19・皇妃の深謀(第三者視点)
「神使様……っ!」
ヴォルフラムは思わずレシェフモートに追いすがった。
糸が切れた操り人形のようにくずおれたガートルードを抱き上げ、立ち去ろうとしたレシェフモートが、このまま人の手の届かないどこかへ消えてしまいそうに見えたからだ。……ガートルードを腕に収めたまま。
「――我が女神の、仰せのままにせよ」
レシェフモートは振り向かなかった。
人ならざる金色の目はガートルードだけに注がれている。そのことにヴォルフラムは心から感謝した。もしも今レシェフモートの視界に入ったら、その瞬間、息の根を止められそうだったから。きっとリュディガーやアッヘンヴァル侯爵も同じだろう。
その証拠に、レシェフモートの姿が消えるなり、二人の口からは安堵の息が漏れた。近衛第一騎士団の団長、精強をうたわれる私兵団を率いる侯爵。どちらも武の男だが、さすがに神の使いは手に余るらしい。
「ヴォルフラム殿下」
アッヘンヴァル侯爵がヴォルフラムに向き直り、片膝をついた。
リュディガーが小さく息を呑む。ヴォルフラムも驚いた。今までこの武辺者の侯爵が皇帝夫妻や皇妃以外に膝をついたことはなかった……さげすみはしなくても、皇帝の世継ぎとして疑問視していた『欠陥品』の皇子に膝をつくとは。
「皇妃殿下は侯爵家の一員として皇子殿下に許しを乞うよう、愚孫ヘルマンに命じられました。皇子殿下にご寛恕頂けるなら、ヘルマンをお許しくださるよう、皇妃殿下からシルヴァーナの姉女王陛下にとりなしてくださるとも。……謝罪の機会を、ヘルマンめに頂戴できますでしょうか?」
「あ、……ああ。むろんだ」
かすかな高揚に胸を震わせながら、ヴォルフラムは頷いた。
ヘルマンがアッヘンヴァル侯爵家の一員としてヴォルフラム皇子に頭を下げる。この行動は政治的には非常に大きい。
なぜならヘルマン自身のみならず、ヘルマンが所属するアッヘンヴァル侯爵家もまたヴォルフラムに屈し、その派閥に取り込まれたとみなされるからだ。もちろん次期侯爵夫人たるティアナも含まれる。
ティアナの傍若無人な人となりを知らぬ者はいないが、皇帝アンドレアスの従妹という高貴な血筋ゆえ、表立って非難されることはなかった。出自の弱い皇后コンスタンツェが常にティアナへ配慮してきたことも、少なからず影響しているだろう。
だがこたびのヘルマンの暴挙によって、さすがのティアナも再起不能の傷を負った。もはやティアナは貴族夫人としては死んだも同然だ。
たとえヘルマンがガートルードのとりなしのおかげでシルヴァーナの女王に許され、身柄を引き渡されずに済んでも、恋人と引き裂かれ夫婦にさせられた夫ニクラスは千載一遇の好機とばかりに離縁を申し出る。
今回ばかりは両親のフォルトナー公爵夫妻も庇えまい。経緯が経緯というのもあるが、公爵夫妻もまたヘルマンの外祖父母として責任を追及される可能性が高いせいだ。
フォルトナー公爵は当主の座をリュディガーに譲るよう、前々からそれとなくアンドレアスに促されていた。妹に冷たいリュディガーが当主になればティアナがかわいそうだからと突っぱねていたが、こうなっては拒みきれないかもしれない。
嫡男でありながら家督を継承できずにいたリュディガーには、さほどのとがめはないだろうが……。
極めつけの厄介の種だったティアナを結果的に排除し、アッヘンヴァル侯爵家に多大な恩を売り、派閥に引き込んだ。
成人した貴族子弟でも難しい離れ業をやってのけたヴォルフラム皇子の評価は、間違いなく上がる。少なくとも『欠陥品』となじる声はずいぶん小さくなるはずだ。
(……皇妃殿下は、ここまで見通した上で侯爵に条件を出されたのか)
ガートルードが聞いたら『えっ、わたしは皇子に丸投げしただけなんだけど』と泡を食って否定しただろう。
しかしここにヴォルフラムの間違いを指摘する者はおらず、優秀な頭脳は真実からは遠いが間違っているとも言いきれない答えを導き出す。
(箱入りで育てられた六歳の王女にできることじゃない。やはり皇妃殿下は……殿下も、僕と同じ……?)
いつもは意識の底に沈めている『神部薫』が浮かび上がる。
あの判断力と深い洞察力は、相応に年齢と人生経験を積んだ者のそれだ。ヴォルフラムがこうしてガートルードやアッヘンヴァル侯爵の意図を分析できるのも、三十歳の医師だった薫の記憶や知識のおかげ。年齢のままの幼児だったら、『欠陥品皇子』に雨あられと降り注いだ悪口雑言で潰れていたにちがいない。
(皇妃殿下もまた僕と同じように別の世界で歳を重ね、何らかの事情で亡くなり、この世界に転生した存在なら……子どもとは思えない聡明さにも説明はつく)
だが、ガートルードが彼女であるという証拠はどこにもない。あるのはあのポニーテールに重なる懐かしい面影だけ。
いっそ本人に確かめてみようか。
迷った瞬間恐ろしいほどの美貌が脳裏をよぎり、ヴォルフラムは即座に馬鹿な考えを打ち消した。
前世の話をするならなるべく人払いをして、できたら二人だけで話したいが、あの神使が許すわけがない。申し出たとたん息の根を止められるかもしれない。
(……アレはいったい、何だ?)
女神シルヴァーナの遣い、神使だとみなは言う。実際に神々の縁者の証である銀色の髪の主だし、計り知れないほどの魔力と圧倒的な覇気は、人間ではありえない。
しかしそれが神々……人間を見守る聖なる存在のものかと問われると……。
(『沼の王』……)
かつてこの帝都一帯を荒らし回り、甚大な被害を出したという魔獣の王が思い浮かぶ。当時の皇女ブリュンヒルデが四肢と引き換えに討った逸話は今や英雄譚として語り継がれているが、たとえこの身を犠牲にしてもレシェフモートには傷一つ付けられまい。
ガートルードにはこれ以上関わるべきではない。
本能はそう警告しているのに、どうしても彼女と重なる面影が頭を離れてくれない。
「ヴォルフラム殿下。申し訳ありませんでした」
リュディガーが深々と頭を下げ、ヴォルフラムは我に返る。
父アンドレアスの従弟であるこの貴公子には、ずっと可愛がってもらっている。前世の記憶がなければ、頼れる親戚のお兄さんとしてすっかり懐いていただろう。
三十歳の男の目から見れば、あまりに非の打ち所がなさすぎて少々引いてしまう。……いや、これは……。
(……たぶん、嫉妬……なんだろうな)
女性が夢中になる華やかな容姿。社交的な性格。病とは無縁の健康でたくましい肉体。卓越した武術と魔法の才能。リュディガーが当たり前のように備えている長所と美徳は、どれもヴォルフラムにはないものばかりだから。
もしもヴォルフラムがリュディガーだったら、きっと迷わずガートルードの騎士になっただろう。騎士になれるほど健康なら、そもそもガートルードが家族から引き離されることもなかったわけだが……。
「皇妃殿下に剣を捧げ、もったいなくも帝国までの道中をご一緒し、殿下の清らかな心根に感じ入るばかりでしたのに、私はあのお方の小鳥のように繊細なお心に気づいて差し上げられなかった。あれほど家族を求めておられたものを……面目次第もございません」
リュディガーは苦悩に美貌をゆがめ、アッヘンヴァル侯爵の頑固そうな顔も曇る。胸に広がる苦々しい気持ちは、きっと三人とも同じだろう。
いち神官としてシルヴァーナ神殿に入れる。レヴィン伯爵の所業をかんがみればあまりに生ぬるい罰ではないかと、首をひねる者も多いだろう。
だがここにいる三人にはわかっていた。正確にはまったくわかっていないのだが、わかるつもりになっていた。なぜガートルードがそんな『罰』を望んだのか。
神殿に入る者は、俗世でのあらゆるつながりを絶たなければならない。親兄弟の縁も、妻子との縁も、友人の縁も、何もかも。外出も外部の人間との面会も厳しく制限され、たとえ親や我が子が死に瀕していようと、駆けつけることすら叶わない。
……ガートルードと同じように。
ガートルードの場合、手紙や贈答品のやりとりはいっさい禁じられていないし、シルヴァーナ王国から姉姫たちが訪ねてくれば歓迎されるだろう。
だが破邪の力を持つ王族は簡単には国外へ出られず、姉姫たちの訪問はほぼ不可能と言っていい。帝都に縛りつけられるガートルードは、今生ではもう二度と肉親と会えない可能性が高いのだ。
(僕の、せいで……)
きゅっと唇を噛み締めるヴォルフラムを、若き従者がやるせなさそうに見つめていた。
次回からはシルヴァーナ王国サイドのお話です。




