55・転生ものぐさ皇妃と終わりの始まり
ガートルードのために用意された席は、皇帝夫妻の斜め後ろにあった。一段高くなっているので、小柄なガートルードでも座ったまま練兵場を見下ろせる。
隣の席についていた青年がさっと立ち上がり、ひざまずいた。
「ガートルード殿下。再びの拝謁が叶い、この上ない喜びに打ち震えております」
「ブラックモア卿」
黒絹の礼装がひときわ人目を惹く美しい青年、モルガンは比喩ではなく長身を小刻みに震わせていた。片眼鏡の奥の藍色の瞳は、一途にガートルードを見上げているのだが。
(ん? なんだかちょっと視線が低いような……)
モルガンの眼差しはレシェフモートに抱かれたガートルードの顔、ではなく、ドレスの裾から伸びる足に注がれている。
大人の貴婦人は爪先まで隠れるドレスをまとうのがマナーだが、既婚者であってもまだ六歳のガートルードはくるぶし丈が許されるため、胸元と同じ小さなブーケとリボンに飾られた靴を履いた足がしっかり見える。
ガートルードくらいの年頃の少女が正式な社交の場に出てくることは、めったにない。めずらしいからだろうか、と思ったが、それにしてはモルガンの眼差しは熱を帯びているような……。
「レシェ」
なんとなく落ち着かなくなり、ガートルードはレシェフモートにお願いして地面に下ろしてもらった。す、とモルガンに手を差し出すのは淑女のたしなみだが、モルガンの視線を動かしたかったからでもある。
「……ありがたき幸せにございます。我が花の妖精よ」
小さな手を取り、手の甲に口づけるモルガンが嬉しそうなのにどことなく残念そうでもあるのは気のせいだろうか。
ガートルードはまた落ち着かなさを感じつつ、レシェフモートの手を借りて席に座る。
レシェフモートはガートルードの右側、モルガンは左側の席につき、絶世の美男子二人を侍らせたガートルードに羨望と嫉妬の視線が集中する。背後に控えたエルマだけは、『さすがです、皇妃殿下!』と誇らしげににこにこしているが。
視線の主にはコンスタンツェも含まれており、ガートルードはげんなりしてしまった。お望み通り紅色は着てこなかったのに、これ以上なにをどうしろというのか。だいたい、モルガンを招待したのはそちらではないか。
(……違う。わたしじゃない)
コンスタンツェが自分ではなくその横、モルガンを睨んでいることに気づき、ガートルードは首を傾げた。
ヘルマンの処分とガートルードの去就について、皇帝夫妻と外務大臣がモルガンと内密の交渉を行っていることは知っている。帝国側の失態が大きすぎるため、王国側が圧倒的有利に運んでいることも。
詳しい内容までは極秘事項のため本決まりになるまでは知らないし、ヘルマンの引き渡しと自分の離婚だけは絶対に避けるつもりでいる。だがモルガンが相当に厳しい条件を突きつけているであろうことは、容易に想像できる。
だからコンスタンツェがモルガンに悪感情を抱くのは無理もないのだが、あの視線は手強い交渉相手を疎むというよりは、もっと単純で強い感情……そう……。
(……憎悪?)
見間違いかと思った時、ガートルードは皇帝夫妻を挟んだ向こう側の席に座る人物に気づいた。
歳は四十代を過ぎたあたりか。黒々とした髪もオパールのような瞳もアンドレアスとは似ても似つかないが、品よく締められた首元のタイは皇族であることを示す紅色だ。
「あれはブライトクロイツ公爵クラウスです。目の穢れとなりますゆえ、あまりご覧になりませんように」
レシェフモートが耳元に唇を寄せ、ささやいた。
きゃあっ、となぜか貴婦人たちから歓声が上がり、忌々しそうに変化したコンスタンツェの視線はガートルードへ向けられる。どんなことでも、ガートルードが自分より注目を集めるのは我慢ならないらしい。
そしてそんな騒ぎを聞きつけたのか、我関せずとばかりに腕を組んでいたブライトクロイツ公爵がこちらを振り返った。
ふっと笑い、すぐにまた前を向いてしまったが、ガートルードはかすかな寒気を覚える。爬虫類じみた瞳に、まるで値踏みされたようだったから……だけではない。得体の知れないなにかが、ほんの一瞬、公爵を取り巻いたせいだ。
――私は……、もう……。
同時に低く蠱惑的な声が聞こえた気がして、ガートルードはびくりと肩を震わせた。
どこかに閉じ込められ、名前まで奪われたという魔獣の王。眠っている間は毎夜のように話しかけてきたけれど、今は昼間で、ガートルードは起きているのに。
――もう、……が……。
なにかを告げようとするそれは、階下に並んでいた楽隊が吹き鳴らす高らかなラッパの音色にかき消された。
ざわめきが静まり、貴族たちが着席する。立っているのは、警護を担う騎士を除けばアンドレアスとコンスタンツェの皇帝夫妻だけだ。ちらり、とコンスタンツェがガートルードに愉悦の笑みを寄越す。
均された練兵場の大地に穴を開けそうなほど強い視線が突き刺さる中、凱旋門をくぐり、一糸乱れず行進してくるのは対魔騎士団だ。実際の騎士団にはこの数十倍の兵士が所属しているのだが、式典に参加するのは騎士階級以上の者のみである。
皇帝やその一族の身辺を守る近衛騎士団がえんじ色に金糸の刺繍が施された礼装をまとうのに対し、対魔騎士団のそれは黒一色。腰に佩く剣も一切の装飾を省いた実用本位のものだ。皇帝の御前に出るには飾り気がなさすぎる。
にもかかわらず彼らを無礼だととがめる声が上がらないのは、一目で歴戦の勇士と知れる剛健な姿と――先頭で彼らを率いる隻眼の騎士がひときわ大柄な長身から放つ覇気の賜物だろう。
(あの人が、ジークフリート……)
皇帝夫妻の肩越しに、ガートルードはじっと観察する。
黒髪とオパールの左目は父のブライトクロイツ公爵と同じ色彩だが、ジークフリートのそれはより青みが強く、引き込まれてしまいそうなほど深く澄み、そのくせ妖しい光を揺蕩わせている。本物の宝石なら、金貨の山と引き換えにしてでも手に入れたいと渇望する者たちが熾烈な争いを繰り広げるだろう。
顔立ちはアンドレアスやリュディガーよりも父に似ている。ブライトクロイツ公爵は前世ならハリウッド俳優でも務まりそうな、人目を惹く美形だ。
だがジークフリートは大衆に奉仕する側ではない。ひざまずかせ、奉仕させる側だ。見る者にそう思わせるオーラこそ、従兄弟たちとの数少ない共通点なのかもしれない。
きっと、ここにはいないあの人も、成長したら――。
(ヴォルフラム皇子……)
たった二度しか会っていないのに、なぜか懐かしさを感じる面影を思い浮かべている間に、ジークフリートと対魔騎士団は皇帝夫妻の御前までたどり着いた。皇帝夫妻の特別席の前には装飾された階段がある。
ざっ、と数十人の騎士が合図もなくいっせいにひざまずく光景は圧巻で、貴族たちも息を呑んだ。
「今ここに、対魔騎士団団長ジークフリート・ブライトクロイツより皇帝陛下と我らが貴婦人へ、魔獣の討伐完了及び帰還を報告申し上げます」
ジークフリートの低く寂びた声は、張り上げているわけでもないのによく通った。もっと聞いていたくなるような、聞いていると落ち着かなくなるような。
「よくぞ無事で戻ってきてくれた。そなたたちの帰還とこれまでの献身を心から嬉しく思う。帝国の安寧はそなたたちあってこそだ」
威厳をまとって応じるアンドレアスの前に、ジークフリートは階段を上って進み出ると、手にしていた杖を恭しく差し出した。
三十センチほどの長さのそれは黄金でできており、大粒のルビーやダイヤが嵌め込まれている。儀礼用の指揮杖だ。これをジークフリートからアンドレアスに返すことで指揮権を返すことになり、対魔騎士団も正式に帰還を果たしたことになる。
「長きにわたり、大儀であった」
指揮杖を受け取った瞬間、翡翠の瞳とオパールの瞳が絡み合う。
先に目を逸らしたのは、アンドレアスだった。




