50・皇帝と皇后(第三者視点)
「……それでアンドレアス様は、ブラックモア卿の打診をお受けになるおつもりですの?」
「ありえない。余の皇后はコンスタンツェ、そなただけだ」
力強く断言され、コンスタンツェの心は浮き立った。だがモルガンに対する怒りも不安も、消えはしない。
「ですが、ガートルード皇妃を皇后に立てるのはクローディア女王たっての希望なのでしょう? ……断れるのですか?」
「……」
「アンドレアス様……」
痛みをこらえるような表情で、コンスタンツェは悟ってしまった。
アンドレアスは、アンドレアスという一人の男としては断固断りたい。なぜならコンスタンツェを愛しているから。妻はコンスタンツェだけだから。
だが、皇帝としては――二人の愛を引き裂くモルガンの打診を、受け入れざるを得ない。コンスタンツェの夫である自分と皇帝である自分、二人の自分の狭間で苦しんでいるのだと。
(なんということ……)
これならまだ、最初のガートルードとフローラの交代案の方がましだった。
これほど苦しんでいるアンドレアスなら、フローラがどれほど美しい姫でも、コンスタンツェを裏切ったりはしなかっただろう。輿入れ前に孕むような恥知らずなど、放置しておいても構うまい。
だがアンドレアスに打ち明けた以上、モルガンはガートルードを皇后に立てるよう迫るだろう。クローディア女王の愛を得るために。
こんな願望を打ち明けたのだから、クローディア女王もきっとまんざらではないのだ。夫のある身で、若く美しい男と秘密を共有するなんて……。
(……もしかして、あの男さえ)
「あの男さえいなければ、ガートルード皇妃とフローラ王女の交代だけで済むものを」
コンスタンツェの心に浮かんだのとそっくり同じ考えを、アンドレアスが忌々しそうに吐き出した。
最初はガートルードとフローラの交代さえ絶対に嫌だと拒んでいたのに、さらにひどい案を提示されたことで、拒んでいた案の方がましだと飛びついてしまう。そんな自分に疑問を覚える余裕は、今のコンスタンツェにはない。
「あの男さえ、いなければ」
コンスタンツェもつぶやく。
クローディア女王は信頼のおけるごく少数の者にしか、己の望みを明かしてはいないだろう。帝国に派遣された使節の中では、間違いなくモルガンだけのはず。
もしもモルガンがいなくなれば――クローディア女王の望みを知る者が消えれば、交渉は自動的にフローラとの交代案に決まるはずだ。
こんなはずがない、とクローディア女王が思っても、モルガンに託した密命を漏らすわけにはいかない。交渉はそのまま決定する……。
「そう、あの男さえいなければ、余とそなたは引き裂かれずに済むのだが」
「あの男、さえ」
憎い憎いあの男。コンスタンツェが苦難の末に実らせた純愛を、己の欲望のためにぶち壊そうとしている悪魔。
百年前、聖なる皇女ブリュンヒルデが邪悪なる魔獣の王、沼の王を打ち倒したように。
コンスタンツェも――。
「……アンドレアス様。私……」
胸にみなぎる決意を告げたコンスタンツェにアンドレアスは嬉しそうに微笑み、情熱的な口づけをくれた。
ニーナが戻ってきたのは、アンドレアスが自室に引き揚げてからしばらく経った後だった。
「ああニーナ、戻ったのね。心配してくれたのに、さっきはすまないことをしたわ」
「こ、皇后、陛下?」
他の侍女たちに手伝わせ、気に入りのドレスに着替え、化粧まで済ませて機嫌よく迎えたコンスタンツェに、ニーナは面食らっているようだった。
無理もない。ここ最近は身だしなみは最低限に整えるのが精いっぱいだったから。
「あの、……お加減はもう、よろしいのですか?」
「ええ、もうすっかり」
コンスタンツェはにこりと微笑んでみせる。アンドレアスからもらった情熱と愛情を思い出せば、笑みは自然と艶を帯びた。
エリーゼの悪夢が脳裏から消えたわけではない。おそらく眠ればまた彼女は現れるのだろうが、今夜からアンドレアスが毎夜共に眠ると約束してくれた。ヴォルフラムを授かった日から、……ぶりに、……。
(あら? 私は、いつからアンドレアス様と共寝をしていなかったのかしら……)
浮かびかけた疑問は、ニーナの羨望を帯びた眼差しに溶かされてしまった。二十二歳にもなっていまだに婚約者もいないねんねには、今のコンスタンツェはまぶしいくらい光り輝いて見えるだろう。
(アンドレアス様がそばにいてくだされば、エリーゼ様なんて怖くないわ)
「あ、あの、でしたら陛下、お願いが……」
浮かれるコンスタンツェに、ニーナがおずおずと申し出る。愛される女の余裕で、さっきのお詫びも兼ねてたいていの願いは叶えてやるつもりだったが。
「三日でいいのです。宿下がりを……」
「駄目よ!」
コンスタンツェは言下に拒んだ。さっきまでの申し訳なさは、一瞬で吹き飛んでしまっている。
(なにを考えているの!)
対魔騎士団の帰還祝賀式典まで間がないこのタイミングで、皇后の手足となって働くべき侍女が宿下がりなんて許されるわけがない。
コンスタンツェ自身も、やるべきことが山積しているのだ。これまでの分も、どんどん挽回していかなければならないというのに。
「今がどんな時期か、忘れたわけではないでしょう? ニーナ、貴方の力が必要なのよ。わかって」
ニーナがびくっとしたのを見て、コンスタンツェは語気を和らげる。ニーナは従順で素直な娘だ。いつもならこれで納得してくれる、はずだったのだが。
「……いつも、そうではありませんか」
「え?」
「今まで何度も、宿下がりをお願いしました。何度も何度も。けれど陛下は、いつかきっと、とおっしゃるばかりで、私はもう、三年以上、家に帰っておりません」
(三年……もうそんなに経つの)
言われてみれば、最後にニーナの宿下がりを許した時、ヴォルフラムはまだ生まれていなかった覚えがある。
皇族付きの侍女でも半年に一度は宿下がりをするのが普通だから、確かに異常な長期間、皇宮に引き留めてしまっている。でも仕方がないのだ。高位貴族の令嬢ではなかったコンスタンツェには、絶対的な信頼の置ける侍女が少なすぎるのだから。
そんなことはニーナもわかっているはず。
なのに今日に限って、しつこく食い下がる理由は……おそらく。
「もしかして、婚約者でも決まったのかしら」
「……! 違います、私は……」
「いいのよ、隠さなくて。女の人生で一番大事なことは、どのような殿方と結ばれるかですもの」
コンスタンツェほどそれを実感している女はいないだろう。しがない伯爵令嬢が、皇帝に見初められたがゆえに今や皇后と崇められる身分に……かつての主人、公爵令嬢エリーゼよりも格上の女になったのだから。
「きっとお兄様が……貴方の父上が決められたのでしょうけれど、私からお兄様にお断りするよう伝えておくわ。だから宿下がりはしなくていいわね」
「えっ? へ、陛下……」
「お兄様が決めてくる相手では、貴方の歳も考えたら、せいぜい子爵家程度でしょう。式典が落ち着けば、私がもっと良いお相手をあてがってあげるわ。ね?」
「違うんです陛下、私は!」
まだ反論しようとするニーナに、かすかな苛立ちを覚える。コンスタンツェの力をもってすれば侯爵夫人だって可能なのに、どうしてわざわざ下々の男の妻に甘んじようとするのか。
「私がすべてやってあげるから、貴方はなんの心配もしなくていいのよ」
「っ……」
「この話はここまで。いいわね?」
ニーナが戻ったら手伝わせたいことが山ほどあったのだ。
返事を待たずに背を向けたコンスタンツェは、ニーナが拳を握り締め、悔しげに自分を睨んでいることに気づかなかった。
次からガートルード視点に戻ります。




