、ならない?」
「……、いいえ、……いいえ!」
ガートルードに手を預けたまま、モルガンはがばりと起き上がり、ひざまずいた。ガートルードの足に向けた焦がれるような目で、ガートルードを見上げる。
「……今まで、私を信じてくれる女性はいませんでした。母も、姉たちも、その周囲の者たちも、私の叫びに耳を貸してはくれなかった」
父親の『事故死』の時だろう、とガートルードは察した。モルガンにそれほど強い衝撃を与えられるのはきっと、彼を唯一愛してくれたという父親だけだろうから。
「ですが貴方は私を踏んでくださった」
そっと、そっと。
モルガンは頭を垂れてゆく。
「私のような無知蒙昧の愚者を、容赦なく踏んでくださるおみ足から無限の慈悲と慈愛が伝わってきました」
「え、足?」
「貴方こそ私の生きる意味。私の命です。……我が女王よ」
硬直するガートルードの靴のつま先に、モルガンは口づけた。
感じないはずのつま先の熱と、陶酔にとろける藍色の双眸。
(い、……いやいやいやいやいやいや、おみ足から伝わる慈悲と慈愛ってなに? そ、それに、それに)
「あ、貴方の女王は、クローディアお姉様でしょう!?」
真っ赤になって後ずさるガートルードに、モルガンは艶然と微笑んだ。存分に餌を与えられ撫でられた、気位の高い猫のように。
「いかなる権力者も、人の心を縛ることはできません。私を縛れるのは、我が女王、貴方のおみ足だけです」
「は、はいぃっ!?」
どうしよう、なんだかとんでもない男を手なずけてしまった気がする。今からでもブライトクロイツ公爵に押しつけ……いやいや、それはさすがに人として許されない……。
なぜか『おみ足ぃ~!』と恍惚とするブライトクロイツ公爵がガートルードの脳を侵食しそうになった時、ぽいっ、とモルガンが狼蜘蛛の背中から放り出された。不可視の手につまみ上げられ、放り捨てられたかのように。
同時に狼蜘蛛の背中も消え、ガートルードは人の姿に戻ったレシェフモートに横抱きにされていた。
放り捨てられたはずのモルガンはどこかを怪我した様子もなく、優雅にたたずんでいる。風の魔法を発動させ、着地したのだろう。
目の前には皇妃の宮殿があった。いつの間にか中の宮殿を突破していたらしい。
「ご配慮、痛み入ります。神使様」
モルガンがレシェフモートに向かい、さっと礼を取った。その長身が無傷なことに、ガートルードは今さらながらに驚く。ガートルードのつま先に口づけた時点で、怒れるレシェフモートに全身を引き裂かれていてもおかしくなかったのに。
「……せいぜい、我が女神の踏み台となれ」
嫌悪にゆがんでもなお見惚れずにはいられない異形の美貌は、殺気をまとってはいなかった。
「それこそ本望にございます。私の身も心も、我が女王のおみ足の下に」
「うむ」
(おみ足の下に、ってなに? レシェも『うむ』じゃないわよ、どうしてそこで突っ込まないのよ!?)
誰も突っ込まないので自ら突っ込み役を務めざるを得ず、ガートルードは頭を抱える。
ジークフリートとリュディガーとの交錯を目撃しなかったガートルードには、推し量れるはずもなかった。全力とはほど遠かったとはいえ、蜘蛛脚の一撃を防いでみせたジークフリートとリュディガー。利用する価値のある人間の存在に、レシェフモートが気づいてしまったことに。
ガートルードがまだ人間たちに交じって生きることを望む以上、レシェフモートも人間と関わらざるを得ない。ならば完全に人間を排除するのは不可能……ではないが、得策ではない。ガートルードの機嫌を損ねないためには。
次善の策として、レシェフモートは利用できる人間の存在だけは許すことにしたのだ。
ガートルードを崇め、世知に長け、祖国シルヴァーナでも高い地位と地盤を持つ。幼いガートルードと人間社会に疎いレシェフモートの足りない部分を補うには、うってつけの人材だ。
モルガンもモルガンで、その気になれば眼差し一つで自分を葬り去れるレシェフモートが背中の上での行動を制止しなかった時点で、利用価値を見出だされ、存在を許されたことを察していた。
種馬を逃れるため、モルガンが暗躍していることも、おそらくレシェフモートにはお見通しだろうとも。
異形と異端の貴族の利害は一致した。だから争わない。……少なくとも、表立っては。
(レシェがわたし以外の人間をすぐ排除しなくなったのは嬉しいけど、女王とかおみ足とか気になるところばっかりなんだけど!)
そんな二人の内心など知るよしもなく、混乱するばかりのガートルードのもとに、エルマとロッテの留守番組が駆け寄ってきた。狼蜘蛛の出現に驚き、外に出てきたのだろう。
「エルマ、ロッテ!」
おみ足と関係ない二人の顔を見ると、乱れていた心が少し落ち着く。
ガートルードはレシェフモートの腕の中から大きく腕を振った。二人はガートルードの無事な姿に表情を緩めるが、モルガンの存在に気づき、ぎょっとする。
「そ、……そちらのお方は……」
身構えるロッテに、モルガンは貴族らしい優美な笑みを浮かべ――名乗りを上げる。
「私はモルガン・ブラックモア。我が女王のおみ足にひざまずく下僕にございます」




