60・沈めて、しまえなかった
淹れ直してもらった紅茶で嫌な予感を洗い流していると、扉が開き、小袿姿の麗人が現れた。同時に墨染色の小鳥も飛び込んでくる。
「カイレン! ライ!」
「妾の姫御子」
「ちゅん!」
とんっとレシェフモートの膝から床に降りれば、ライがガートルードの肩にとまった。とんとんと足踏みしながら銀の髪を引っ張る仕草から、ガートルードを心配してくれていた気持ちが伝わってくる。
「ごめんね、ライ。心配させちゃって」
「ちゅん、ちゅんっ」
「ええ、もう大丈夫よ。ありがとう」
ライの方に頬を傾けると、ライも頬をぴたっとくっつけてくれる。ふわふわの羽毛とほのかな温もりが心地よい。
「ああ、……妾の姫御子」
カイレンがタンザナイトの双眸を細め、小袿の袖を優雅に揺らしながらガートルードを抱き締めた。
小袖の胸元に顔を埋めさせられたおかげで、ガートルードには見えなくなる。歓喜と慈愛に満ちた美貌につかの間よぎった失望も、カイレンに向けられたライの鋭い眼差しも。
『沈めて、しまえなかった』
カイレンの胸によぎる本音。
ガートルードがこうしてこちらの世界に留まっているということは、レシェフモートに偽りを述べなかったということだ。
もしもジーンの精神世界での出来事について、少しでも偽りがあったのなら、レシェフモートはガートルードを己の神域に連れ去り、二度と出さないつもりだった。カイレンは彼女が関わったすべてを大波で洗い流し、なにもかも失った愛し子を抱き締めなぐさめただろう。大丈夫、貴方には妾たちがいますよ、と――。
ガートルードがいばらの道を……女王の道を選ぶことはわかっていた。
そうなれば否応なしにオズワルドと、あの男の中にひそむモノに対峙することになる。
アレは、危険だ。
レシェフモートとカイレン二人がかりなら負けることはないはずだが、女神という不安要素が加わればどう転ぶかわからない。真相を知ったガートルードがレシェフモートとカイレンではなく、ヴォルフラムたち……人間を選ぶ可能性もある。
ならばいっそ関わる前にすべてを消し去ってしまえ、というレシェフモートの判断は、カイレンにも非常にわかりやすいものであった。
魔獣とは奪う者。それは愛しい者に対しても……否、愛しい者だからこそ、自分以外のすべてを奪いたくなるのが魔獣の王という生き物。
しかしガートルードは、レシェフモートを一切偽らなかった。飲まされた血によってすべてが筒抜けだと、知らなかったにもかかわらず。
だったらまだガートルードを人の世に置いておきたいと――彼女に嫌われたくないと思ってしまう感情は、彼女を通し様々な人間に関わった影響なのだろう。
「可愛い、妾の姫御子……心配したのですよ。気分は悪くありませんか? どこか痛むところは?」
複雑な感情の波立ちなどおくびにも出さず、カイレンはガートルードを抱き上げ、視線を合わせた。タンザナイトの瞳から慈愛だけを受け取り、ガートルードは頷く。
「どこも悪くないわ。ありがとう、カイレン。……心配させてごめんなさい」
「とんでもない。妾は貴方が健やかでありさえすれば、心の底から幸せなのですから」
微笑むカイレンがついさっきまで帝国周辺海域に高波を待機させておいたことも、レシェフモートの対応によっては今ごろ帝国全土が海の底に沈んでいたことも、ライがカイレンの目玉をくり貫いてやりたいと思っていることも、ガートルードは知るよしもない。
「カイレン……」
ガートルードはそっと小袖の胸元に頬を寄せ、まぶたを閉ざした。首筋にふわふわした羽毛の感触。ライが身体をくっつけてくれたのだろう。手を握ってくれるのはレシェフモートか。
(……わたしは、一人じゃない)
姉たちが死んでしまっても、たった一人生き残った姉とは決別しても、義兄と呼んだ人を敵に回しても。
前世とは違う。一人じゃない。
だったらきっと、どんな道だって歩き通せる。
『思う通りに生きて』
ええ、お姉様。
わたしは生きるわ。
思う通りに……果てしない道を。
――禍神シルヴァーナに、落とし前をつけさせるために。そしてあわよくば今度こそ、本当の食っちゃ寝ライフを送るために。
その後、ガートルードはモルガンとジーンの回復を待ち、二人を自室に呼び出した。
モルガンはいつもの黒絹の正装、ジーンはかっちりした上着とズボンに、ケープの付いた袖なしの外套を合わせている。前世のインバネスに似たそれは破邪魔法使いの正装だ。ジーンの婀娜めいた美貌を理知の光で照らし、内側から輝かせている。
初対面の時のすさんだ姿とは別人のようだ。きっとこちらが本来のジーン……エメラインの愛したジーンなのだろう。
二人とも顔色がいいことに、ガートルードは安堵した。うっかりおみ足隊(偽)にあの世まで拉致されかけたジーンは特に心配だったが、晴れやかな表情を見る限り、完全に立ち直れたようだ。……ただし中二病は不治の病なので、要経過観察だが。




