49・皇后は憎悪の花を咲かせる(第三者視点)
恐怖は目覚めても終わらなかった。閉ざされた寝台の帳の中に、長い黒髪の女がたたずんでいたのだ。
うつむいていたが、それはエリーゼだった。間違いない。
追いかけてきたのだ。夢の中から、コンスタンツェを。
『いやぁぁぁぁぁっ!』
たまらず絶叫し、布団の中に逃げ込んだ。どれくらい震えていたのか、布団の上から揺さぶられた時は死を覚悟したけれど。
『陛下、皇后陛下、大丈夫ですか?』
声をかけてきたのはニーナだった。コンスタンツェはようやく息を吐き、布団から顔を出したが、すぐに引っ込めてしまった。かすかに漂う薔薇の残り香を嗅いでしまったせいで。
『エリーゼ様がいる……!』
『皇后陛下? なにをおっしゃって……』
『エリーゼ様が、エリーゼ様がそこにいるのよ! 大きな裁ちばさみを持って、ほら……』
コンスタンツェは震える手だけを出して必死にエリーゼのいたあたりを指差した。ニーナは命じられるがまま何度か探してくれたけれど、そのたびに首を振った。
『そのような女性は、どこにもいらっしゃいませんでした。……あの、陛下。今日の公務はすべて取り止めになさって、休養されてはいかがでしょうか』
『私がおかしいとでも言いたいの!?』
コンスタンツェが疲労のあまり幻覚でも見たかのような口調がひどく気に障り、思わず怒鳴ってしまった。
泣きそうな顔のニーナが去っていってしまった後、罪悪感はすぐ襲ってきたけれど、エリーゼがどこかにひそんでいるかもしれない恐怖の方が大きかった。
どこかへ行ってしまったニーナはまだ戻らない。他の侍女が様子を見にくることもない。
(ニーナが戻ったら、謝らなければ……)
優しいニーナはコンスタンツェを心配してくれただけなのに、悪いことをしてしまった。そう思えるだけの余裕がよみがえっても、恐怖は完全には消えてくれない。
ニーナの言う通り、少し休むべきなのか。だがジークフリートたち対魔騎士団の帰還祝賀式典の開始は、あと半月ほど先に迫っている。皇后として、なすべき公務は山ほどあるのだ。
休むわけにはいかない。子を産めないコンスタンツェが公務まで休みがちになったら、新たな皇后を望む貴族たちが大声で騒ぎ立てるに決まっている。
それはきっと、自国の貴族だけではない。
(……あの男も……)
紫紺の髪に藍色の瞳の、禁欲的なのにどこかなまめかしい毒蛇のような男。シルヴァーナ王国からの使者、モルガン・ブラックモア侯爵。
コンスタンツェの体調不良を知れば、あの男はここぞとばかりにフローラをガートルードの身代わりに差し出そうとするだろう。
外務大臣以外の貴族たちも、モルガンの提案を知れば賛同する者は多いはずだ。フローラならシルヴァーナの血を引く健康な皇子を産んでくれるかもしれないのだから。
頼れるのは夫、アンドレアスだけだ。アンドレアスだけはいつでもコンスタンツェを選んでくれる。フローラよりも……エリーゼよりも。
(……そうよ、エリーゼ様より私の方が愛されていたわ)
だからアンドレアスはコンスタンツェを皇后にした、それだけの話だ。しかもそれはエリーゼが病死してからのことだった。エリーゼが生きている間に思いを通じ合わせたわけではない。
だから、コンスタンツェは裏切っていない。エリーゼに非難される筋合いはない……。
……カタン。
「ひっ!?」
小さな物音が聞こえ、コンスタンツェは大きく身体を跳ねさせた。ニーナが戻ってきたのか。それとも……エリーゼが……。
「……コンスタンツェ? どうした?」
とまどったように声をかけてきたのは、どちらでもなかった。おそるおそる布団から顔を出せば、見下ろしているのはアンドレアスだ。
皇后の寝室と皇帝の寝室は続き間になっており、部屋をつなぐ扉はアンドレアスなら自由に通れる。
「ア、アンドレアス様……」
「なにやら様子がおかしかったので、来てみたのだが……なにかあったのか?」
「アンドレアス様、アンドレアス様……!」
多忙を極めるアンドレアスに心労をかけてはいけないと、ここ最近の怪異については口をつぐんでいたし、ニーナや侍女たちにも絶対に報告しないよう命じていた。
なのにアンドレアスは、コンスタンツェの憔悴に気づいてくれた。
やはり頼れるのは、この人しかいない。
コンスタンツェは布団をはねのけ、アンドレアスに抱きついた。
「……エリーゼ様が、私を責めるのです……」
「エリーゼが?」
アンドレアスは驚きつつも、コンスタンツェの乱れた髪を撫でてくれる。嬉しい。結婚した時から、アンドレアスはこの髪を誉めてくれた。
抱き締めてくれる腕の頼もしさに安堵がこみ上げる。アンドレアスへの配慮など忘れ、コンスタンツェは切々と訴えた。これまでの出来事と、それによって自分がどれほど恐ろしい思いをしたのかを。
「……それで私、このままではあのブラックモア卿がフローラ王女を本当に連れてくるのではないかと、恐ろしくて……」
「……そうだったのか」
アンドレアスはコンスタンツェの背中を優しく撫でてくれた。
「安心しろ。フローラ王女が帝国に来ることはない」
「まあ……!」
ぱああ、とコンスタンツェは顔を輝かせるが、アンドレアスの端整な顔には苦渋がにじんでいる。たちまち胸に巣食った嫌な予感は、すぐさま的中してしまった。
「……先日、ブラックモア卿の希望で、ひそかに対面の場を持った。その折、あの男は打診してきたのだ。皇后を廃し、ヴォルフラムも廃嫡した上で、ガートルード皇妃を皇后に立てないかと」
「えっ……?」
後ろから頭をいきなり殴られたような衝撃だった。
皇后を……アンドレアスに尽くしてきたこの自分を、廃する? 二人の愛の結晶のヴォルフラムも廃嫡する?
「交渉ではフローラ王女とガートルード皇妃を交代させると主張していたが、それはシルヴァーナの貴族の大多数の意見で、クローディア女王の望みは違うそうだ」
「……それは、どういう……」
「いまだに王女を産めていないクローディア女王としては、本当はガートルード皇妃に戻ってきて欲しくないのだ。女神の愛し子と名高い皇妃が戻れば、いずれ女王が産む王女より、皇妃の立太子を望む声は大きくなる」
女神の神威によって成り立つ王家は、女神の意向を無視できない。ガートルードが王太女となり、そのまま女王に立てば、クローディア女王が王女を産んでも女王にはなれない可能性が高い。
ましてやすでに生まれている二人の王子、ヘンリーとイアンは『女王の息子』ですらなくなり、ますます粗末に扱われるのは間違いない。
クローディア女王としては、ガートルードを取り戻す以外の手段で自国の貴族の怒りを鎮めたかった。それがガートルードの立后だ。
シルヴァーナの王女がコンスタンツェを廃して皇后となり、いずれ生まれるシルヴァーナ王家の血を引く子が皇帝となる。それならシルヴァーナの貴族たちも納得する。
ガートルードが子を産める身体になるまでの間は、リュディガーに皇太子を務めてもらえばいい。リュディガーはガートルードに剣を捧げた身だ。ガートルードが皇子を産めば、おとなしく皇太子の座を譲り渡してくれるだろう。
「ブラックモア卿の本当の狙いは、余と秘密裏に交渉し、クローディア女王の願いを叶えることだったのだ」
「あの男、よくもそのような恥知らずな真似を……!」
怒りの炎を燃え上がらせつつも、コンスタンツェはモルガンの行動そのものには納得していた。
モルガンはクローディア女王の新たな王配候補だという。たいそうな美女だという女王に、きっと恋い焦がれているのだろう。
ならば女王の歓心を得るため、危ない橋を渡るのは当然だ。なぜなら、コンスタンツェも愛するアンドレアスのためならなんでもするから。
(血も涙もない冷血漢だと思っていたのに)
かすかな共感を覚えたが、だからと言ってガートルードが自分に代わり皇后に……アンドレアスと並び立つ正妻になるなんて許せるものか。




