56・転生ものぐさ皇妃と呪われた騎士
「ブライトクロイツ卿、私からも長年の貢献をねぎらわせてください」
指揮杖を手にしたアンドレアスの横から、コンスタンツェが語りかける。
彼女の目配せを受けた侍女が、美々しく飾られた黄金の台座を捧げ持ってきた。ビロードのクッションに載せられているのは、朝日をかたどった勲章だ。
無数のダイヤモンドで構成された朝日を、ルビーでこしらえられた小さな薔薇が囲むデザインは、男性の軍人に贈られるものとしては可愛らしすぎる気もするが。
「……紅薔薇は皇后の紋所のひとつです。おそらくあれは、皇后が自身の名で新たに創設した勲章でしょうね」
モルガンがひそやかに教えてくれた。
なるほど、コンスタンツェは時の人であるジークフリートに我が名を冠した勲章を贈ることで、影響力を強めようとしているのだろう。なかなかにしたたかである。
「貴方の献身と忠誠を称え、聖コンスタンツェ勲章を授けます」
誇らしげに告げ、コンスタンツェはクッションから勲章を持ち上げた。
ネーミングからして、ガートルードに授与された聖ブリュンヒルデ勲章を意識しているのは間違いない。ちらりとこちらへ寄越された優越感たっぷりの視線も、その証拠になるだろう。
(皇后陛下、本当にどうしちゃったの?)
コンスタンツェを快く思わない貴族だってたくさん参加しているのに、そんなふるまいに及べばますます彼らの反感を買うだけだとわからないのだろうか。
アンドレアスもアンドレアスだ。なぜ妻のうかつな行動をとがめないのか。子を産めなくても正妻に据え置いたほど、愛する女性なのに。
ジークフリートにいたっては、仮にも帝国最高の女性である皇后の名を冠した勲章だというのに、ちっとも嬉しそうではない。むしろどこか呆れたような、苛立っているような……。
……ぞわり。
寒気に似た感覚がガートルードの肌を這うのと、コンスタンツェがびくんと身体を震わせるのは同時だった。
「……っ、ひぃっ!?」
よろめいた弾みで、コンスタンツェの手から勲章が滑り落ちた。侍女が必死に伸ばした手さえすり抜け、勲章は地面に落ちる。
コンスタンツェはアンドレアスに支えられ、転倒せずに済んだが、運の悪いことに踏ん張った足先には落ちた勲章があった。尖った靴の爪先に蹴飛ばされた勲章は階段を転がり、地面から少し顔を出した石にぶつかってやっと止まる。
しん、とあたりは静まり返った。
ガートルードが見た限り、勲章に傷はない。ほんのちょっと土がついた程度だ。
だが皇后が己の名を冠して作らせた勲章を、皇后自身の手で……しかも衆人環視の中、授与される本人の目の前で落としてしまった。その事実こそが最大の傷だ。
元々、皇帝夫妻はジークフリートとも対魔騎士団とも最悪に近い関係だった。祝賀式典を催すのは、彼らとの関係改善が第一の目的だったのだ。
なのに当の皇后がそれを台無しにしてしまった。
故意ではなかったのだろう。だがコンスタンツェがわざとではないと主張しても意味はない。ジークフリートにどう受け取られたか、それがすべてだ。
もしも『皇后は対魔騎士団を侮辱した』とジークフリートが糾弾し、対魔騎士団も追随したら。騎士たちは怒気もあらわにコンスタンツェを睨みつけており、ありえない事態ではない。
皇后としてこうした場には慣れているだろうに、なにが起きたのか。
「あ、……ああ、違う、違うの、私は……」
「皇后、しっかりしろ。皇后!」
コンスタンツェはアンドレアスの腕の中でがくがくと震え、夫に何度呼びかけられても応えない。
駆けつけた侍医が治癒魔法を使っても、顔色は濃い化粧の上からでもわかるほど青ざめていくばかりだ。身体的な異常ではないらしい。
困惑と驚愕、そして緊張が支配する空間で、ジークフリートがオパールの左目を眇めた。コンスタンツェを非難するつもりか。ガートルード以外の誰もがそう思っただろう。
けれど。
(……なんだか、苦しそう?)
そっと横を窺うと、眉をひそめたレシェフモートが耳元に唇を寄せてきた。
「あの男、呪われていますね」
「呪い……?」
「あの眼帯の奥から、非常に強い呪いの気配を感じます。普段は己の魔力と精神力で抑え込んでいるようですが、なんらかのきっかけで魔力が揺らぎ、呪いが溢れ出たのでしょう」
ではコンスタンツェは、その呪いにあてられてしまったのだろうか。
ジークフリートの右目は魔獣討伐の折の傷が元で失われたという。浄化魔法で傷を浄化できなかったせいだろう。その時倒された魔獣が、死に際、ジークフリートに呪いをかけたのかもしれない。
(呪い……邪悪なるもの、だったら!)
「殿下!?」
目を見開くモルガンを置き去りに、ガートルードは皇帝夫妻と二人を取り巻く人々を追い越し、階段を駆け下りた。
レシェフモートが付いてきてくれているのは、ちゃんとわかっている。ふわりと広がったスカートの裾から覗く足に、なぜかモルガンが注目していることも。
「皇妃殿下!?」
「いったい、なにを……」
静まり返っていた貴族たちがにわかにざわめく。
突き刺さる視線は、レシェフモートがうっとうしそうに睥睨しただけですぐに散った。
「ブライトクロイツ卿。大丈夫ですか?」
「……、……皇妃殿下?」
驚愕をにじませたオパールの左目がガートルードを捉える。その瞬間、ガートルードは眼帯の奥に、左目よりもなお深く澄んだ右目の幻を見た。失われたはずのそれの美しさに引き込まれそうになる。
(……ミロのヴィーナス、だったっけ……)
前世ではサモトラケのニケと並び、知らぬ者はいないほど有名だった女神の像。その両腕は失われており、あまたの研究者が復元を試みたものの、いまだ成功した者はいない。
にもかかわらずヴィーナスは人々の心を惹きつけた。人々は失われた両腕に、己の理想を重ねるのだ。
それぞれが理想とする最上の美。欠けているからこその美に見惚れながら、ガートルードはジークフリートの眼帯に手を伸ばす。
呪いはすなわち邪悪なるもの。ガートルードの持つ破邪の力で退散させられるはず、だったのだが。
むにっ。
触れる寸前、ジークフリートがとっさに顔を逸らしたせいで、ガートルードの手は眼帯ではなく左の頬に触れてしまった。男性とは思えないほどみずみずしくやわらかな感触を堪能する間もなく、ジークフリートは膝をついたまま器用に後ずさる。
『……ぁぁ!』
耳の奥でかすかに響いた悲鳴は、ジークフリートを呪った魔獣のものだろうか。それにしてはかん高く、弱々しかったが……。
「殿下! 大事ございませんか!?」
青ざめるジークフリートにすっとレシェフモートが立ちはだかり、冷ややかに見下ろした。ガートルードは今にも自分を抱いて立ち去りたそうな異形の前に進み出ると、ジークフリートに触れたてのひらをさらしてみせる。
「わたしは平気です。貴方こそ大丈夫ですか?」
「っ……、……はい、……?」
ジークフリートはなんの異常もないガートルードの姿に動揺し、さらに左頬に触れてまたもや動揺し……と、さっきまでの冷静さが嘘のようなうろたえぶりだ。
まさかこれも呪いなのか、そのうちタワシでコロッケを作り始めたらどうしよう。ガートルードはだんだん心配になってきたが、幸いにもジークフリートはすぐ落ち着きを取り戻した。
「皇妃殿下、……我らが貴婦人」
深く身をかがめ、ガートルードのスカートの裾をほんの少し持ち上げると、そっと唇を落とす。貴婦人たちが色めき立ち、紳士たちからは声にならない悲鳴が上がる。
「我らが生きて帰れたのは、殿下の偉大なるお力あってこそ。我ら対魔騎士団の感謝と忠誠はとこしえに殿下のものにございます」
ひく、と喉を震わせる皇后コンスタンツェの前で。
ジークフリートはうやうやしくガートルードに言上した。




