34・隻眼の騎士の帰還(第三者視点)
モルガンとガートルードが初対面を果たした、その日。
ソベリオン帝国で大規模な地震が発生した。実に百年ぶりの地震だった。
幸い、人的被害は少なかったが、帝国の人々の心には大きな衝撃をもたらした。
彼らの中では、地震はかつて帝国の領土を荒らし回り、あまたの民の命を奪ったという魔獣の王……沼の王に結びつけられているのだ。
沼の王は伝説の聖女、ブリュンヒルデ皇女によって打ち倒された。その事実を疑う者はいない。少なくとも帝国人には。
ならば――と、彼らはおののく。
百年ぶりの地震は、沼の王ではない新たな魔獣の王誕生の前触れではないか……?
今の帝国には破邪の力を持つガートルード皇妃がいるが、彼女の力は『邪悪なるものを寄せつけない』ものであり、魔獣の発生そのものを阻止するものではないという。
だが、皇妃は帝国入りを果たした時、不入の土地に巣食う魔獣の群れを消滅させるという奇跡を起こした。さらに女神シルヴァーナの神使レシェフモートまで賜っている。
万が一新たな魔獣の王が生まれたとしても、ガートルード皇妃さえいれば帝国は守られる。
ヴォルフラム皇子の健康と未来という点でも、ガートルード皇妃の離婚は絶対に阻止されなければならないものになった。
「……限界、か」
ほう、とアンドレアスはため息をついた。物憂げな翡翠色の瞳の先には、華やかな鎧をまとった女性の姿絵。さらにその隣には、アンドレアスと同じ翡翠色の瞳と金髪の初代皇帝の肖像画。
「仕方ない。予定より少し早いが……」
どくんっ。
規則正しく脈打っていた心臓がわずかに乱れたことに、アンドレアスは気づかなかった。
百年ぶりの地震から五日後。
皇宮に程近く、高位貴族の帝都屋敷が集中する中でもひときわ広い敷地と壮麗さを誇るブライトクロイツ公爵邸に、一台の馬車が到着した。飾り気のないそれから降りてきたのは、右目を黒革の眼帯で覆った偉丈夫――公爵家の嫡男、ジークフリートだ。
「若様、お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ」
迎えに出ていた老執事が頭を下げ、他の使用人たちも倣う。さすがは名門公爵家、使用人にも躾が行き届いている、とは言いきれない。
メイドたち……特に雇われて日の浅い娘たちは、頭を下げたままちらちらとジークフリートを窺っている。
公爵家のメイドともなれば名士の娘や裕福な商家の娘、下級貴族の令嬢もめずらしくはない。貴人を見つめることは無礼だと、きちんとわきまえている。
その上で目を奪われてしまう存在感と魅力が、ジークフリートにはあった。
父公爵と同じ漆黒の髪はさほど手入れをしているようには見えないが、女性もうらやむほどつややか。黒の騎士服は近衛騎士団のそれと違い実用本位のデザインで、華やかな飾りのたぐいは一切ないけれど、かえって帝国人でも群を抜いた長身と鍛え抜かれた肉体を際立たせている。
しかしなんと言っても目を引かれるのは、端整な顔を彩るオパールにも似た不思議な色合いの瞳だろう。
こちらも父公爵譲りだが、ジークフリートの方が青の色彩が強く、引き込まれそうな深みがある。魔獣との戦いで失われたという右目、眼帯に覆われたそれはいったいどれほど魅惑の輝きを放っていたのか。誰もがうっとりと想像する。
やや強面とも言える顔立ちと眼帯の厳つさはおかげでたいぶ和らぎ、ひとはけのなまめかしさすら漂う。従兄弟のリュディガーが貴公子なら、こちらはしなやかな黒豹か。
「なんて素敵なお方なのかしら……」
色めき立つ使用人たちには一瞥もくれずジークフリートが屋敷へ入っていくと、メイドの一人がうっとりとつぶやき、周囲もうんうんと頷いた。
「あれほどの美男子で、皇帝陛下の従兄弟で公爵家の嫡男。なのにどうして対魔騎士団なんかに」
「望めば近衛騎士団の団長にでもなれたでしょうに。そうしたらきっとご令嬢がたが群がっていたわ」
「妹君のエリーゼ様が、あんなことにならなければ……」
「……貴方たち!」
若いメイドたちの群れに、肩をいからせたメイド頭がずかずかと近づいていく。
「よけいなおしゃべりばかりしているのではありません! まだまだ仕事は残っているのですよ!?」
「は、はいっ!」
慌てて持ち場へ戻っていくメイドたちに、メイド頭は嘆息する。
やはり女主人のいない屋敷は、使用人の躾が行き届きにくい。この公爵邸は公爵夫人がジークフリートの妹、エリーゼを産み落とすと同時に亡くなってからというもの、女主人の不在が続いている。
だから、新たな女主人の登場は喜ぶべきことなのだが……。
「あの方ではねえ……」
メイド頭は苦い顔で首を振り、屋敷に入っていった。
「おおジークフリート、よく帰った!」
ジークフリートが玄関に入ると、待ちわびていた父ブライトクロイツ公爵クラウスが満面の笑顔で出迎えた。数年ぶりに会う父に、ジークフリートはうやうやしく礼を取る。
「ただ今戻りました、父上」
「長旅で疲れたであろう。いいワインを用意させてあるぞ。久しぶりに酌み交わしながら、会えなかった間の話でも聞かせてくれ」
久しぶりもなにも、ジークフリートが父と杯を交わしたことなど一度もない。
昔から親子らしい交流はおろか、遠い辺境へ体調を気遣う手紙一通も寄越さなかった。笑顔を見たのも今日が初めてかもしれない。
(なんだ? やけに上機嫌だな)
「申し訳ありません。明日は皇帝陛下に謁見を賜る予定ですので、早めに休んでおきたいのです」
嫌な予感を覚え、ジークフリートはやんわりと断る。
すべての人間は自分の思い通りになって当然の父だ。たちまち不機嫌になって嫌味の嵐と覚悟したが、ブライトクロイツ公爵は一瞬眉をひそめたものの、すぐにまた笑顔になった。
「そうか、そうだな。しかし、久しぶりに帰ってきたのだ。酒は無理でも、お茶くらいならいいだろう?」
「……そう、ですね。短い間なら」
渋々頷いたのは、父の目尻に以前はなかったしわを見つけてしまったせいだ。
時間は貴賤に関係なく、誰にでも平等に流れる。さすがの父も歳を取って身の程知らずの野望を忘れたのかもしれない、と期待した自分が愚かだったと、ジークフリートは家族の居間へ移動してすぐに思い知る。
「お帰りなさい、ジークフリート」
「……ティアナ? どうしてここに?」
ティーセットを運んできたのはメイド頭ではなく、父の弟の娘……従妹のティアナだったのだ。実家のフォルトナー公爵家からアッヘンヴァル侯爵家に嫁ぎ、ヘルマンという嫡男までもうけたはずだが、フリルやリボンをあしらった可愛らしい薔薇色のドレスは、人妻とは思えない。
「ティアナはニクラスと離婚したのだ」
「離婚? いったいなぜ……」
いきさつはどうあれ、ティアナは元公爵令嬢である。ニクラスがいくら望もうと、そう簡単に離婚できるわけがないのだが。
(……それは離婚されて当然だ。むしろ持参金も没収せず実家へ帰してくれたのなら、温情ですらある)
離婚までの次第をブライトクロイツ公爵から聞かされ、ジークフリートは頭を抱えたくなった。
叔父夫婦が溺愛し甘やかしまくったせいで、どうしようもないわがまま令嬢に育ってしまったティアナには、兄リュディガーも手を焼いていた。二度と迷惑をかけないよう、両親共々監視下に置かれているはずの彼女が、なぜブライトクロイツ公爵邸にいる?
「決まっている。ジークフリート、お前の妻になってもらうために保護したのだ」
ブライトクロイツ公爵が悪びれもせず言い放った。息子より淡いオパールの瞳の奥には、昔と同じ……いや、さらに強い野望の光がぎらついている。
「お前はいずれ皇帝になるこの私の唯一の嫡男、つまり未来の皇太子だ。皇族の血を引くティアナなら、お前の子を産むのにふさわしいだろう?」




