22・王子と王配、そして(シルヴァーナ王国サイド)
遠ざかっていく使節の馬車が豆粒ほどの大きさになるまで見送り、ヘンリーは庭の生け垣から抜け出た。
柱や家具の陰を素早くつたい、城の使用人や貴族たちに見つからないよう移動する動きには迷いがなく、こんな『お忍び』が日常茶飯事であることを窺わせる。
こそこそと動き回り、ヘンリーが戻ってきたのは後宮だ。
シルヴァーナ王国第一王子、ヘンリー。
父親譲りの茶色の髪と瞳を持つ二歳の幼子は、クローディア女王とオズワルド王配の間に生まれた長男であり、この後宮に住まうことを許された数少ない男の一人だった。
「あらヘンリー様、こちらでしたか。お父上様が探していらっしゃいましたよ」
通りがかったメイドが声をかけ、そのまま立ち去っていく。王族に直接話しかけられる使用人は貴族出身の女官や侍女のみであり、下働きのメイドが許しもなく話しかけようものなら解雇されてもおかしくないのだが、とがめる者はいない。
仮にも第一王子が供も連れずたった一人で姿を消し、短くない時間が経ったというのに、騒動にすらなっていない。いつも通りの穏やかな、よどんだ空気が後宮には満ちている。
それが異常だと正確に理解する知能はまだヘンリーにはないが、自分が周囲から疎まれていることは幼心に察していた。自分だけではない。弟である第二王子イアンも、父オズワルドも。
『せめてどちらかだけでも王女殿下であられたらねえ』
そんな使用人たちの嘆きを耳にしたのは数えきれない。この後宮で重んじられるのは女王と王女のみであり、ヘンリーとイアンがどちらも王子だったばかりに、最近では母クローディアまでもが時折居心地悪そうにしている。
「……ブラックモア侯爵様、とうとう発たれたわね」
父のもとへ向かう途中、廊下の曲がり角の向こうから楽しげな声が聞こえてきた。
壁に張りついてそっと覗けば、おしゃべりに興じているのはクローディア女王の侍女たちだ。クローディア女王がいる時とは別人のような、いやらしい笑みを浮かべている。
「侯爵様は没落しかけたブラックモア侯爵家を若くして建て直されたお方。きっとガートルード殿下を連れ帰られるはずだわ」
「そうなればめでたく新たな王配殿下のご誕生ね。あんなにお美しい殿方にお仕えできるなんて、夢みたい」
「オズワルド殿下もお気の毒にねえ」
「あら、自業自得というものではない? いくら陛下が望まれたからって、弱小男爵家の次男ふぜいが王配に納まるなんて不遜ですもの。王女殿下がお生まれにならないのは、女神シルヴァーナ様がお怒りだからかもしれなくてよ」
ヘンリーは駆け出し、そのままころころと笑う侍女に体当たりした。
「きゃあっ!?」
たいした威力はなかったはずだが、不意を突かれた侍女はよろめき、尻餅をついてしまう。だっと駆け去るヘンリーの背中を、いくつもの怒声が追いかける。
「またヘンリー様だわ!」
「なんて乱暴者なの!? 女王陛下の子とは思えない!」
「やっぱり、種が劣悪だからいけないんだわ」
「厄介者の王子なんて、さっさとどこかへ閉じ込めてしまえばいいのに……!」
(ちがう、ちがう、ちがうっ!)
ヘンリーの茶色の瞳から涙がにじむ。
(父上は、『レツアク』なんかじゃない! ぼくもイアンも『ヤッカイモノ』じゃない!)
母クローディア女王は忙しく、たまにしか後宮には来れないけれど、そのたびヘンリーとイアンを愛おしそうに抱き締め、頬を擦り寄せてくれる。『わたくしの可愛い天使たち』と呼び、たくさん遊んでくれて、一緒に寝てくれる。
なのに侍女たちはそんな母に冷ややかな眼差しを注ぎ、母が王宮へ戻ればさっきのような陰口を叩いた。
母が子どものころから仕える古参の侍女はヘンリーたちにも優しいが、ほとんどの侍女やメイドはヘンリーたちをさげすむ。母にとがめられれば少しの間は静かになるが、すぐにまた元通り。その繰り返し。
「ヘンリー! どこへ行っていたんだ、心配したんだぞ!?」
部屋に戻ると、父オズワルドが血相を変えて出迎えた。いなくなったヘンリーを本気で心配してくれたのは、きっと父だけだ。
「……ごめんなさい、父上」
父の代わりに来るという『新しい王配』を見に行っていたなんて、とても言えない。さっき侍女を突き飛ばしてしまったこともすぐに伝わり、父を困らせてしまう。
でも、許せないのだ。優しい父と母に対する悪口だけは。
「……ブラックモア侯爵を、見に行っていたのかい?」
「っ……!」
「やはりそうか。……ごめんな」
悲しげに微笑むオズワルドに、ヘンリーはぶんぶんと首を振る。
父が謝らなければならないことなんて、なにもない。悪いのは……。
「ぼ、ぼくが、おうじょだったら、よかったのに」
「ヘンリー……!」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
オズワルドは膝をつき、泣きじゃくるヘンリーをたくましい腕で抱き締める。
「そんなことを言わないでくれ、ヘンリー。お前やイアンが生まれてきてくれて、私も母上もとても嬉しいのだから」
「ほん、とう?」
「本当だとも。……二人とも可愛い、父上と母上の子だ」
優しく背中を叩かれ、あやされているうちに、ヘンリーのまぶたはどんどん重たくなっていく。
「……ごめん、なさい……」
小さくつぶやいたのを最後に、ヘンリーの意識は眠りに呑まれた。
(かわいそうに……)
眠ってしまったヘンリーをベッドに横たえ、オズワルドはため息をつく。ヘンリーの隣では昼寝中の弟イアンも愛らしい寝顔をさらしていた。
親の欲目を差し引いても、可愛い息子たちだ。女王の第一子と第二子。本当なら誰からも愛され、敬意を払われ、大切にされるべき存在なのに、王子だというだけでおろそかに扱われる。
オズワルドとてシルヴァーナの貴族だったのだから、直系王女の大切さはわかっているつもりだ。破邪の力を持つ王女の存在あってこそ、小国のシルヴァーナは侵略を受けず長きにわたり存続してきたのだから。
『先代の王配殿下は五人もの王女殿下をもうけられたのに』
『二人続けて王子だなんて』
『男の機能に問題があるのでは?』
『女神の不興を買ったのでは?』
ヘンリーが生まれてからささやかれ始めた雑言は、イアンが生まれるや明確な悪意と侮蔑の棘と化し、オズワルドに突き刺さった。
オズワルドは王配の義務を果たせていないのだから、当然だ。どれほど罵倒されても仕方ない。
でも息子たちが非難されるのには納得できない。この子たちがなにをしたというのだろう。
(……ブラックモア侯爵モルガン、か)
後宮に入る前、遠くから見たことがある。もう何年も前で、モルガンはまだ十代はじめだったが、同性さえ目を奪われる美少年だった。
きっと今は貴婦人の心を鷲掴みにする美形に成長しているだろう。……女王さえ魅了するほどの。
爵位返上しかなかったはずの侯爵家を復活させた手腕をもってすれば、モルガンは必ず交渉を成立させる。その功績をもって新たな王配になり、王女ももたらすにちがいない。女王と……オズワルドの愛しい妻と愛し合って。
……長年女王を支え続けてきたオズワルドを差し置いて、血筋と見た目と若さが取り柄の若造が……。
『悔しいでしょ?』
耳元で高い声が聞こえ、オズワルドはばっと顔を上げた。あたりを見回すが、声の主らしき姿はない。息子たちもすやすやと眠っている。
メイドはこちらから呼ばない限り来ない。侍女が訪れるのも、女王が滞在している時だけだ。
(空耳か?)
『ねえ、悔しくないの? オズワルド』
ふっと力を抜いたとたん、声はまた耳をくすぐった。しかも今度はオズワルドの名を呼んだ。
相変わらず、オズワルドと息子たち以外の姿はない。
「……私を、呼んだのか?」
だがオズワルドは問いかける。熱に浮かされたような表情で。かすかな気配のする方へ向かって。
『ええ、そうよ、オズワルド。貴方を呼んだの。息子ごとゴミクズみたいに捨てられそうな、かわいそうなオズワルド』
嘲りのにじむ口調に、傷口をえぐる言葉。口さがない侍女たちだってここまでは言わない。
けれどオズワルドはみじんも怒りを感じなかった。むしろ心が浮き立った。オズワルドだけに聞こえる声は神々しく、とろけるように甘かったから。
「お前は、……いえ、貴方様は、どなたなのですか?」
床にひざまずけば、楽しげな笑い声が降ってくる。
『わたくしはシルヴァーナ。お前たちが破邪の女神と呼ぶ存在』
シルヴァーナ王国サイド、これにて終了です。次からは帝国に移ります。




