32・転生ものぐさ皇妃、新たな扉を開ける
「我が女神」
黙していたレシェフモートがふいに動き、ガートルードを抱き上げた。
直後、ぐらりと視界が揺れる。
「……っ!?」
違う、揺れているのは部屋全体だと気づいたのは、シャンデリアや調度類が暴風にさらされたかのように揺さぶられていたからだ。体幹が強いはずのエルマも膝をつき、ロッテはそばのテーブルにすがっている。
影響を受けていないのはレシェフモートとその腕に抱かれたガートルード、そして床にひざまずいていたモルガンだ。驚きと警戒の眼差しであたりを窺っていた彼は、藍色の双眸をすがめ、身を低くしたまま床を蹴る。
「っ……」
テーブルごと倒れそうになっていたロッテを引き寄せ、押さえつけるように壁際で伏せる。
近くの棚から重たそうな陶器の女神像が落ち、床で粉々に砕けたのはそのすぐ後だった。もしモルガンに助けられなければ、像はロッテの頭を直撃したかもしれない。
(……ロッテを、助けた……?)
縁もゆかりもないはずの、他国の侍女を助けるなんて。
意外な行動にガートルードが目をぱちぱちさせる間にも揺れは続く。レシェフモートに守られたガートルードには伝わらないはずなのに、なぜか軽い浮遊感に襲われる。
――……、イ。
困惑する頭の奥に響いた声はかすれ、ほとんど聞き取れなかったにもかかわらず、くらりと甘い酩酊をもたらすほど魅惑的な男性のそれだった。
――苦……、シイ。
(『苦しい』?)
思わず復唱すると、きん、と頭の奥が鋭く痛んだ。
――苦しイ苦シい苦しい、……、シイ。
まるで深い水底に沈められ、もがいているような。覗き込んだガートルードごと、引きずり込もうとするかのような。
(……どうして、そんなに苦しいの?)
不安に襲われながらも問いかけてしまった瞬間、また頭の奥に痛みが走った。
……いや、これは痛みなのか? 何か細い糸のようなものが、絡みついてくるような……。
「……死に損なったか」
忌々しそうな舌打ちと共にレシェフモートの魔力が膨れ上がり、絡みつく糸を断ち切った。あの声もぴたりと聞こえなくなり、揺れも少しずつ治まっていく。
完全に揺れなくなるまで、体感では二分ほどだろうか。ずいぶん長い地震だ。
地震は生まれ変わってから初めてである。前世では地震大国日本の国民だったから、大地震から小規模な揺れまで経験したけれど。
(さっきの声はいったいなんだったのかしら。レシェはなにか心当たりがあるみたいだったけど……、って、そうだ!)
「……レシェ、宮殿内の火の元をチェックして。異常なければ次は扉がきちんと開くか、中に閉じ込められている人がいないか、倒れた家具や割れた食器のチェックも」
「かしこまりました」
レシェフモートは軽く目を見張りつつも、魔力を素早く宮殿全体に張り巡らせていく。まるで蜘蛛の糸のように。
(宮殿はレシェに任せておいて大丈夫ね。あとは……)
ガートルードはうずくまったままのエルマに呼びかける。
「エルマ、貴方は大丈夫? 怪我はない?」
「は、……はい。大事ありません、皇妃殿下」
エルマはふらつきながらも立ち上がるが、ずいぶん顔色が悪かった。大きな地震だったし、この世界の人々は地震に慣れていないのかもしれないけれど、それだけにしては様子がおかしい気がする。
「ブラックモア卿、わたしの侍女を助けてくださりありがとうございます。怪我はありませんか?」
次はモルガンだ。
ロッテを抱え、どこか呆けたようにガートルードを見つめていたモルガンは、藍色の瞳をぱちぱちとしばたたいた。
「……とんでもないことでございます。非常事態とはいえ、女性に失礼な真似をしてしまいました。私はなんともありませんが、お嬢さん、貴方は?」
「私も怪我一つございません。お助け頂かなければきっと無事では済まなかったでしょう。お礼を申し上げます」
ロッテもモルガンの手を借りて共に立ち上がるが、やはりエルマと同じく顔色が悪かった。ガートルードの中で違和感がまた大きくなる。
ただ地震に馴染みがないだけなら、モルガンも同じ反応をしていてもいいはず。だがモルガンはどこかぼんやりしてはいるものの、ロッテやエルマたちのように顔色を失ってはいない。
「我が女神。宮殿内に火を使っている場所はありませんでした。開かなくなった扉、閉じ込められた者、共にございません。倒れた家具や壊れた食器などは複数発見し、すでに修復を終えております」
魔力の捜査を終えたレシェフモートが報告してくれる。こういう時、レシェフモートの力は本当に便利だ。前世でさえ相当な時間と人手がかかる被害状況の把握が、ほんの数分足らずで完了してしまうのだから。
「そう、良かったわ。ありがとう」
「我が女神のお役に立てるのならば、この程度、いつでも喜んで」
「……ガートルード殿下」
遠慮がちにモルガンが呼びかけてくる。さっきまでの有能な交渉人ではなく、戸惑いをにじませた表情にガートルードは首を傾げる。
「どうしました?」
レシェフモートに下ろしてもらい、モルガンの前に立って問うと、モルガンは何度かためらってから口を開いた。
「……なぜ、そのように落ち着いていらっしゃるのですか?」
「え?」
「帝国では、地震は『沼の王』出現の前触れとして恐れられていると聞きます。我がシルヴァーナ王国では地震はめったに起きません。殿下が地震を経験されたのは今日が初めてでしょうに、なぜそれほど落ち着かれているのかと……」
(地震は、沼の王出現の前触れ?)
驚いてエルマとロッテを見れば、二人は顔面蒼白なまま、こくんと頷いた。帝国では常識らしい。だからあんなに怯えていたのか。
「……沼の王は、偉大なる聖女ブリュンヒルデ様によって討伐されたのでしょう? ならば恐れることはありません。わたしが恐れるのは、人の命が失われることです」
地震の後はまず火の元の確認。揺れでドアがゆがんでしまうこともあるので、建て付けもチェック。倒れた家具の巻き添えになった人も確認。前世、地震国だった日本に生まれた者としては当然の心得だ。
皇妃のくせに帝国の常識を知らなかったことをごまかすため、なるべく真摯な表情で告げれば、モルガンは藍色の双眸を見開く。
「人の……命、でございますか……」
「ええ。どんなに高価でもモノなら替えがききますが、人の命は失われればそれまでですから」
誰もがガートルードのように、第二の人生を約束されているわけではない。
実感をこめて頷いた時、ぐらり、とまた地面が揺らいだ。
「っ……」
さっとレシェフモートが支えてくれるが、前に出てしまった脚は止められず、その先にあったものを踏みつけてしまった。高価そうな革の靴に包まれた、モルガンの足だ。
ぐにっ。
「ご、ごめんなさい!」
やわらかな感触が伝わると同時に、ガートルードは慌てて脚を引っ込めた。
怒らせてしまっただろうかと見上げれば、なぜかモルガンの白い頬がうっすら紅く染まっている。怒りではなく、羞恥? いや、あれは……。
「……どうか、お気になさらず」
少しかすれた声で言い、モルガンは初めてレシェフモートに視線を向けた。
「偉大なる女神の御心のうちを卑小な人の身で推し量るのは無礼。承知の上で、改めて申し上げます。ガートルード殿下は王国にお戻りになるべきであると」
「それは本当に、貴方の考えなのですか?」
ガートルードはじっとモルガンを見つめた。知れば知るほど、この男が新たな王配の座を欲しているとは思えなくなる。
女王の王配となり、王女の父親になれば、モルガンには栄誉と称賛が降り注ぐ。どんな願いも思いのままだろう。
だがガートルードは、モルガンがそんなものを望んでいるようには思えないのだ。
この抜け目のない男が望むのは、もっと確実なもの。
自らの手で、掴み取れるもの――。
「貴方は本当に、新たな王配になりたいのですか?」




